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黒田清輝と美術研究所

「湖畔」 1897年
 当研究所の母体となった帝国美術院附属美術研究所は、洋画家黒田清輝の遺言によって設立された。「湖畔」(1897年)などの作品で知られる黒田清輝は、1924(大正13)年7月、不動産の三分の一を美術奨励事業に出捐すること、樺山愛輔、久米桂一郎、打田伝吉を遺言執行人とするよう遺言した。遺言に立ち会ったのは宮田という人物であったと伝えられる。黒田は前年の12月2日、宮内庁に出勤中に狭心症の発作を起して病臥し、1924(大正13)年春には一時小康を得るが、6月に喘息を併発して再び病床にあった。遺言執行人となった樺山愛輔は、黒田清輝の養父である黒田清綱の娘千賀子の嫁家、橋口家の血縁になる。黒田清輝よりも一年年長で、1880(明治13)年に渡米して同地で大学を卒業しており、生涯、日米交流に尽くした。現在の国際文化会館の創立にも尽力している。久米桂一郎は洋画家、美術教育者でもあり、黒田の朋友でもあった。久米は、1884(明治17)年に法律学習を目的としてパリに渡った黒田に2年遅れて、画学を学ぶためにパリに留学し、ともにアカデミー・コロラッシ(Academie Colarossi)でラファエル・コラン(Raphael Collin)に師事した。佐賀藩士で『米欧回覧実記』(東京・博聞社、1878年)の編者として著名な久米邦武の嗣子で、黒田と同様、幕末雄藩に生まれた。黒田と同年でもあったことから、出会って間もなくともに行動するようになっていることが、『黒田清輝日記』(中央公論美術出版、1966~68年)、『久米桂一郎日記』(中央公論美術出版、1990年)などにもあらわれている。パリ滞在中に共同生活を送っており、1893(明治26)年夏に同じ船で帰国。その後も黒田とともに白馬会を結成し、画家としての活動のみならず美術教育、美術行政においても黒田の同志であり続けた。打田伝吉は弁護士であった。

 黒田清輝は7月15日に死去し、青山斎場で神式の葬儀が執り行われた後、養父清綱の墓の隣に、やはり父と同様神式で葬られた(現在、この場所は曹洞宗永平寺別院長谷寺、東京都港区西麻布2-21-34の敷地内となっている)。

 遺言執行の過程について述べる前に、黒田清輝が自らの遺産の一部を美術奨励のために役立てるよう遺言した背景を考えたい。

 1893(明治26)年夏に9年におよぶフランス留学から帰国し、印象派の光の表現を取り入れた清新な画風で日本の美術界に大きな変化をもたらした黒田清輝は、1924(大正13)年の逝去まで、洋画壇のみならず美術界に多大な影響力を持った。サロンの画家ラファエル・コランに師事し、19世紀後半期のアカデミックなフランス絵画の教育を受けた黒田は、帰国後まもなく自らの作品である「朝妝」(1893年)がきっかけとなって起こった裸体画論争をはじめ、様々な面で、フランスとは異なる日本の美術に対する考え方や美術を取り巻く環境に驚き、日本美術の近代化の必要性を強く意識するようになったと考えられる。帰国すると明治美術会に参加するが、その封建的性格に不満を抱き、久米がそのリベレルな性格を「社会主義に近い」と評した白馬会を1896(明治29)年に起す。同会は作家各自の自己表現を尊重し、その展覧会で固有色を否定した明るい色調や、作為のない平明な自然描写を紹介して若い画家たちの支持を得た。同年、東京美術学校に新設された西洋画科の教育を任されたことから、黒田の画風が日本近代洋画のアカデミズム形成に大きな働きを持つことになる。

 しかし、朋友久米桂一郎が「一八九九―明治三十三年頃までが、一番氏として油の乗りきつた時代であらう」(「仏国修学時代の黒田君と其制作」『中央美術』大正13年12月。『方眼美術論』中央公論美術出版、1984年収録、141頁)とし、「(第二回渡欧からの帰朝)以来、引続いて白馬会に毎年出品してをつたが、其後制作は或る肖像の外は、余り満足される様なものではなかつたと思ふ。四十一(ママ)年に文展が初まつて、三四回は製作を出品された、初めは裸体の半身、これは日英博覧会に持つて行つたもの、二回は肖像、第六回の習作等数々の制作があつた。美術家としての生涯は先づ此時代に終つた」(「黒田清輝君の芸術」『国民美術』大正13年9月。『方眼美術論』前掲、154頁)と記しているように、黒田が制作に没頭できた時間は長くはなく、第2回目の渡欧以降は美術教育・行政、及び文化外交に力を注ぐようになっていく。2度目の渡欧は「欧州の美術行政および美術教育視察」という任務のための文部省からの派遣によった。折りしも、パリ万国博覧会が開催されており、「智・感・情」(1899年)、「湖畔」を含む黒田の作品5点も出品されていた。前者は日本から出品された油彩画では最高賞の銀賞を受賞するが、第1回目の留学時代の師匠ラファエル・コランは、黒田は日本に帰って絵が下手になったと評したとされる。

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