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黒田清輝と美術研究所

 1900年のパリ万博に出品された日本洋画を見て「実に顔色なし」として、帰国後、油彩画よりも工芸デザインに傾倒していく浅井忠、この折の渡仏以後、ほとんど制作を行わなくなり、美術教育・行政に向かっている久米桂一郎のように、この万博を機に渡仏し、帰国後、仕事の方向に変化を示す日本画家も少なくない。

 黒田もその一人であり1901(明治34)年の帰国後は、1905(明治38)年の美術雑誌『光風』創刊、1907(明治40)年の文部省美術展覧会(文展)開設への尽力、1911(明治44)年白馬会の解散、1913(大正2)年の国民美術協会設立といったように、美術に関する議論の場を広く開き、美術家全体の社会的位置を確立するために力を注いでいる。白馬会の解散については黒田は、同会が主な目的に掲げた「毎年展覧会を開催して会員相互に研鑽を図る」ということが、文展によって果たされるようになったため、と説明しているが、個々の作品の質が公正に評価される場であるべき文展が、その開設準備段階から審査員の選択をめぐって既成の美術団体の対立を深め、美術界内部での党派性が強まり、また若手画家たちが文展入選を目指して団体への依存を強めるといった現象が見られたことが背景になっているだろう。その2年後の設立になる国民美術協会は、岩村透と黒田清輝が首謀して結成されたと考えられる超党派的団体で、その趣意書に、「今日ハ実力競争ノ時代」であり、また「物質的文明ノ激甚ナル発展ノ為ニ(略)芸術ハ将ニ社会ヨリ駆逐セラレントスルノ危機ニ迫リツツ」あるため、「芸術全般ノ運命ニ関スル大問題ヲ解決シ、広ク芸術家共通ノ利益ヲ保護シ、社会ニ於ケル芸術ノ功徳ヲ普及」することをめざして団体を結成するとある。そしてなすべき事業の筆頭に美術館の建設を図ることを、次に日本美術を世界に紹介し、世界の美術を日本に紹介することを挙げている(『国民美術協会趣意書並定款』大正13年2月改訂印刷)。ここで目指されているのは、アメリカ、フランスで絵を学び1892(明治25)年に帰国した岩村透が『巴里の美術学生』(『芸苑雑稿』平凡社・東洋文庫、1971年)で活写した、パリの持っている「美術生活」を日本にもたらすことといってよい。それは「常に二、三の展覧会がある。政府の美術館、図書館がある。大家の仕事場を訪問する。美術家の倶楽部に集まる。カッフェに美術家の友人と語る。外国の技芸家に逢つて見聞を拡げる。新聞雑誌を読んで技芸上の見識を養う」というような環境の整った生活であった。

東京府美術館(第5回朝倉塾彫塑展覧会野外陳列)

 周知のように、1926(大正15)年5月に東京府美術館が上野公園に竣工するまで、日本には博物館はあっても美術館はなかった。政府主催の美術展である文部省美術展覧会ですらも、東京府勧業博覧会の会場として作られた二号館で行われた。同館は、博覧会後、展覧会場として用いられることとなって竹の台陳列館と呼ばれていたが、床も張られておらず、土間で、「たえず水を撒かなければ埃が舞い立つて、画が埃色に曇つちまう」一方、「大雨ふると雨漏がする」(山本鼎)「文展に関し文部大臣の背なかに向つて語る」『中外』2巻12号、1918年11月)、美術品展示の場としては甚だ不十分なものであった。美術館設立を望む声は明治40年代になって高まり、1910(明治43)年には文部省によって国立美術館建設費が次年度予算に計上されるが、削除されている。1918年3月には衆議院に「帝国美術館建設に関する建議案」が出され、同年に帝室技芸員から文部大臣(以下、文相とする)に建白書を提出、国民美術協会からも文部省に美術館建設の建議書が提出されたが、予算がつかず、実現にいたらなかった。1910年(明治43)に洋画家として初めて帝室技芸員となった黒田は、1918(大正7)年に美術館建設の建白を文相に提出した帝室技芸員の一人であり、また国民美術協会の会頭でもあった。美術館設立を政府に期待しても叶わない体験を重ねたまま、逝去の年を迎えている。

 晩年の黒田は、作品によって十分に自己表現が出来ていないことへの反省を抱きながら、美術界全体のために働いている観がある。そうした黒田の内面は、1916(大正5)年の秋の次のことばに見ることができるだろう。

 「私は当年とつて正に五十歳になるが芸術にかけては一個の学生に過ぎぬ。年の割には画がうまくない。勉強する時間もいろいろのものに裂かれて比較的少なかった。これからまあ大いに勉強する所存である。仮に八十歳位になつたら自分は斯う云ふ思想を持つて居ますと人に示すやうな事が出来やうかと思つて居る」(「私は斯う思ふ」『みづゑ』大正5年11月。『絵画の将来』中央公論美術出版、1983年所収、73~74頁)。

 しかし、黒田に残された時間はそれから8年に満たなかった。「勉強する時間もいろいろのものに裂かれて比較的少なかった」のは、一人の作家としての制作よりも、公を先んじる姿勢が一因していただろう。しかし、美術館設置問題を初め、裸体画論争、美術における国際交流など、黒田がパリで経験してきた「美術生活」の日本への導入はほとんどなされていなかった。黒田の遺言には、黒田自身のそれまでの努力を継いで、後進にも「美術生活」を目指してほしい、そのために遺していく私財を役立ててほしい、という願いが込められている。

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