黒田氏の裸体画(下)

  • 時事新報
  • 1897(明治30)/11/13
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実際家 理屈家は柄に相応して何処までも理屈家で行くと云ふから僕はやはり実際家で遣らかさ う、黒田君は日本人をモデルに遣つて此画を描いたと云ふことだがアンな胴の短かい足の長い女が日本人に あるだらうか疑はしいね、併し世間は広いもので或る人が此画を見て此位のは田舎の機織女に幾許もあると云つたさうだ、これも疑はしい話だが若しあつたらお目に掛りたいね、夫れにまた手 の工合が如何にも面白くない、まるで太い堅い骨の上にスグ皮を着せたやうで如何にも いかつい、これが少女の手か腕かと思へば何となく不愍を思はれるやうな感じが起る、少女の体相を剥出 しに写すと云ふなら清らなふくよかな■■■■■■■■に択びたいものだ、此点から云ふと黒田氏が■■■■た浴後之少女の方が余程優つてるやうに思はれる、彼是比較にはならないね
外見家 モウ一つお儲に云つて置きた いのは肉色だ、外の二面は兎も角もとして左の方の肌膚の蒼過ぎるのは少し変ぢやない か、これは去年の展画場に懸けた同じ人の奥田氏の像と同じく窓紗から漏れ来る日光を背面に受けた所とか何とか多分は外光に曰くがあるのだらう、けれども今度の場合にはソンな選択 は諦めた方が善いかと思ふ、また或る人が引合に出るが肺病やみの身体のやうだと云つてるものがあ る、僕は夫れほどには思はないが何うも得策とはいひ悪い
邪推する人 仏蘭西のシャバンは裸体画を描くに能くカウ云ふ法を用ひるさうだ、シャバンには業を受けない黒田君のことだから隣の家の流儀も此位には出来ると云ふところを見せたのかも知れぬぞ
有難がる人 モシモシ些とお手柔かに願ひたい、苛政虎の如しと云ふのは政治向の比喩ですが可評 も猫か鼠ぐらゐには當ります、私はこの画を見ると有難くッて堪りません、団十郎が日蓮 を勤めますとお拈が沢山上ると云ふことですが此画にも文久銭位は投げても善 いかと思ひます、モシ御信心のお方お方お方
きほひ肌 ソウともソウとも、マツとウンと云つてお遣んなさい、早い談話が日本画は人物がいけないのイヤ陰影法が欠けてるのと生意気なことを云つてる油絵手 の内でデス、一二人を除くの外はナンでせう、百花之図を描けば葬式のときの造華のやうなものを描くし巖を描けば八頭のやうなものを描いて居ませう、ソンな人の中で苟くも、 善うがすか苟くもですよ、苟くも此位に描きこなすと云ふのは感心ぢやありませんか、人は善く云ひます、 黒田サンは暇を潰して手間を潰してカウ云ふ物を描いて居られるのが仕合だと云つてませう、です がデス、其仕合な身分で居てセツセと勉強してカウ云ふ大作を拵へると云ふのが其所が己れの気に入てる 所だ、サア誰れでも来い相手になる
裁判官 いろいろお説話もあつたが最後に私が云つて置き たいことがある、此裸体画は前に真面目君も云はれた通り大体無難の作だ、當今洋画家も沢山あるやうだが先づ此位に遣るものは無いと云つても善からう、確にこれ迄はなかつたやうだ、前に誰 れだか日本人にしては肢体の釣合が悪いと云ふ説も見えたが彼れは西洋でもモデルの完全無欠といふのは少ないもので骨格が善いと思へば肉色が悪い、頭付が善いと思へば腕が太過ぎると 云ふやうな訳で是れはと思ふものは至つて得難い、其所で画家は画面に上せる段になつて幾分か は直すし又直しても善からうと思はれる、術語で云ふと六箇敷なるから掻摘んで云へば既にモ デルの実体を離れて画面に上る場合には最早画家の芸術に化せられたもので画家の感想も十分含蓄されたものだから造画の後に翻つてモデルの如何を問ふの必要はあるまい、勿論画 面の巧拙は画家の伎倆に依ることでこれは別問題であるが画家が自身の感想を顕現するに當 つて終にモデルと変つたものを進出す、即ちモテルの実体を直すと云ふことは美術の準縄に違 はざる限り許して善い■■■■(判読不能)■■■■た権理であるが日本人■■■■(判読不能)■■■■モソツと胴の長い足の短 かい下腹のブクブクしたのを写せと云はぬ許りに放言するのは些と僻論の誹を免かれまいと 思ふ、次に浴後之少女と此画面とを比較して此画面の肉色を非難したものがあつた、浴後之少女は欧羅巴人を写し此画面は日本人を写したのであるから之を均しなみに云ふのは不倫の対比と云はなければならない、併し彼方の少女は之を刺せば鮮かなる血汐のサツと迸るかと思はれ 此方の少女は之を刺せば黒き血のポタリポタリと落るかと思はれる此感じの相違があるから非 難をするのも無理はなからう、少しく推測に過ぎるかは知らないが是等の弊は大方黒田君が地に 金色を用ひたのに因ることだと思はれる、其外いろいろの弊が皆爰に原因して居ると思はれる、柔 かき少女の肌膚を写すにスグ其側は一面に金色燦爛として居るから並一通りでは強き色き蹴落 されて少女の肢体が浮出さない、夫れに相応しき色を用ひやうとすると肉色も自然に強くな り骨も堅くなり肢体総体が何処となくいかつくなる、前に手の工合を非難したものがあつた が彼れは卓見で僕の考へでは矢張金地との配合から生じた弊だと思ふ、地に金色 を応用したのは黒田君の新案と云へば新案に相違ない、けれども之が為めに黒田君は人に知れない苦労 をしたやうに見える、其証拠は三面共に黒き太き輪郭を用いて明に地と画との間を区別 したり又今日でも少女の肢体は浮出してると云ふよりも寧ろ沈んで居る、総ての弊がその原因を爰に発して居る所から云へば黒田君は自身の新案の為めに自身の伎倆を狭め られたと評しても宜しかろう
わる口 また出た、僕は先に画題の区別を知てるのはお手前一人なんだらうと云つたが、あつたよ、守中居士と云ふ評家は感の分は善く其性情が発揮されて居ると云つた から僕は訂正して分るもの〆て一人半(守中は感は能く分り智は半分りのやうにかいてるから画面は奇 数だが丁度半になる)として置く、併し爰に面白いことがあるのは守中は感を中央の画だと云ふのに読売の雑録記者は右の画だとかいてる、して見れば此見方も随分アヤフヤなもの だ

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