白馬会

  • 罵倒先生
  • 日本
  • 1899(明治32)/11/21
  • 5
  • 展評

博覧会出品の残物たるが為めか、例に比して頗る寂寥の観有り、殊に無趣味のスケツチ計りの数もてこなさんとする所、それも多く客員の力をかりて僅かに体裁 を弥縫せる所、平素意気軒昂たる同会に似ざるを覚ゆ彼の所謂紫派なるものは年々其紫を失し、焼けて煤けて、再びもとの木阿弥陀に返らんとするか、やがて来 ん年は黒馬会に変ずる無かとの皮肉評も、我今回の絵画に見て、必らずしも嘲罵の意のみにあらざるを知る同会の首領黒田氏がものせる室内の一面、画中の目的 果して何にあるかを解せず、物色不分明なるを免れじ如何に河村氏を罵倒する彼の美術評論記者其人の如きものと雖も、之れを前年明治美術会に出したる河村氏 の同作に比して、決して優れたりと云ひ得ざる可し、其戸山博士の肖像に至りては肉色、性格、共に能く活動せるを覚え、又前者の拙に比すべくもあらず、而か も骨格に於て多少の非難を免れざるべし、爾他和田氏のイヤミは依然たる大イヤ味藤島氏の如き尚能く健在なりやと問ひ度き程なり
白瀧氏の蓄音器、前の化粧 に比して苦心の跡少なきも而かも今回の会場中に在りては尚屈指の骨折物か三宅克巳氏は旧派の飛入、水彩画一点張の剛の者、其西洋にて描きしものはうまく、 日本にて描きしものはまづし、是れ抑も何の故ぞ、彼のうまきは模写の為めかと問へば、非らず、是れ周囲のみ、西洋に居れば周囲がうまいから自から出来もよ けれど、日本に返れば駄目となるなりといふ、呵々御尤千萬の説として暫らくは承り置かんか、遮莫前に黒田氏が明治美術会を評し是れ三宅氏の展覧会に非らず と冷評せし一言は、亦以て今回の白馬会に返却すべしと、明治美術会派の壮士は意気巻けり
北連蔵氏の遺児は場中第一の大作、其苦辛察するに足るもの有り、 而かも是れ失敗の作、其失敗や尚前の黒田氏の小督の失敗の如し、殊に其悲哀の感想に乏しきを奈何
此間に當り独り光彩を放つものは、白耳義人なる例のウヰ ツトマンの菊花の図なり、此真面目なる骨折り方ありて、初めて此の重量あり生気ある画は得らるゝならん
要するに今回の白馬会は、我等をして其の批評に力 瘤を入れしむる丈の価なきなり、願はくは又来ん春の開会には、今少し力のある作品を見んことを

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