秋の上野(其三)

  • 時事新報
  • 1896(明治29)/10/28
  • 3
  • 展評

白馬会展覧場
白馬会は展覧場を旧博覧会第五号室に設け、明治美術会及び絵画共進会と相隣せり、場内には蝦夷色の幕を張りて、これに按配善く製作品を懸けたり、粧飾おもしろきが上に、その製作品は推なべて粋なり、意気なり、快活なり、鮮明なり、明治美術会より出でて遽に此処に来れば、闇より明に移りたるが如く、晴れ晴れしき心地す、
製作品の最も多きは黒田清輝氏なり、秋の物語の下画三十余枚を合するときは、総て六十余品の多きに上れり、之に反して割合に少きを久米桂一郎氏とす、久米氏の製作僅に数点に過ぎざるのみならず、多くは遊学中の作にして近時の作少く、ほんの申訳許りの出品なるが如く思はる、これ久米氏が家に障ることありて、意を絵画に専らにすること能はざりしに因ると雖も、其能を顕はさゞりしは頗る遺憾なりとす、
黒田氏の製作と久米氏の製作とを併せ見るときは、黒田氏の得意は人物を描くにあるが如く、久米氏の長所は山水を写すにあるが如し、黒田氏は嘗つて裸体画を出だして、人の注意を引きたり、裸体画は浴後の少女、鏡面に対して髪を梳るの図にして、その意匠は敢て珍らしきにあらざれども、人の當面に少女の背後を写し、鏡裏の影象を借りて其前面を現はしたるは、能く尺寸の裡に技巧を恣にするの趣向と云ふべく、且つ少女の肉色際立ちて美なるに至つては、新派調色の特性を示して真に人の注意を引くに足れり、久米氏はこの際海岸の図を出だして、世の喝采を博しき、
さればこの展覧場にも割合に久米氏に山水画多くして割合に黒田氏に人物画多きは素より其所なるべし、久米氏の人物画は老女の像最も巧に出来たれども、黒田氏の逍遥の図、樺山伯の像、奥田氏の像等に比すれば、恐らくは一歩を譲らざるを得ざるならん、
久米氏の山水画は常に、強き色を用ひて画面の最と明きもの多く、黒田氏の山水画は常に弱き色を用ひて画面の仄暗きもの多し、久米氏を学んで至らざるものは鄙野繊巧に陥るべく、黒田氏を学んで至らざるものは朦朧散漫に陥るべし、この弊をば後進画家のうちに見るべし、
黒田氏の人物画は秋の物語を初めとして経営苦心の作多し、久米氏の山水画の之に匹敵するものなきは、白馬会を観るものゝ心竊に慊らざる所ならん、
秋の物語は云ふまでもなく大作なり画面の残なく成就したらん暁は、裸体画に次いて世の注意を引くべく種々の批評も出づることなるべし、今は箇々分截したる画材を聚め懸けて、画家の経営苦心の痕を示すに過ぎず、
数名の男女秋遊の帰るさに一僧の立ちて小督の昔物語をなすを聞く、これ秋の物語の趣向なり、新派が仏国より移り来りて、此国の歴史に関係ある風俗画を造るは、これを嚆矢とす、画中の人物はその大さ普通の人物と同じく、形容枯木の如き老僧あり、▲姿花の如き京女郎あり、遊冶郎あり、草刈女あり、画家其手腕を揮ふには寧ろ広きに過るも狭きに失はず、黒田氏は新派得意の色彩の法をば如何に施すべき、写空描光の法をば如何に施すべき、
黒田氏は西京に僑居して画材を集むること半歳、この大作を成すの用意は既に備りたるものゝ如し、

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