白馬会一見記

  • 罵倒先生
  • 日本
  • 1900(明治33)/10/28
  • 展評

凡そ今世に於て其最も進歩せざるものはと問へば、我は直に白馬会の絵画なるべしと答へん、彼等は只無暗に白ツぽく矢鱈にボンヤリ描けばそれにて上乗なりと 心得居るに似たり、曰く絵画は実物のとほりに描かざる可らずと、彼等は之れを原則として其筆を走らす、而して描き上げたるものを見れば、全く実物以外の洗 ひ晒し的の変物を作すを常とす
然れども憫むべし彼等の自身は殆んど妄信に入りて容易に茲に反省醒覚する能はざるなり、若し人あり彼等の或ものを叩き、其 実物を云々しつゝ実物以外の色彩を作す矛盾を試み問へ、彼等は即ち昂然として肩を聳かすべし、曰く卿等素人の眼と我等黒人の眼とは其間自から違ふものあ り、請ふ卿等先づ今より五六年間を油絵の研究に費し来れ、卿等が今日に見て実物以外なりとする我等が色彩も此時に於て実際の色彩たるべきを覚るに至らん と、彼等は自から持すると■かく■し以是却つて常に其己を笑ふものを罵り、彼れ俗物の徒畢竟一種の色盲のみ、彼輩は唯僅に黒と白との色を弁別するに過ぎざ るのみと云ふて、又自己が一種の色盲患者に陥れるに気付かざるなり、想ふに彼等と雖も徒らに其の道に戯るゝものにはあらず、美界の為め相応の■■を予期し て誠意斯道の進歩を願ふものなるべし而かも小我の心反省と熟慮を欠き為に誤つて邪道に陥るを知らざるに至る、其心情よりすれば一滴同情の涙なからんや、我 れ頃日東台の同会を一見し此感更に深きを致しぬ、
今回の同会は所謂先輩連の大作を見ず、従つて其作品に対する各箇評の多少張合なきを恨む、即ち黙して止 みなんか、それも余りに無禮の意なしとせず、寧ろ少しく口を開いて彼等が謂ふ所の我が毒舌を吐出せんか但だ彼にして我毒舌の却つて他が甘言より勝るを知る あらば、是れ殆んど望外の幸ならんのみ、いでや先づ場の入口よりボツボツと初めん
三宅克己氏の水彩画は準会員の肩書と共に門番受付てふ位置に据ゑられ、 悄然として見栄なき入口に掛けられたり、思ふに日々の観客中過半は眼を此画の上に止めざるもの、恐らくは露払ひ若くは前座の待遇を以て之れに興ふるものな るべし、而かも彼が水彩画は其売価に於て比較的他に一頭地を抜けるなり、題は我れ之れを忘れたりしも夕日させる原野の図の如きは、そが残照様々に反射した る所など殊に見栄あるを覚えき荒涼と題せるもの亦得易からざるの作、今少し光線の分界鮮明なりしには更に妙なるを得ん、爾他冬の林の如き雪の朝の如き、凡 手の描破し難きものを拉し来つて比較的見る可らしめたる手腕は欣ふべし、彼は多くの画家が兎角失敗せんとする物体の円味を克くし将た感情を発揮し得たり、 彼描ける筆には真面目の気充ちたり、是れ最も頼母敷ところならずや、然れども長所則ち短所てふ矛盾なるが如くして矛盾ならざるものは彼が絵画の上に現はれ たり、即ち彼が長所たる真面目は時に彼が筆をして変化に欠がしめたり、願くは彼れ更に進むで此点を補ひ来らんことを、豈学むで至らざるものあらんや
玉置 照信氏の作品は右につゞいて掛けられぬ、聞く彼は非常の勉強家との評ある前途有望の青年なりと、而かも惜むべし彼れが勉強力は其注ぐべき道を誤れるが如く あらぬ方に走れるが如し、曰く彼は一ケ月間に六七尺大の大作をも三四枚は作り得るなりと、曰く今回の出品も会場の狭隘の為め其半を拒絶されたるなりと是れ 彼れが多作を証するものに而して多作のやがて濫作に陥れるものにあらざらんや、然り彼が濫作の弊は明に其出品の上に現はれ、我をして亦一品の取るなからし めたり、就中漁夫の図の如き殆んど評の加ふべきを知らず、其の朽腐せる松の木といふべき手足、其の一■に二つばかり得らるべき面の如き顔、などは如何にヒ イキ連の褒めんとするも褒むること能はざる所なり
爾他十枚の作も渾て此調子を以てす、彼が勉強や誠に頼むべし、而かも濫作的勉強は不可、春秋に富める彼 の如き前途有望なり、當さに其勉強力を転じて傑作の上に移し、潜心刻苦して以て其真道に進め、一生百萬枚の拙作を出さんより、只一枚の傑作を出さんは美術 家の本望にあらずや
金沢悌次郎、郡司卯之助、中沢弘光、原田竹次郎、岡野栄、根津文吉諸氏の作品は又たヅラリと打揃ひて飾られき而かもいづれを見ても殆 んど尋常一様の作、特に我が毒舌を要するもの無きなり(未完)

前の記事
次の記事
to page top