絵画小談

  • 日本
  • 1896(明治29)/10/24
  • 1
  • 展評

秋高く心地すかすがしき朝千駄木のほとり木立おかしき杜蔭に紅塵を隔たてゝひたすら美術に心を砕く某の画伯許たづねて一椀の茗にさまざまのことゞも打語ら ひしに時節柄とて談は上野の画会に移りぬ、画評のやかましき昨今なればそが二三の談を介するも亦一興なるべし◎まづ白馬会は如何で御座る、我等の新聞にも 一応批評は試みたれど猶其許が黒人の意見伺ひたしと云へば画伯微笑みてされば他、別に我とてもたいした意見のあらふ筈はなけれど其所感二三をいはゞやはり 大体は貴紙上のと異ならず、甘い所もあれど評家の位置より慾をいへば第一に真面目に骨折りし品少なく第二に絵画が一体奇を求むるに過ぎ第三に無暗に酒落た がる風の見ゆるなどはどうか改めて貰い度き者也同会にて骨のある者といへば黒田君の樺山伯及び傘の美人など二三の他に之を見出すを得ざる也、但し今回は初 回にて萬事ソコには不揃の傾を免かれざる事情もあるべしと云へ、少なくもかの樺山伯及び美人の画位な所の者を今少し沢山にかゝげされば白馬会の光彩もあま りヒカラヌ次第なり、それから全体に奇を求めたる跡は著るし、即ち好むで尋常なる趣を避けんとする也、色彩、位置、画題等総てに於て此風有り蓋しこれは所 謂仏蘭西風がしみ居る所より来りしものなるべし、仏国は何事にも熱情ある気風故美術熱も相応に熾んにて従つて画家の数も多く年々の展覧会出品も非常に多く 其過半は陳列するを得ざるより為めに中等以上の名をなし得たる画家の作品ならばともかく名もなき青書生の作品は余程の逸品にても自然落第させられて投げ出 され又新聞雑誌にても彼是いふてくれぬより、かゝる輩は先づ画の方より別に名を知らるゝ必要を感じ其の結果は善悪に拘はらず奇物を出して人目を聳でしむる の策となり終には己れが平日の衣服迄も可成人目に立つやうなる異様の出て立ちをなすに至る、如此彼国の絵画界に育てられし新派なれば自から奇を求むる風あ るものなるべし、それから一体に洒落書きの多き事なるが既に十分の素養ある人にはこれも風変りて一寸面白き者なれど所謂半可通達が同じ様になりてそんな真 似をするやうになりては終身終に一枝の大作も出来ぬ始末となり真面目な仕事はお留守となるの害あり、白馬会員はさる軽薄な風にかぶれる人もあるまじといへ ども兎角若い人はこの辺に気をつける事なり云々と談はそれより
◎共進会の日本画に移れり、画伯曰く、美術協会を脱して新たに旗揚げせし意気込は絵画の上 にも現はれ其乱脈の処に活気は有り、かくして正路に進めば日本画の面目を改むべき者此裡より生れ出づ可きもこれで邪路に入れば折角の日本画を台無しにして 仕舞ふこ請合也、所がずつと其出品を通覧するに我等の眼には、かゝる風にて進まば善かるべしと思はるゝは十中の三にて七分は邪路に陥らんとする者なり、誠 に心細き次第此上なし、全体画家が画を作すには先づおのが頭にて充分自得せし後之を筆に現はすべきに此頃の日本画家は所謂批評家が注文にのせられてそを自 家にて消化する事も知らず直に杓子定規の理窮にてあてはめんとするが為め飛んでも無き怪画を作る風あり、而して此現象は共進会に於て著しく現はれたり、こ は実に日本画家に取りては大事な考へものなりと信ず、貴新聞にてさんざんに冷罵し新工夫をやらんとせし絵画は皆失敗せりといはるゝも全く其頭に消化力なき 為めなり
○橋本雅邦の虎渓三笑は誠に失敗せる好き手本にて氏が技倆あるに拘はらずかゝるものを出すといふも畢竟ある一部の批評家におだてられ唯其人等の 気に入るやうにと努めし結果なり
○そこで批評家は余程慎重してやつて貰はぬと困る也、今度の絵画に就ても各新聞共に批評盛んなるが中には殆んど画をなさ ぬやうなる者を捕へて画相はまづいが着眼がイゝなどゝし凡々たる着眼の画を無暗と褒め立てる人もあるやう也、自分でわからねば専門家の意見なども叩き十分 研究した後批評して貰はぬと馬鹿な画家はついうかうかとおだてらるゝもの也
○それから日本画家は一体眼界が狭き為めにや洋画などにては初歩の間にても十 分やれる事などを無暗を苦心して自家独得の発明などのやうに思へるがあり、チト諸国の画を見て眼界を広くせねば入らぬ骨折をする也(駿台隠士記)

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