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黒田清輝と美術研究所

 10月3日、華族会館に牧野、樺山、福原、矢代が集まって、この件についての協議がなされている。こうした経緯について、矢代は次のように記している。

 「欧州留学中ロンドンにおいて、あらゆる美術作品の写真を集め、これを分類保存している『写真を主とする美術図書館』というべき中心機関があるのを見、かつそこで私自身も多いに勉強させてもらったのみならず、これが実に驚くほど大きく世の中に貢献している事実を知っていたので、それのために使える黒田さんの遺産の金額をもって、ちょうど適合してやって行けそうであることを考えながら、一つそういう機関を日本につくられたならば、どうですか、と提案したのであった。(略)私はウィット家と知り合いになり、その驚くべき写真のコレクションを利用させてもらって、どのくらい助かったか知れない。(略)さて、私はロンドンにおいてこのサー・ロバート・ウィット家と非常に親しくなり、いかにこの何でもないことのようにして始まった美術品の写真コレクションなるものが、それほどの数量に達し、かつそれほどよく分類整理されているとなると、とんでもないほど大きな基礎的貢献を美術界全般に及ぼすことを、私自身直接にこれを利用させてもらった経験から痛感させられたのであったから、私が日本に帰り、そこに落ち着いて学問的の仕事を始めるにあたり、どうかその種の仕事を東洋日本に適する形において実現したい、もし誰も一緒に力を合わせてやる人がなければ、私一人ででもぜひやろうと決心し(略)美術作品の写真の蒐集とその分類収蔵の仕事をぽつぽつとやり始めたのであった。私の目立たないこの仕事の将来の意義を早くより見通して、多少の費用を学校より支出して援助して下さった正木校長は、前述の黒田さんの遺産による事業として、黒田さんの作品を蒐集陳列して、画家としての黒田さんの功績を記念し表彰するという一面に加えて、美術界全般が利益し、将来国家予算をもって発展せしめ得る基礎的事業として、この美術品の写真を本格的に集め、これを公衆に利用させるというこの仕事を、適当な案として推薦され、それに対して黒田家および基金関係者一同の賛成、および文部省当局の同意するところとなって、この写真資料蒐集を根幹とする一種の美術図書館である美術研究所が成立したのであった」(『私の美術遍歴』岩波書店、1972年、239~243頁)

 矢代はまた、美術研究所の構想が遺言執行人たちにとって当初は思いがけないものであったが、樺山が「(黒田は)日本全体のことを考えていた男で、それ故、彼の残した遺産でやる仕事も、日本全体が将来永く利益を受け、また是から時勢が進むにつれて、益々拡がって行くような仕事が、一番黒田が喜ぶ仕事じゃろうと、我輩はそう思う。これまで出ていた案は、何れも黒田の友人や弟子たちによって提出されたために、個人黒田、画家黒田を記念するような黒田中心の事業で、これは友人や弟子が、黒田を懐ってくれる美しい心もちの現われじゃとは思うが、黒田の志はそんなものではなかったろうと我輩は考える。黒田はもっと大人物じゃったよ」と発言し、一同賛成したと述べている(「樺山さんと美術研究所」『樺山愛輔翁』国際文化会館、1955年、67~68頁)。


建設中の黒田記念館

 先述の文中にあるサー・ロバート・ウィット家のコレクションとは、現在はロンドンのコートールド・インスティテュート(The Coutauld Institute of Art)に属しているウィット・ライブラリー(The Witt Library)を指す。このライブラリーはロバート・ウィット(Robert Witt)と後にロバートの妻になるメアリー(Mary Witt)によって設立された。彼らは1890年代にオクスフォードで歴史、とりわけルネサンス史を専攻した。ロバートは大学時代に、メアリーはイタリア旅行をした機会に写真の蒐集を始め、ふたりの結婚によって両コレクションが統合された。写真は台紙に張って、写真自体に付随しているデータを記入し、作家別ファイルに入れてアルファベット順に整理されていた。当初500点ほどであったコレクションは急成長し、1928年には30万点になる。ロバートは1903年のナショナル・アート・コレクション・ファンド(The National Art Collections Fund)の設立の主要メンバーであり、1920年から1945年までその会頭を務めている。長らくナショナル・ギャラリーのトラスティーでもあり、1930年にはその長であった。1902年に”How to look at Pictures”(London, Bell, 1902)、1910年に”One Hundred Masterpieces of Painting”(London, Methuen &Co., 1910)を刊行している。

 1920年代、イギリスではまだ萌芽状態であった美術史は、ドイツとイタリアでは学問として確立されてきていた。作品の真贋鑑定から発展したイタリアの美術史家ジョバンニ・モレリの方法論は、作品の様式と技法の比較によって作品の真贋評価を行い、脚光を浴びていた。この方法のためには、比較材料となる作品の写真が豊富であることが望ましく、写真・複製などを収集・整理・公開するセンター的な施設の必要が認識され始めていた。

 1932年、ウィット夫妻はライブラリーをコートールド・インスティテュートに寄贈することとしたが、その後も夫妻は所蔵権を保持しつづけ、1944年に正式な寄贈がなされている。

 矢代が自らのルネサンス美術研究に益するところの大きかったウィット・ライブラリーを手本に美術研究所を設立しようとしたのには、日本の美術史学に新しいものをもたらそうという意図も含まれていた。

 矢代は、美術研究所の創設を一任委嘱された時、当時、東洋にはまだ一ケ所も出来ていなかった、美術研究のために不可欠な写真資料の蒐集、整理、保存の設備、および付属の美術図書館的設備をつくることによって「いまだに旧套を脱しきれぬ我国の東洋美術の研究の上にこの新機関を活用して、多少新しい空気を吹き入れようと試みた」と述べ、その新風とは「ベレンソン流の様式批判」をもとにした、東洋美術の新たな研究方法であった、としている(『私の美術遍歴』249~250頁)。

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