白馬会評(承前)

  • 亜丁生
  • 東京日日新聞
  • 1898(明治31)/11/17
  • 4
  • 展評

中村勝治郎氏の作は団欒を稍ゝ可とす
ジユリエツト、ウイツマン女の芍薬は昨年已に一見を経しもの、粉黛者流の画としては筆力健にし て着色亦た可、守株自ら居る画家に取つて好個の参考品なるべし
白瀧幾之助氏の休息大幅にして人目を惹くに足れど、後方なる麦圃 や、堤や、径や、其何れもが同様に、円まり居る辺に服する能はず想ふに未だ十分着色を了せざりしならむか、人物の出 来より見るも、今少しく後方を精細に描かざれば調和を欠くか如し、人物は頭より手足の微に至るまで非難すべき点なし但し農夫帰樵 の姿とせばモデルの選択を誤りしの嫌あり何となれば此の人物にては零落せる旗本と見られ得べければ 也、稲村は氏が特有の濃き着色、上乗とや評せん
ロドロフ、ウイツマン氏の水汲婦及秋の並木細君の画に比し技倆は一歩を譲れるも、参 考品中の上なるもの
黒田清輝氏の昔語斯る大幅は氏にあらざれば決して成功すべからず氏にして初めて此作を成し得たりと は蓋し何人も異論なき所ならむ此画の偏額としてにあらず壁画として描かれたるは一目瞭然たり而して其の主眼とする所、 僧に在り、観者宜しく僧の形と、手の構へ処と衣の色等とに着目せざるべからず、僧の形に就いては往々非難の声を聞けども、評者 は寧ろ彼の奇妙なる手付が観者をして反つて凄悽の感を為さしむるに幾層の力あらしむるを覚ゆ若し彼の此の手 付無らむには何に縁つてか小督の昔語たることを覗ひ得む彼を囲める芸妓舞子等が感に打たれて聴く中に或は横を向けるあり 或は熱心に傾聴するあり各々其感覚の異なるを示せる所極めて巧妙なりと云ふべく又周囲の婦人服装が美なるに反 して僧の見る影もなき姿の観者の眼を集中せしむる技倆に至つては決して他の得て擬すべき所にあらず而して賓 たる芸妓舞子其他の人物の一個々々に就いて見るも亦た間然する所なく評者は此画に対して全然同意を表せざる能はず次ぎに佳品と目すべきは干物の画なるべし形、色共に備はり一の偏額として場中の白眉と謂ふべし人或は物 淋を賞して逸品と為せども評者は寧ろ彼を捨てゝ此を採らむ
ウオーター、グリツフヰン氏の肖像画斯くまで粗雑に描き去りても一個の立派なる紳 士と見ゆる処技倆の優れたるにあらざれば能はず、我国の画家が枠の中に押嵌めたるが如き肖像を描き筆の何れより下されたるかも分らず色をば同一色に彩りて唯だ綺麗にのみ描き以て肖像画の枠を抜けるとなす今日に方りて恁る参考品を得たるは頗る有利なるを 疑はず単だ衣裳に就いては多少の非難を免れざるべきも衣裳中に斯くの如き体格の蔵まれあるとは確かに認識せら るべし、春色は一の洒落画と見るの外なし
小林萬吾氏の農夫晩帰、農夫の形、馬の形と共に宜しく馬の鼻端など殊に巧なれど其後足に 少しく申分あるを微瑕とす遠景の一本木は稍々重きに過ぎたるも概して出色の作たるを失はず春日郊外菜花と遠景、平穏にして小品中の上乗と見ゆ
北 連蔵氏の遺児の下画組立はなかなか可なるも人物の足と胴との辺に相違の点あるを認む塗上の際改削を加ふれば可ならん、冬枯は前後の木の枝に申分あれども先 づは無難に近き作なるべきか(完)

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