通俗美術問答

  • 毒皷堂主人
  • 読売新聞
  • 1896(明治29)/10/19
  • 4

非敢建■於芸術境裡
何試揮■於審美理上
問。貴社の妄語にて承知致し候。新派の油画ハ、みなたゞのところをかき候とか。金ぶちの枠にて、とこにてものぞき候へバ、みな一々の油画になり候とか。果たして左様のものに御座候や。
答。まさか左様のものにも有之 まじく候へども、自然界とやら申し候もの中より、ここかしこと、作者の撰みだて致し候ところハ、おのづから一つの癖有之候て、やがて様式とか定型とか申し候ものに陥りやすく、その陥り候ひしものハ、またやがて厭きやすく、醍醐の上味もあまり食べ飽き候へバ、漬物に茶漬のかた、却てこのもしく相成り、松江の鱸、沖津の鯛などの物好みも息み候ことゝ存ぜられ候。さりとて食事ハ一切茶漬に限るなどゝ思ひ候ハ、以つての外のひがことゝ存じ候。同じ漬物の中にても、奈良漬の瓜、大坂の千枚蕪なども御座候間、それ等の特別の趣味を味ひ分け候こと、無上なる口舌の楽しみに有之べく候。何でもよしたゞのところにてもよしとならバ、舌ハ無用のものと相成り可申候。新派の洋画とても、さまで無感覚無趣味のものにハ可無之候。然しながら教相判釈の理に飽き候てハ、智者大師も、唱名念仏の外なく相成り候こと、誠に無理もなきことに御座候。
問。新派の油画を俗に紫派と申し候由承り及び候。こハ何故に御座候や。
答。これハたゞ新派が好みて紫の絵の具を用ひ候故に御座候。その派の画家にきゝ候へバ、物の陰ハ紫の色に見え候との事に御座候。なるほど天気よき時の物の影ハ、紫色に見え候事も有之候へども、何時でも紫に見え候とハ如何のものに御座候や。それとも新派の人の目にハ、左様相見え候ことにや疑はしく存じ居り候。一幀の色の調子と申し候こと、油画にてハやかましきことに有之候へども、自然ハいつも紫調にハ成り居らずと存じ候に、撰みだてすることの嫌ひなる新派が、特に色の調子だけ、紫調を択び候こと腑におち申さず候。然しながらこの特徴すら無くなり候てハ、いよいよ便りなきものにも相成候はむか。色の調子の上にてハ、慥に新趣向に御座候。不立文字の禅宗が、葛藤語だけハ取り立て候ことにも似たらむか。なほ精きこと承り候上にて、重ねて御答致すべく候。
問。日本画と洋画との優劣につきて、やかましきこと沙汰しあひ候よし聞及び候。果たして優劣の御座候ものにや。劣者ハ廃滅に帰すべきものに御座候や。その辺御意見承りたく候。
答。そハなほ日本料理と西洋料理とを比べ候やうなるものに似たることゝ存じ候。うまきものハどちらにても宜しき事と思はれ候。趣味の違ひ候もの色々有之候てこそ面白かるべく候へ。梅と桜とを較べ候て、梅を劣れりとするものありとて、梅ハなくなり申さず。桜を勝れりとするものありとて、天下みな桜にハなり申さゞる儀に候。色ハ桜、香ひハ梅、日本料理の淡泊なる西洋料理の滋味深さ、何れも物にハそれぞれの特長有之、彼の長ハ此の短ある代りに、此の得ハ彼の失なるところも御座候。偏見の比較ハ畢竟総体の優劣を決するに足らずと御考へ可被成候。梅の香を誇り、桜の色を自慢致し候ハ、まづそれぞれのそれ屋に御任せおき可然候。まして画などハどちらも段々進歩も致し、変化も致し候。杓子定規にて千歳の是非を決し候ハ、不覚の至りに可有之候。然し何れも成に安んじ候油断ハ大敵に御座候。
問。日本画ハ洋画の画稿に同じと申し候人も御座候由、これハ如何のものに御座候や。
答。これも異なことに候。俳句ハ和歌の草稿なりと申し候ことも有之候はゞ、その説も立ち候ことゝ存ぜられ候。また水墨ハ呉装の下画に限られ、着色の彫像ハ、素刻の彫像に勝るものにも有之候にや、その道の人に聞きたきことに御座候。京ハ大坂に行く途中なるが故に、京ハ大坂に劣るとハ聞き候はず。大坂に参り候はねバ都会にてハ無之候はゞ、左様申されぬこともなけれど、京も大坂も都会たることハ一様に御座候。たゞその風俗地形などの異なり候ハ、所謂趣味とか体とか申し候ものゝ同じからざるにたぐへられ申すべく候。
問。油画ハ顔料濃厚よく誤筆を塗抹し得が故に、改削自由にして、善画を作りやすく、日本画ハ一筆揮灑、即ち改むべからざるが故に難しと申し候、果たして左様のものに御座候や。御高教願ひ上げ候。
答。これも少々をかしきことに候。小学校の生徒が鉛筆ハゴムがきく故、毛筆にて書くよりも、善く書けると申し候に同じことに御座候。ゴムハきかず候ても、書に熟したる人ハ、毛筆にて見事に書き候。小学生徒の分斎にてこそ、左様な痴言も申され候へ。苟も大人のものゝ申すべきことにハ候はず。日本画にても柳炭なり下絵なりにて練り上げ候上にて認め申し候。ぶッつけにかき候文人画などハ、なべて墨戯とハ申し候なり。下絵にて練柳炭を用ひ候中に、改削の自由ハ充分有之候。その上にて思ひ誤り有之候か、またハ下絵にて試み候通りに、筆の行れ候はぬハ、下手と申し候外なく。下手ゆゑに善画の出来ぬハ、改められぬが故にハ無御座候。土台の手腕既にまづくバ、いくら改削自由にても、到底善画ハ出来申さゞるべく候。然しながら暴紙などに作り候草画ハ格別のことにて、御話しの妄語の如き趣も全く有之候。それさへ手腕老熟して胸中成竹ある人にハ何の苦もなきことに候べし。
問。太陽の美術欄に刀剣考ありとて、刀剣も美術品かとの妄語相見え申し候が、如何なるわけに御座候や。
刀剣の美術品ならぬハいふまでもなし。がそ太陽の美術欄に編入せられたりとて、美術品となり候ことも無之候。太陽の記者とても、刀剣を美術品なりと思ひて編入したるにも可無之。その装飾の附属物などが、往々美術史の材料にも相成り候こと有之候より、入れどころなきに出でし事とも弁ぜられ可申候。正太夫がドンガラガン調と嘲り候ひしも、或ハこの辺にも及ぼされ可申と一笑の外なく候。兎に角これハ御賢考を煩すまでもなき瑣事に御座候。なほ次の御問題ハ、来週の附録にて御答へ可申上、外にも御疑はしきこと御座候はゞ、御遠慮なく御問ひこし可被成、小生にて分かりかね候義ハ、朋友にも先進の人にも聞き合せ、可成詳細に御返事可申上候。 (未完)

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