白馬会展覧会漫評(上)

  • 同行二人
  • 毎日新聞
  • 1899(明治32)/11/16
  • 1
  • 展評

先づ場内を一と渡り過ぎて見て感じたのは是れといふひどい拙作……屑がないこ とだ慥かに昨年のお手際より総体に進歩を表はして居る何紙だかの新聞では大作がなくツて前回より見劣りがするとか妙な理屈を書いたが近年そ んじよ其処等の宗徒の面々が大物を書き出したので唯だ其技倆に拘 はらず出品の面積が大きくさへあれば悦ぶ癖があるには困る唯だ面積の大 きい計りの者が沢山だからとて一向貴くはない展覧会は人の眼を惹 く商売主義の者と違ひ一の競技会であれば小粒者なればとて其技倆の 優れたるが多ければ即ち或る技術の展覧会として成効して居るのである 一寸したことだが社会の対美術眼の発達に関係するから斯る小言も必要だとおもふ
先日の鑑査会で採定せられた作品を重もに漫評しよう磯野吉雄氏の「たそがれの萩」一寸好画題であるが既に沈みたる所の空の工 合が第一に佳い萩の薄暗いので充分誰彼の心も見へるが遠近が何ふであろうか萩と門との距離に合しては門が少し小さ過ぎる様だ 門袖の土塀も附き方が一寸確でない
北蓮蔵氏の「遺児」と白瀧氏の 「蓄音器」は会場中での大作だが何れも作家の経営惨憺を見る に足者である「遺児」は遠景の森や空の工合もよく人物は僧の衣服 などよく出来て居るが其アナトミーに於て甚だ欠けて居る僧の左足は足 の先き丈けが衣に附いて居る様で膝の部が全く説明されて居 ない童児の足も同く膝無しで又足の揚げ方が大抵同じで葬式の訓練と云ふ気色がある此等デツサンに就ては前回にも批評が有つたに其 侭は少々不親切ジャろうぞ、後ろの二人の男は前に割合はして総体に小さ過ぎるは一寸気に掛る扨て此画に就ては茲に大議論がある 読画社会の多数は如何に見給ふか知らぬが此遺児の未だ頑是なかるべき小児の方に少しも無邪気な所がない菓物を手に持ツて居て も其顔に表はせる情は矢張棺桶に在るかの如く憂の顔である此画は悲が主であろうが其表情の方法を得て居ない景色人物一として 悲調を帯び■るはなく一転茲■変化の妙を見せ反映に依りて悲哀 の情を観者に感ぜしむるといふ妙が無いは余り正直過ぎた画方である此頑 是なき小児に此悲の中で一点無邪気な所があツて始めて相反映し観者に思はずホロリと来る妙機を逸したは惜しいことであつた此種の画 を作るには別けて此反映が肝心であるのだ小林萬吾氏の「魚貰ひ」是も好画題 ではあるが人物が何れも活動を欠いて居る小品ながら「漁浦晩景」「夕の森」などは採定せられた丈け好い、前者は森と空の色が よく晩景の情も充分である後者は森の説明が唯だ充分に徃つて 居ない小代為重氏の中では「女の肖像」が一寸目に附いた顔や髪の毛 など中々うまいが後ろの竹垣が少し眼に障りて肖像の邪魔になるやう である

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