白馬会を評す(四)

  • 木下杢太郎
  • 東京二六新聞
  • 1909(明治42)/05/14
  • 6
  • 展評

第四室
○九里四郎氏の跪ける女。氏が一種の空想家である事は去年の土蔵の 絵や、今年の此絵などを較べて見ると分る。此絵は併し余程、嚮きに 僕が御手富貴の絵でいつたやうに材料に対する興味に捕はれてゐる。コンポジシヨンに特別な興味があるかと云ふと多少デコラチーヴだが透徹してゐない。色の配整に於て も、図案としての面白さに於ても、之れぞといふ点が無い。結局あゝいふ女が あゝ云ふ室で化粧をしてゐるといふ点が尤も作者を動かしたかのやうである。若し それ習作としては物質の表現がぞんざいで、床板が平でなかつたり、着物が縮緬だか、メリンスだか分らなかつたり爲てゐる。表情なども唯あれ丈のことだ。(一四四)のマンドリン を持つ男の肖像の如きは、一種の不愉快な誇張と形式化である。
○出口 清三郎氏の諸作のうちでは(一五七)の夕雲といふのが一番面白いと思つた。併し是等の諸作の吾人 の注意を刺激するのは、其材料が外国の風景であるといふ点である。実 際外国の風景を目睹して、それを如何に画工が見、如何に現はし たかを知らなくては完全に批評をする事が出来ない。氏のテンペラメント、氏の技量等の評価は後日を待たうと思ふ。
○跡見泰氏の稲村 冬の田圃に午後の日 の當つたほど心地のよいものはない。堅実な中に一種の温和がある。少し赤つぽ い枯草の畔に、日の爲めに黄いろく照された緑色などは、実際画をかく爲 めに田圃に行つて見た人でなければ分らない。また後ろから日に照られた稲村の両側が黄金の色に輝いてゐることや、稲村と稲村平らに連なつて ゐる地面、それらの距離間隔を明瞭に見せる空気の面白さなども知らないだら う。兎に角この絵はさういふ処を狙つたのだ。併し僕の期待は悉く此画に充されてゐない。其主調が少し黄色つぽ過ぎる。もつと色が淡く、且タ ツチが粗く、フレツシユであつたらうと思ふ。
○橋本邦助氏の朝の山 この構図は氏の新聞雑誌へかくスケツチが禍ひしてゐる。右の下の処の女の如きは点景人物の旧套 である。且物質の表現が十分でない。吾人はこの絵に織物の襞を見 るやうに感ずる。朝の山の与ふる崇高な印象は少しも無い。

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