白馬会素人見の記

  • 覚童子、眠叟子
  • 読売新聞
  • 1897(明治30)/11/29
  • 4
  • 展評

鑑賞家にもあらず、見巧者にもあらず、況して批評などのなるべき際にハあらざれども、たゞ素人 見の夫れともなく、思ひ出づ事のあるに、読売の紙上に共進会音楽会などの評、とりどりなるを見て、素人のわれも一つ試みんと、うかうかと誘はれて、こゝ に白馬会の事を記すこゝとハ定めぬ。素より評など言ふにあらねバ、誤りたる 節あらバ、只管に謝せんのみ。
アンプレシヨニストと云ひ、新派と云ひ、紫派と云 ひ、欧洲にても最近の画界に、新たなる着想と新たなる着色と を以て、新機軸を出したる此派なれバ、自から気焔盛んに青春の気の溢れたるハ、観るものゝ眼を喜 ばす処なり。去年この会の展覧会あるや、カンヴァスに紫の汁を投 げつけたる、風刺画をものしゝ人ありしが、當時の白馬会の画にハ多少さる趣 もありしが如くなりしも、今年の画ハ著しく進歩して、素人眼にも可笑きハ絶えてなし。察するに彼の新派が得意とする、南欧的絢瀾の着色ハ、これを潤色されずバ、わが邦人の眼と喜ばすに足らざるものあるべし、この自然の 力ハ今年の画をして、多少趣と替へしめしか。この画堂に入りて素人の眼に嫌らぬ節一つあり。夫ハ凡て画の単調なるにあり。去年の画に黒田氏の「登つて下る 道」とか云へるありし。人の注意を惹きし佳作と見えしが、今この画堂の山水画を見るに、概ねこの種の光景を取れるものゝ如きを見たり。一條の道ありて、其処に 河あり、後景に立ち木を見せたるが、慣用の光景なり。海岸の景も数多くありたれど、大抵ハ一様の趣 にて、全画堂大方一人の手若くハ想になれりしかと、疑はゞ素人にハ疑はるべし。この派の成立日未だ浅くして、深 く究むる暇なき為めか。自然の観察ハ力めて広くすべきにあらずや。
黒田氏が裸体画ハ評判高きものなり。中なるハ感と云ひて、Impressionの意、右なるハ智と 云ひてIdeal、左なるハ情と云ひてRealの意なりとか。訳語穏かならぬ感あり。飾り 装ひの余地なき裸体を素人の見るに、其の悪感を起さしめざる丈けにて も、既に手腕の大なるハ知らるべし。この画の精しき巧拙の論ハ、素人の説き得る処ならねど、今一言見事なりとハ言ふに躊躇せざるべし。たゞ西洋の画帖に屡々見るものとハ、大いに見劣りのせらるゝを覚ゆるのみ、わが解せざる処ハ、指端其他に赤き肉色をさしたる事なり。裸体にもかゝる事するものか。甞 て読売の紙上に臀部の大きなるを言ひし人あり、如何なる理由か。美術の上にてハ、或ハ自然より長大になし、或ハ短少にする事常なるに、こ れ視感上やみ難き処たるなり。猶先年氏が裸体画の出でし時ハ、倫理体 裁の論議盛んに行はれ、攻撃の声四方に起りしに、今ハ闃 として音沙汰もなし。當年ハ不倫にして、今ハ可なるか、囂々たる俗声の頼みがたきハ斯くの如し。大膽なる黒田氏ハ力抜のしたる事なるべし。
黒田氏の画にて、裸体画に次ぎて誰れも注目するハ、「秋草」の美人と「避暑」の美人と なるべし、二つとも素人の好む処なるが、何れかと言はゞ、素より避暑の方を撰 むべし。さる専門家の曰く、紫の衣裳に同じ色の帯にて、而もこ れを紫の色したる萩の間に立たしめて、猶ほよく人の注意を惹くハ、画家の手腕のある処なりと。国民新聞の評者もこれと寸分違はず符節を合はせたるが如き ことを云ひたるハ、さすがに見巧者なり。左れど素人の観たる処は異れり。画家が苦心と手腕とハ左 ることながら、其の着意に於て秋草ハ避暑に劣れるが如し、かの婦人が容貌風姿ハ、秋草の間に置くべきに あらず、秋草の間に置かん程のものハ、風姿繊巧、露にも堪えざる如き人 なるべきに、かの姿ハ心強く気昂れる方なり。秋草ハこの点に於て既に誤れる処あるが如し。これに反して、夏の納涼の勢盛なる日にハ、かれまことに恰好なる姿なり。
湖畔の避暑にハ尤も適したり。この後景との対照の理由素人の好む処なり。凡そ人物を天景の間に置かんとならば、先づ其の処を撰ぶべ き必要あり。素人ハかの姿のよく避暑に適ひたるを以て、かれを棄てゝこれを取 れるなり。
久米氏のハさすがに皆佳作なれども、これとて特に記すべきもの、今年のにハ、素人眼に見えざれバ、暫く記さず。
和田氏ハ青年のうちにて尤も技倆ある画家なり。 数の多きも堂中第一なり。云ふまでもなく、其の卒業画なりと云ふ、『渡頭の夕暮』ハ 傑作なるべし。夕ぐれの空の色、河辺の景色、農夫等が渡しまつまの姿 、頗る巧みなり。和田氏が筆ハ天景に勝りて、人物に拙なるが如くなれども、この画に於てハ、人物中々に其の平生と趣を異にせ り。かの黒田氏が『小督』を見てハ、見劣りこそすれ、堂中黒田氏久米氏の画の外、これに及ぶものなし、且つこの画の誰れが眼にも夕ぐれと見ゆるを、後の安藤氏が『港の朝』の朝とも夕とも見ゆるに比べてハ一段の優技ありと云ふべし。
安藤 氏の『港の朝』ハ大作なれども、曖昧なるものなり。画題を見ずバ、朝夕の差付けがた し。空の色夕ぐれにも紫色を帯びたるあり。黄色の用ひ方にても注意した らんにハ良かりしに。
藤島氏がチョーク画ハ『池畔の納涼』と云へる題なりしが。画面 の大なると、画中の美人とハ、大方の注意を惹ける処なるべきか。かの美人を外にしてハ、見るべき処少なく、形のみ大いにして、与ふる処少なきやに覚 えたり。併しながらかの美人の夫れ程に注意を惹けるハ、夫れだけ画家の手腕 のあれバなる事、疑を容れず。
猶ほこの外湯浅氏北氏などのに、素人にハ面白きがありたれど長きに亘れば略す。
文を学ぶにハ、可成的纏りたる長篇を 試むべしとか。今画を見たるに、同じ想ありき。天然の一端を写したるが如 き小きのにハ、如何に巧みなるも、真の技倆を見がたし。小きが多からん よりハ、一つ二つにても纏りたる大きなるがある方勝れり、和田氏の如き数ハ多けれど、 注目せしむるハ渡頭の夕暮に限れり、新聞紙の報ずる処に依れバ、安藤 氏の港の朝ハ仏蘭西博覧会に出品さるべしとか。氏が誉れハわ れ人の共に祝ふ処なるが、左りとて審査官ハ此れに勝りたる和田氏のを 何故に取らざりしか。安藤氏の拙なるにハあらざるべきも、和田氏の方誰れが眼にも勝りて見ゆ。これハ画界の消息を知らざるやかて素人の 判断なるか。
妄言多罪

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