秋の上野(其六)

  • 時事新報
  • 1896(明治29)/11/03
  • 4
  • 展評

白馬会展覧場(完)
樺山伯の像と逍遥の図とは、画材が画材なれば人の に付きやすく、菊圃と山寺とは、画材が画材なれば人の眼に付きがたし、世の画を評するものも亦殆ど前の二面を掲げて、後の二面を忘れたり、
然れども新派が立脚の根底とする一種独特の筆致を表現し、かねて黒田氏の伎倆如何を窺ふに足るべきものは、則ち前の二面になくして後の二面にあり、就中その菊花を写したるものにありとす、
菊圃は、遠山の一角曙光を放ち、夜はほのぼのと明け初めたれども、菊を植ゑたる数歩の圃は、いまだ全く明け離れず、朝靄模糊として仄暗き中に、数株の菊花光るがごとく輝きぬ、黒田氏はこれを描くに極めて粗筆を須ひ、軽々腕をふるつて近くこれを視れば、乱筆漫塗殆ど画を成さず、前に光るがごとく見えたる英も唯点々色彩を塗抹したるのみ、しかも数歩を距りてこれを仰げば、秋暁の風色宛として眼に在り、真に得易からざるの才とす、
由来新派が外に向つて喋々する写空描光の法は、能くこの一幅の画面に表現して遺憾なきが如し、蓋し黒田氏の菊を描くや、必ずしも一茎一葉を明瞭に写さず花弁の一片々々を微細に別たず、その為すところを旧派に比すれば雲泥の相違あり、極端の略筆を須ひて顧みざるは、恰も文人画の画法に類す、則ち黒田氏は写生的植物として写さずして、官能的外象として写したり、物の當に有るべき形を描かずして、眼に方に映ずる姿を描きたり、一定の時間に正視したる物像を写さずして、転瞬の間に電の如く映ずる印象を写したり、而して画面を造る所以の主力は、挙げて明暗の調和を保全するの一点に帰しぬ、新派が能く空を写し又能く光を描くと云へる所以は、誠にかゝる画法を取ればなるべし、
若し人あり、払暁■を開いて前栽の菊圃を見る、倏忽の間、わが視野に在るものは當にこの画面の如くならん、是れその官能に感得する印象を直に取りて画面に上すを得たればなり、菊圃は蓋し新派の約束を踏みて好成蹟を得たるものと云ふべし、
菊圃は、無論場中第一の出来なり、之を造りたる黒田氏の伎倆は、優に白馬会の領袖たるに足るべし、然れどもこは唯狭き白馬会の一群に付て言ふのみ、
山寺は、その能しとする所画材の組立にあり、故に新派の特色を表はすの点に付ては、菊圃に劣ること遠し、蕭條たる草庵、障子に傍ふて経机あり、着古したる袈裟の天井に懸かるあり、内に枯木の如き老僧、茶をや煮るらん火を吹いて満面朱を注ぎぬ、黒田氏は秋の物語の老僧をば、歌の中山清閑寺の某僧に得りと聞くされば此画材をも清閑寺に得たるならん、濁世を厭離して修行に余念なき仏徒の生涯写し得て頗る妙なり、他の晴れ晴れれしき画面と相対して、殊におもしろきを覚ゆ、
小代為重代の皇軍上陸の図は、又なき大作なり、わが軍隊の澎湖嶋に上陸して、初めて列を正したる状を写しぬ、或る評者の云へる如く、人物の配合全体の位置総て宜し、骨を折りたる点に至つては更に大に宜し、見答ある作なり、これに次いては蝦夷菊を写したるものを善しとす、
之を要するに白馬会は新店なり、短日月の間に斯くまで品物を並べたるは、その労大なりとす、然れども新店なるが故に、未だ煮切らざるもの少からず、その真面目は次回を待つて見るべし、
白馬会の旧派の間に立つて、新画風を伝へたるは、恰も如拙周文等の気韻画が、宮廷画の後を承けて出でたるが如し、洋画の一新時期と見るも大差なからん、

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