秋の上野(其五)

  • 時事新報
  • 1896(明治29)/10/31
  • 9
  • 展評

白馬会展覧場
和田英作氏と岡田三郎助氏とは、共に年少にして其学ぶところに篤し、新派はこの二人に望を属すること少小ならざるべし、
和田氏は嘗て京都博覧会に鎌倉海辺の図を出だして、老成の人をして後に瞠若たらしめ、岡田氏も数次公開の場に其作を掲げて、疾く伎倆を人に知られぬ、
この二人は白馬会に少からぬ関係を有ちたり、関係とは何ぞ、他なし白馬会の前途を喋々するもの、皆二人の製作を観てその興廃を卜すればなり、二人たるもの勉めずして可ならんや、
和田氏の麦の花は、直線の野径盡るところに一叢の森を現はし、径を挟んでむら立つ麦穂肥えて撓まんとす、菜圃の春雨は、小雨しめやかに降り澆ぎて、黄花緑葉鮮なること艶拭巾もて拭ひたらんが如し、筆致の妙、色彩の巧、共に善く新派の旨を得たり、
矢口の古渡は、前の二面に比すれば画材稍大なり、水も野面も最と静に遠近の枯木目立ちて見ゆ、苦心の作なるべし、漁村、河辺の夕日、冬野の夕日又善し、少女猫に戯るゝの図は、少女の顔面とげとげしきにも似ず、何処となくだらりとして締りなきは、あまり感心せず、
岡田氏の小女麦藁を編むの図は、旧作なりと云へば暫く言はず、夜の潮は、月夜波のうねりて白く砂原を曳けるさま得も言はれず、めでたき作なり、今一ツの潮もなかなか善し、夕日は、国画に有りさうなる画材にして人の目に付き易き作なり、日光の草叢に透りたる塩梅おもしろし、
小女の図は、和田氏の小女戯猫の図と同じく、苦心の作なるべけれど差して言ふべき節なし、勉強最中の勉強画とや云はん、甘酒屋は一寸思付なり、赤行燈の色の出し工合、意気にして趣味を懐らず、甘酒に凝らずんば斯程までには、
水を隔てゝ茅屋を見せたる図は、いかにも画面の窮屈なるを見る、蓋し凝過ぎの結果なるべし、新派が力めて新しき画面を作らんとするの僻より云へば、これや僻の極端を表はしたるものならん、枯野の夕日は、草原の赤きこと火事の如し、無烟の野火と評するも當れりや、
黒田氏の樺山伯の像は、頭の禿げたる、鬚に白毛の交りたる、顔の高低を巧に現はしたる、苟くも画を視る人の直に眼に付くところなる可し、逍遥の図の小女、肉色の極めて穏にして極めて精なる、これも亦人の眼に付くところなる可し、既に人の眼に付き又兎角の評あるもの、再び喋々するも管なれば略して言はず、但し小女の顔容西洋人に似たりと云ふものあり、西洋人にしては色が黄いと云ふものあり、黄いから間の子だと云ふものあり、饒舌画家の技倆に関係あるにあらねども、序なれば記す、
奥田氏の像は、室外の空気を描くよりも室内の空気を描くは難しと云へる、その難き室内の空気を描きて、一面には自家の手腕を示し、一面には新派の画法を現はしたるものと覚し、窓紗を掛けたる 室内に、日光を背にして主像を置く、面色稍青黒くして尋常の色にあらず、唯両耳の窓紗を透して来れる光線を受けて殊に赤きを見る、斯る位置は肖像を描くに適するや否やを知らざれども、満足に新派の特性を発揮し、写空描光の法を応用するの点に至つては、能く効を奏したるものと云ふべし、旧派の企及ばざる所ならん、
奥田氏の像は、無論黒田氏の得意の作なるべし、此外に世人の未だ深く注意せずして最とめでたき作あり、何ぞや、曰く菊圃、曰く山寺、

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