白馬会瞥見

  • 香夢生
  • 二六新報
  • 1900(明治33)/10/30
  • 1
  • 展評

展覧会も上景気で目出度閉会を告げたから駄評の筆を擱くこと にして、白馬会といふものに就いて少し聞き及むだことを言はうそも此会の紀元と言ふのは、去ぬる年黒田久米の両氏が仏国より帰朝せし時に基 するので、廿七年に明治美術展覧会に其初影を洩し、廿八年の同展覧会にて始めて其新彩が世人に認められ、新派旧派の呼声頓に起 るに至り、超えて翌二十九年の夏頃に芝三田の某縄暖簾に、黒田久米 の両氏を始め十余名の洋画家が村醪を酌みつゝ談論の結果明治 美術協会より分離して此会が美術界に産声を挙ぐるに至 ツたので、其年の十月に第一回展覧会を開き新幟を樹てたので ある、僅に五星霜を経しのみにて今日の隆盛を来たしたのは、機運の然らし むる所とはいへ、会員諸氏の熱心に基せしは言ふ迄もない、所が燈台下暗 しの譬に洩れず、邦人間には此事を知れるもの少いのである、然るに独乙人アドル、フイツシヤー氏は其著Wandlungen im Kunstleben Japans.(日本 美術評論(にほんびじゆつひやうろん))中に逸早くも白馬会のことを詳しく書いて日本に於 ける洋画はやがて白馬会の手に落つるならむと迄言ふて居るので西洋人は フイツシヤー氏の著書によツてはや普く知ツて居るのである、彼のオールリツク氏も、その一人で日 本に滞留中なるを好機とし喜んで今回の展覧会に出品した のであるさうだ、
世間からは印象の極端に奔ツて居とか灰神楽のやうだとか誹られても、美術院派の朦朧体と好一幅対であると罵られても、諸子は泰然 として、画は議論で画けるものでない、口の先よりも腕を揮ふが肝要で あると、世間の妄言に対して論駁もせず弁解もせずに、一意専心誠実に研究 して居らるゝのは実に感じ入ツたことである、諸子にして孜孜勉めて止むなくむばフ イツシヤー氏の言の通りに日本に於ける洋画の光明は白馬会の独擅 に帰すること疑ひなしである、妄評多罪(完)

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