芸苑饒舌 二十五 美術品の展覧会 其一

  • 無記庵
  • 東京日日新聞
  • 1901(明治34)/10/12
  • 7

時これ十月、序三秋に属して、郊外の散策、公苑の遊渉、そゞろに風興の情を暢ぶるに宜き 季節となつたので、例の通り美術の諸々の展覧会は、妍を競ひて上野に開かれることゝなつた。彫工会 の第十六回彫刻競技会は既に始まり、つゞいて五号館の方に、日月会、無声会、美術院、絵画 協会、白馬会などの展覧会が、この月半ばごろから来月末にかけて開かれるし、今年になつて新に出来た女子美術会 も、初回の展覧会を開くかも知れぬとのことである。明治美術会は今年やらぬといふ代りに、京都の関西美術会の展 覧会に参同して盛に出品し、以て東京の白馬会と遥に相対するといふ。何にせよ春秋二季の美術の展覧会は年一年と盛大になつて行く勢である。
かくの如く美術展覧会がますます盛になつて、どの会もどの会もみな繁盛して、観客もあれば物も売れるといふので、一そのこと、これを常住開会のものにしたならば善からうといふ考が浮かんで来る。生秀館 とやらだの、またはこのごろ始めた吉沼時計店の常置展覧会だのは、恐らくみな此処から思ひついたも のであらうと考へられる。明治美術会も、去年まで永らく常設の展覧会を開いて居つた。その外の会でも、金さへあれば 列品館を建てる、常置の展覧会を設けやうといふ企は、をりをり耳にすることである。
さてこの企が、果して展覧会 として春秋二季位に開くものゝやうに、旨く行くかどうかといふことは、随分考へものではあるまいか。これはどうも旨く行きさう で行かないものであらうと思ふ。なぜかといふと、そのわけはいろいろある
まづやかましい理屈で言へば、美術品を観て感ずる情 は、その物を始めて観た時が一番深くて、それから二度三度と同じ物を観ると、だんだん興味感情が薄らいで来て、し まひには何とも感じないやうになつて来る。それだから常設展覧会といふものは列品を時々交代させなければ、一二 度観た人は、またとは観に来なくなる。時々交代するならば、季節の展覧会を続けざまに開くやうなもので、同一列品の常設展覧会ではない。パノラマでさへ、余り永く同じ画では入りが無くなる。芝居とても同じ戯題は一月より長く はやらない。それに美術の展覧会などゝいふものは、矢張人気もので、今度は誰の新作が出た大層面白いさうだといふので、短い会期の間に是非一度は見たい、また閉会後はまたと見難いから、今一度見て置かうとい ふ、言はゞ人気で繁昌するので、若しそれがのんべんだらりと何時までゞも同じ物が列べてあるならば、何時でも見 られるといふので、評判も立たぬといふ位のものである
若しまた売れるに従ふて遣つてしまふて、新しい物を列べるならば、それは商店 であつて、展覧会といふものではない。若し名作が出たとて、直に売れゝば無くなるならば、世評にも上らず、また観に行いても間に合はず、と言ふて毎日は観に行けないから、自然買物の必要な人の外は行かぬことになる。即 ち純粋の商店勧工場に外ならぬもので、所謂展覧会の性質は失ふてしまふ。工芸品ならまだしも立 派に商店も成り立たうが、純正美術品の需要は、需要者が寧ろ直接に作者に求める方が善いから、この種の商店が果して旨く行くかどうか、甚だ疑はしい。需要者の方から見ても、かかる商店の必要を感ぜず、また作 者の方から見ると、観せるが主意の季節の展覧会に出すは善いが売るが目的となる常設の商店には、余り出し ともないことになりはすまいか

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