白馬会展覧会(二)

  • 国民新聞
  • 1899(明治32)/11/01
  • 6
  • 展評

◎熱砂の山 筆者は山本森之助氏で巴里大博覧会出品の鑑査に及第 した画である、如何にも砂山の熱して居る色合は善く出来て、炎天瓦 礫を鎔かすと云ふ様な暑さの感念が起つて来る、唯惜しいことには、砂 の間に生いて居る草は山の上に積み重ねたものゝ様に見ゆる、此辺 は画くに就いて、随分困難な処でもあらうが、先づ一つの瑕瑾とせざるを得 ない、
◎廃園の春色 矢張前と同じ人が画いたものである、木々の梢の間から、日光 が漏れて、隈なく庭に照らして居る其意匠は、少し気が利いた様 である、けれども、全体の画面は頗る混雑して、仮令廃園とは云ひなが ら、最う少しあツさりとした処があつて欲しいものだ、之れに比ぶれば柳塘の方は遥かに勝 さつて居る、柳塘の遠方の景色の工合抔は実に善く出来た、塘辺の有様も余り悪いと云ふ程ではないが、此に力を入れなかつた様であ る、画題の上から云ふても、塘辺の景色に充分の力を用ひなければならん のである、
◎魚もらひ 小林萬吾氏の出品したものだが大に批難がある、併し悪る い部類に入れるのでは無い、此の外に夏の海辺、冬野、漁浦の晩景、夕の森などの稍目立つたもの があるけれども、氏の出品中、之れは一番に苦心したものらしい、魚もらひと云へば鳥渡可 笑しく聞ゆるが、海辺の童男童女は漁舟の帰るを待つて、鰯抔の小さい魚を貰ふのである、此画は篭を持つた小供等の待ち遠うに思 つて居る所で、其傍に漁夫が竿に網を懸けて乾さうとして居る、其意匠 は感心するの外はない、偖て避難と云ふのは、此画一面に人物は六七人も居る、其仲間以外の者とは別に関係は無いが、仲間の 者すら動作が一致して居らん、それだから、六七人共各自に動作して居る様に見 受けらるゝ、篭を持た大きい娘は何か仔細があるらしく俯いて居れば、傍 に茫然として立て居る者もある、此の俯いて居る者も、別に仔細が無いのであらう、唯だ動作が一致して居らんから、かやうに見ゆるのであらうと思はれる、
◎菊  白耳義ブルユクセル府の人ジユリエツト、ヰツマン氏が態々送つて寄越したものだそうだ、白耳義 は彼れで中々美術や音楽の盛な国である、氏の外に最う一名 の寄送者あるを以て見ても推知せらるゝ、此画幅は随分大きく且つ 奇麗に立派に出来て居る、氏は日本の美術界の事情に通じて居 るか、どうかは能う知らんが、白馬会の会員でもあれば、多分知つて居るだらうと思 はれる、されば花鳥は日本人の特長であるといふことも知つて居るだらう、そうして見 れば、此花鳥を送つたのは実に大膽なる処置である、其熱心と其大膽は賛賞せざるを得ないではないか、
◎蓄音器 白瀧幾之助氏の出品は此蓄音器の外に草刈童もある、何れも人物にして批難する処は少ない、蓄音器の方 は善く小供の精神を動作に表はして居る、一人の男の小供は器 械を操つて、二人の少女は之を聴いて笑を含んで居る、それを傍にあ る少女は、どう云ふ面白いことだらう、一瞬時も早く聴き度いと云ふ様な面持 で、頻りと熟視て居る所の有様は、恰も生きた人間を見る様 だ、迚ても尋常の腕でゞは出来る話じやない、

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