洋風美術界の一二

  • 毎日新聞
  • 1896(明治29)/11/29
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『黒田清輝氏』 氏が小督物語の如何に経営惨澹たるものあるかハ一とたび東台に上りて白馬会展覧会に遊ばんほどの人ハ孰れも知る処なるが更に其後景高倉帝御陵の畔を写生する為め過る廿二日凡そ三週間許り滞在の見込にてなじみ浅からぬ京都へ赴きたり
『安藤仲太郎氏』 西本願寺法主の肖像を描きて洛東法園の画家と謡はれ白馬会出品中東寺の塔に出色の誉を博せし同士も再び彩毫を携へて京に入りぬ彼地の風光にして氏の筆に上りしもの既に五十余点と聞く此度の行に依りて更に加ふる所幾何ぞ高尾拇の尾さてハ嵐山の秋色孰れ氏が画布上のものならざるべき
『岡田三郎助氏』 氏も亦黒田氏と共に京都行の一人、山紫水明斯秀才の筆を藉りて一段の勝を添ゆべく来ん年の展覧会にハ安藤氏共々京都の為めに気焔を吐かんとの気込なりとハ勇まし
『佐野昭氏』 白馬会展覧会中一異観を呈するハ可美貴命彫像者たる佐野氏が熊本第六師団凱旋記念碑の為めにせる製図なり氏が如何に緻密の頭脳を以て此設計を立て如何に精巧の手腕を揮つて此作を試むべきやは製図の等閑ならぬにても凡そハ知らるべし大作を前に控ゆるの氏は予め大に気を養ふの要やありけん黒田安藤の二氏と同行して京の旅立写真器械を携へて今頃ハ紅葉狩の最中とか
『長沼守敬氏』 氏が毛利敬信公の馬上像は今や小石川砲兵工廠内の工場に其塑製を終りぬ写真の未だ充分に開けざりし一と昔し前に在りて没せし人のことなれバ其相貌の真似を求めんこと最も難く井上伯及び公に近侍せし人々の批評を請ふて其都度之を改め最後にキヨソ子氏が曾て描きしものを参考として漸く造り上げたるよしにて其苦辛大に察すべきものあり全体に渉りて氏が技倆のほど発揮せられ優に近世有数の作として称すべきを見る目今同所に於て石膏に採り居れるが其出来ハ来春二月頃なるべしといへば山口の亀山公園内に公の再生を観るも遠きにあらざるべし
『伊太利美術工芸』 長沼氏は伊国に彫刻を学びしこととて由来同地に縁故深き人なり頃日一二の新聞紙上氏が農商務省の為めに伊国美術工芸視察として派出云々のことを記せり其事実を聞くに氏ハ曾て此辺の談を受けたることなきにあらねど未だ確定したる訳にもあらず縦令然ることあらんも敢て農商務技師なんど云へる官命を帯びてにハあらで単に嘱托に止まるべく其折は伊国威尼斯博覧会(羅馬にあらず)に関する用務をも兼ぬべしと云へり

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