東京文化財研究所 > ウェブコンテンツ > 鼎談 「「かたち」の生成をめぐって―イケムラレイコの場合」

鼎談 「「かたち」の生成をめぐって―イケムラレイコの場合」

質疑応答

質問者1
 イケムラさんにとって、かたちをつくること、見せること等のなかでもっとも達成感のある体験はどのようなものですか。 
イケムラ
 男女関係と比較できると思うんですけれど。自分だけというのは、あまり面白くないと思うんです。ものが達成した時に、作品自体が応じてくれる。そういう時が一番幸せだと思うんです。ただ、同時性というのはなかなかつかまえにくい。友情関係でも人間関係でもそうだけど、私はいいと思っていて、向こうも同時にいいとは思っているけども、それも同時であるということは、1つのクライマックスの基本だと思うんですけども、その同時性というのはなかなかつかまえにくい。その前の状態、たとえばアイデアが浮かんだ時とか、あるいはそれに触発された、インスパイアしているというのは、非常にわくわくするものだと思います。
 男女関係、あるいは恋愛関係に比べると、ときめく気持ち。誰かに恋をしたり、そういう気持ちというのは、誰かのアイデアにつかれて、そういうイメージがわいてきた時には、あるいは物に触発されて非常に動かされるというか。だから自分が何をしたいという、その以前の状態。そういう状態もとても幸せなの。幸せという言葉で言えるのかどうか分からないけれども、非常にムーブされる状態だと思います。
 あと、見てもらう人との感覚というのは、音楽の場合だと私は非常にうらやましいなと思うのは、すごく爆発的なクライマックスでしょう。それも同時性が1対1じゃなくて、何百人、何千人というのはすごい力ですよね。
 それはファインアートでは、ちょっとないですよね。たとえばビエンナーレだとか、そういうたくさんの人が動くと可能性はあるけれども。でも私は反対に、そういうのはあまり信用しないんですよね。おっしゃられるように、同時性ってすごくスリリングだと思うんだけれど、怖いというところがあるんですよ。クライマックスの後の虚無感みたいなの。展覧会をやってうまくいくと、その後に虚無感が来ることがありますよね。それも怖い。
 だから、いつも何かに近づけようとするその努力というのかな。不完全なところの一歩手前というところに非常に緊張感がある。幸せとはいえないけど、どっちかというとそのほうが苦しいけど、それが私を今まで引っ張ってきた。いつかはそういう状態になるだろう。でも、100年たった後かも分からない。最近は、私が生きてる間に経験したいと思いますけどね。
質問者2
 「うさぎ観音」に、穴の要素を彫刻に入れてみようということがあったんですが、どのような作用があると思って行われたのですか。無から、無をなぞってかたちをつくるというのが、興味深いと思いました。無をなぞってつくって、寝ている女の子のシリーズでは穴が残っているじゃないですか。穴の様子というものの作用のためにそうしているのでしょうか。
イケムラ
 彫刻の下の様相というのは、1つの台座的な要素もある、家でもあるという、私にとっては母体でもあるという。穴だけではなく、今回は入り口でもあるんじゃないかという。こちらだと、これはスカートの穴という、いわゆる穴ですけど、「うさぎ観音」の穴は、人が入れる、入ったり出たりすることができる穴でもある。それはある程度は意識して残してあります。また、小さい穴もあるんですよね。その小さい穴はどちらかというと、光を求めるということと半透明性というのかな。1つの固まったかたちではなくて、それが等身化するというか、そういう意味もありました。
質問者2
 ありがとうございます。あと1ついいですか。寝ている女の子のシリーズで、無から無をなぞってそのかたちができるんですけれど、外側と内側に無というか、空気があるじゃないですか。その内側と外側の空気というのは同じものなんですか。
イケムラ
 どうだろうね。違うんだろうと思うんですけれど、でも、つながっていると思うんです。そのつながっているということ自体が大事である。だから内と外もどこかでつながっている。つくっている時に、そういうふうに思うんです。どこまで意識してるかというと、やっぱり無意識なところもたくさんあります。でも、私たちの体の中だと、いろいろオーガンがあるわけですよね。その組織というのがもっと複雑にあるわけですけれど、でも、それも1つの筒状というか、全部の胃にしたって何にしたって、そういうのがどんどんどんどんつながっているんですよね。それで内と外がつながっている、そのイメージというのはあります。
イケムラ
 よかったら一言、竹村さんに。
竹村京
 名前まで呼んでいただいて、ありがとうございます。2000年にベルリンに行った時に、先生としてベルリン芸大のほうにいらっしゃった時から作品を拝見させていただいています。その当時は本当に先生、ドイツ語しか話さないような方でいらして。「うさぎ観音」に表れているような、他人を愛しているというようなかたちが本当になく、自分の世界観をつくって、どうにかベルリンの人たちに伝えようというコミュニケーションの仕方をされていたのが、2011年の後の作品を拝見させていただいた時に、日本についてのモチーフにすることによって、ベルリンの人に訴えるとか、ほかの人を作業の中に入れることによってコミュニケーションを図るというかたちで、どんどん人との対話に力を入れていかれているというのが、とてもリアリティーのある変化だなと個人的に思いました。
 多和田葉子さんがドイツ語と日本語を同時に使うことによって、頭の中での違いを文章で出しているんです。先生の場合は共通言語を、どうにか作品の中で出すというかたちにしていたのが、「Korekara」展では日本語そのものを出された。会田誠さんが、日本語しかしゃべれないのが日本語を出すって、横浜トリエンナーレでおっしゃったのを思い出したんですね。相手に近づけるというかたちではなくて、そのものを出す博物館的な見せ方ですよね。日本語の形態を出すという。それが自分の絵と実は合わさっているんだという確信のもとになさったのかなと思って。誰に対してというのがどう変わってきたのかを、ちょっとうかがいたいなと思いました。
イケムラ
 私たちはベルリンでもお会いしているわけです。私がベルリンに来て結構長いんですけれども、たくさんの日本人の作家の方もベルリンに来ているわけです。その方たちとのコンタクトは、なかなか自分でも思うようにいかなかったのは、時々私は寂しかったんです。でも私のイメージ自体が、あまり人を近付けなかったんだろうなと、時々反省するんです。
 というのは、私は一匹狼で、本当に鉄砲玉のように30年以上前に、全然違うところにいて、全然違う通路をつたってアートにたどり着いたので、いわゆる横のつながりというのがなかったわけです。だから日本のアート業者とか、そういう人たちをあまり知らなかった。あるいは、アート世界ともあまり縁がなかった。そういうことから、全然違うルートを使ってスペインから入ってきたので、どちらかというと、とにかく生き残るアーティストとして、日本人として、とにかく生き延びるという、そういうことにものすごいエネルギーが消耗されていた。
 連帯感という、日本人作家同士がもっているつながりは、私はとても羨ましかったけれど、自分には無理なんだろうというふうに考えました。自分ができることはするけれども、日本人の若い作家が来ると、私にサインを求めて来られ、それには応じましたが、お礼に来る人もあまりいなかった。そんなものかと思いながらも、でも誠実な人もいてくれて、私はそういうつながりはとてもうれしかったんです。鬼頭さんと竹村さんとは時々はお会いしているんですが、こういった仕事に関するお話は初めてで、今、本当に2、3分でもとてもうれしかったです。
 やはり違いというのは確かにあったと思います。2011年までは自分のことでいっぱいだったんですよね、はっきり言って。皆さんもそうだし、私もそうだったと思うので。ベルリンというのはみんな行きたがるけど、結構つらいんですよ。たまに1年に2、3回来て、パーティーに行ったりとか、オープニングに行ったりするというのは、それは楽しいだろうけど、あそこで自分の仕事をして、何のコネクションもなしに向こうに行って、そこで何とか一匹狼で生き延びるって本当にきついんですよ。
 私はそういう苦労話は今日はしません。でも、そういう背景があって、余裕があまりなかったのかな。今は学校を通じて、若い世代の人に会ったりして、できることをやっているんですけれども。日本から来る若い作家、あるいは特に韓国や中国の人には同じように、本当に大事にするつもりですけれど。オープニングに行ったりとか、誰々さんに会いたいとか、なかなかそういう時間はもてなかった。
 でも2011年の震災によって何かが変わったというのは確かにあって。その時、どんと来たのは後悔じゃないんですけれど、責任みたいなのを感じて。私はここで何やっているんだろうと思ったんです。自分の本当の垂直的つながり。日本人であること以上に、伊勢志摩、やまとの心というのかな、そういうのに本当に自然につながっている自分というのは、とても強くあって。震災に叩きのめされる自分の国の姿というのは耐えられないと思った。本当にあの時の衝撃というのは忘れられない。忘れないつもりでいるんです。
 それから、竹村さんがおっしゃっていただいたように、私の作風も変わってきた。でも自分ではあまり意識していなかったんですけれど、とにかく仕事をできなかったという、そこから来た誘いみたいに、私の国、自分の国というのがあって、それを愛する自分があって、それを大切に思うだけじゃなくて、それに寄与していかないといけないという。何かちょっと唐突に聞こえますけれど、そこまで突っ張って、走ってきた自分に対しての反省みたいなものも絶対にあったと思います。
 日本人同士のコミュニティはデュッセルドルフに結構あったんですよね。ベルリンはまた別ですけど。私はケルンに住んでいたの。ベルリンの前に。ケルンは、日本でたとえれば大阪ですよね。デュッセルドルフは、どっちかというとベルリンに似ているんですよ。奈良美智さんもケルンにいたんですけれど、短いですよね、期間は。そのころはお会いしてなかったです。
 ほとんどの日本人はデュッセルドルフを拠点としていたんですね。デュッセルドルフ・スクールみたいなのがあって。どっちかというとクールで、コンセプチュアリストで、ミニマリストで。ケルンはちょっと庶民的で、その代わりバイタリティーがあって、面白い個性のある人たちがいっぱいいたわけです。そこから私は ベルリンの大学教授に呼ばれて、もう20年以上になります。最近、ベルリンも住んでみたら良いところかなと思うようになって。ただ私は、2011年の震災の直後、日本に帰ってとにかく何かをしないといけないと思った。それが最終的には違うかたちで、自分の作品を通してできることをと。また日本をポシティヴに意識しながらコンテンポラリーアートを通じて自分の存在感を出したいというのも事実です。
 竹村さんも私の作品について見てくださっていて違いがあるというのは、とても自分ではあまり気が付かないものですから面白いと思いました。
質問者3
 私、イケムラさんの作品は、川が流れるとか、風が吹くみたいな感じ。穴が開いて光が入っていたりして、本当にどんどんどんどん新しいものを取り入れて変わっていく。途中、東洋の考え方の話もあったので、諸行無常という言葉が姿の中に浮かびながら聞いていました。「うさぎ観音」を4年前につくった時に、私はよく動物を描くこと多いんですけれど、イケムラさんにとって、うさぎが観音や神様のように感じられた理由はなんですか。
イケムラ
 うさぎの無垢性みたいなこともありますけど、シンボル化されて。たとえばいろんな動物が日本の中にはかたりとして生きていると思うんですけど。その中でうさぎに託したというのも、やはり物語性より姿にあると思うんです。私も卯年ですけれども、そういうこと以上にその宇宙に訴える姿に。 
 90年代の初めに、私、生命の初めみたいなことをよく考えていて、命がどういうふうにして培われるのかと問う時、原初の塊みたいなものとか、その生命の塊を想像して、月に何かを感じて、何かとっぴして、その耳がどんどん出てくる、そういう発想があったんです。その耳がどんどん出てきて、そして宇宙とコミュニケーションする。そういう発想とうさぎの姿をとてもダブルにしたと思います。
 それと、いわゆる観音様ってできないという。でも、「うさぎ観音」というのは動物と人間とのハイブリッドの姿を、非常に現代的でもあるという。そこがチャンスかなと思いました。
山梨
 ある種のユーモア、かたちのユーモア性もありますか。
イケムラ
 ユーモアはとても大事ですね。
 アメリカのネバダ地方に行ったんですよ。行ったらちょうどその日に、このバルーンの催しがありました。すごく感動しました。普通だったらこんなの見に行かないですけれど、ここまで大きくしたということで、かたちの面白さというのに惹かれました。日本のコミックなどがいろいろ世界的にも見られていて。私が思うに、漫画やコミックがもっているおかしさというのは、ユーモアとして日本の文化の中にずっと受け継がれていると思うんです。ただそれを現代アートに取り入れるというのを、ちょっと抵抗があるみたいですけれど。私はそういうユーモアの要素というのを、いわゆる伏線として大事に思うんです。
 うさぎ的な要素を持った何か分からない動物でもない、人間でもない、両方でもあるという、そういうかたちが、徐々にトランスフォーメーションしていく、そういうインスピレーションであったのかも分からない。自分では意識してなくても、子どものように喜ぶことってありますよね。何となく花火を見る時と同じような感じがあって。
質問者4
 お話のなかで感情的なものをアートにするのは難しい、なぜならキッチュになってしまうからというのがあったんですけれど、ユーモアに対して思っていることと、キッチュに対して思っていることというのを聞いてみたいと思いました。
イケムラ
 やはり危機感というのかな、そういう危機感と救われたいという感情とが両方あると思うんです。19世紀までの宗教的な芸術にはそれらが前提としてあったと思うんです。20世紀になって、どんどんとそういうものから離れていった。精神性のないいわゆるアート作品というのが、どんどんと出てくるわけですけど、私は今だからこそそういった宗教的要素というのを、宗教画とか宗教像とかそういうのではなくて、精神性を求めたい。ただ感情的なのはキッチュ的になるかもしれない。だから真の感情をただし、救いを求める気持ちと、それを超えようとする何かを抱えて。
 悲しみやうれしさとか、いろんな感情があると思うんですけれど、それを擬似的に表現するのではない。そういったものを全部含めたかたちで、エモーションというのを1つのエナジーの基礎にするというのかな。
山梨
 日本の美術教育って、美術の大学に入るためにデッサンをしなきゃいけないんですよね。どこどこ大学向けのデッサンとか、どこどこ予備校のデッサンというのがあると思いますけれど、そういう基礎的な訓練があって。何が表現したいということ以前に、かたちをルネサンス的に正しく描くということの訓練がすごくされています。そのために正解のあるものというのが求められて大学に入っているような感じがちょっとするんです。若い方たちの作品をご覧になって、もっと表現性の部分で解放されたらよいといった、ご意見をもつことってないですか。
イケムラ
 日本での学校。この間、芸大を訪ねました。ここにいらっしゃる坂口さんにいろいろクラスの作品やら生徒の作品を見せていただいて、水準的に見ても内容的に見ても、世界的に何か似通っているんですよね、最近は。
 昔だと、たとえばアメリカに行くとメーンストリームがあって、次にドイツであって、日本はちょっと遅れたぐらいの感じがよくあったんですけれど、最近はいわゆるグローバリゼーションの影響で、内容的にも、政治的なものにしろ、ペインティングやデッサンにしても、非常に似たような表現があるというのが1つ新しいことだと思うんです。それはいいことなのか悪いことなのか分からないけれども、時代の環境としてありますね。別に日本から出なくても、もちろん出ていろんなものを見に行ったりされている人もたくさんあると思うんです。
 でも、それほどの基準的に全然違うものではないという、何となくそういう雰囲気があります。何が教育の基準になるとか、それ以上のお話しになると、もっと深くこちらの状況を把握する必要があります。
坂口寛敏
 東京芸大の坂口と言います。イケムラさんとは去年、ヴァンジ庭園美術館、ベルリン芸大を訪問した時、芸大の卒展にいらっしゃった機会にお会いできました。今お話されたベルリン芸大、東京芸大の学生の作品の同時性ということは、イケムラさんと一緒に両方の学生の作品を見ながら、お話ししたんです。
 自分のこともちょっと付け加えますと、イケムラさんが日本を出られた頃、僕も同じ世代で、東京芸大で6年学んだ後、ミュンヘンに行きました。僕の場合は、日本で美大に入るためのデッサンだとか、日本での美術教育だとかいっぱい詰め込んでいましたので、そこから今日のテーマである「かたち」の生成をめぐるという、そういうところに立つのは、やっぱりドイツに行ってまた6年間美術アカデミーに行ってからでした。結局、僕の場合はイケムラさんと違って、日本でマイナスに沈み込んだ状態から0に戻すのに時間がかかったんですね。
 イケムラさんの素晴らしさは、1つ鉄砲玉と言われましたけど、ぴょーんと時空を飛び越えて、すごくつらいこともあったとしても、何か物の生まれる地点にすこっと立ち続けていらっしゃることです。それがずっと危険をはらみながら今まで続いている活火山であるという、それがまた、うつろなそれが中を詰まらせないで、今どんどん生成されている状態というのに、個人的に大変魅力を感じているんです。
 美術教育の問題も、それは多分日本特有の問題だと思うんですが、近代という大きな波が防波堤を次々と乗り越えて入ってくる中であったことだし。
 先ほど、ちょっと経済の部分にも言葉が動きつつあった時、それは次回にしようというお話でした。僕も聞いてみたいけれど、それを言い出すと大変だなと思う。物をつくって生み出そうとする陣痛がある状態の方と、きっちり文献・資料を責任をもって管理されて、それを分類し、言葉で伝えようとされる方の、こういう今回の企画はお互いが越境し合ってほしいな、私たちつくる側もどんどんこちらに来てみたいなと思います。
平野到
 埼玉県立近代美術館の平野と申します。イケムラさんには90年代初めからいろいろお世話になっていまして、1999年にはメルボルンで個展を企画させていただいた経験があります。その時に初めて、ご自身のテキストを壁に展示されましたね。ずっと書き綴って来た詩と彫刻や絵画を一緒に展示するということにチャレンジしていただいたんです。
 最近、私はイケムラさんの作品から水というキーワードを考えているんです。それについてちょっとお聞きしたいと思います。まず水に関連したメディアをいろいろ使われていると思うんです。例えば、水彩や粘土です。粘土にとっては、その水分が可塑性を与えるという点ですごく重要だと思います。先ほど木を刻む仕事はしないとおっしゃってましたけれども、大理石や木の彫刻は、水とはあまり関係ない。同時に昔から取り組まれている絵の中に、海の絵や水の絵がある。その辺りが、私は非常に気になっている点です。もし何かご自身でお考えのことがあったら、お聞きしたいなと思います。
イケムラ
 最近よく思うんですけれど、水の要素というのは、水の要素がないと思うようなものにもあるわけで。ちょうどブロンズの「かたち」の硬さについて聞かれたんです。その時に話したのは、たとえばテラコッタの彫刻から「かたち」を取ってブロンズにすることがよくあるんです。粘土の状態だと水分がいっぱいあって、ちょっとすればぐじゃっと崩れる。そこからだんだんとかたちができてくる作業と同時に水分が少なくなっていきます。
 私が言いたいのは、たとえば粘土は水分がだんだんとなくなっていくことによって、かたちがだんだんと出現していきます。いわゆる絵画のかたちとはまた違うプロセスですよね。平野さんがおっしゃられるように、水の重要さは、物質のかたさやかたちに関わるのでとても面白いなと思って。最初はどろどろでしょう。それが1つのかたちになっていく。たとえばテラコッタの、お茶碗だってそうなんですよね。使っていることによって、水を吸うことによって、焼いてあるのに、表面に独特の味わいが出てきます。それが日本の陶器の面白いことだと思うんです。
 それは低い温度で焼くからであって、高い温度で焼けば、いわゆる磁器になるんだそうです。磁器というのは西洋的じゃないかと私は思うんです。というのは、かたちがかちっとしてる。日本の場合は、あいまいさという言葉を使いましたけれど、輪郭が崩れていくところに変化の面白さ、時間がたつことによって、水気がだんだんと抜けたり増えたりする、それによって姿や表面がだんだんと変わっていく。最終的にそれを、たとえばブロンズにすると、かちっとしたかたちができる。私はそれは水分の問題だって言ったんです。みんな、「えっ」と驚かれますけれども。同じ形をブロンズにした場合、7~8%ぐらい小さくなるんです。
 たとえば瀬戸物だと800から1000度、1040度ぐらいまで上げます。ブロンズだともっと高いわけです。それによって水分がほとんどなくなってしまう。だから固いんですよね。金属的になる。金属というと全然違うように皆さん思われているけど、そこはつながってるんですよね。そういう仕事場に行かれると面白いと思います。金属もやっぱり土から来ているんです。そうやっていろんな要素の土が集まって、金属も作られている。その中の1つの大事な要素が水でもあり、熱によって変質します。
 もう1つ、おっしゃられるとおり、水の動きは私たちの意思では制御できないと思っている。水の強さというのは津波もそうですけれど、恐ろしいものがある。それでも私は海に惹かれるんです。油性系と水性系の材料があって、たとえば水性の絵の具を使うということによって全く違う展開ができる。その魅力は、やはり1つの伝統でもある。その発見は、特に2011年を境にしてあります。
 その前までも水性系のものを下塗りなどで使っていました。今はそういうのではなくて、もっと水性の持っている哲学というのかな。それに考えを及ぼします。
平野
 ありがとうございました。津波の話につながるのは、興味深いですね。そこまで視野を広げているということですね。どうもありがとうございました。
イケムラ
 私は三重県の津市の海のすぐそばで育ったんです。住んでいたのが本当に堤防の前で、海の近くに住む人の気持ちはよく分かるんです。子どもの時からいつも台風が来るとすごく怖くて、波が私たちの家の10倍ぐらい高くなった。そういう記憶があるんです。私が子どもの時に、実家が全部さらわれたんです。そういう経験があるものだから、本当に他人事ではない。だから本当に非常に親身に感じるんです。伊勢志摩のアニミズムみたいなことについても、また話したいですね。

18. ドイツ・カールスルーエでの展示風景
Leiko Ikemura: i-migration Staatliche
Kunsthalle Karlsruhe, Karlsruhe, Germany,2013
山梨
 最近の「山水」という作品がありますでしょう [18]。あれはドイツ語でも山水?
 どうよんでおられるんですか。ランドスケープとは言わないんですか。
イケムラ
 私はもう勝手に「山水」と言っています。向こうが理解しようが。そういうところはちょっと開き直っちゃって。

19. マロヤ湖のスキーヤー,
Skier on Maloja Lake, 1990
アルプスのインディアンシリーズ
Alpen Indianer series
山梨
 今の水の話で、風景と山水というのはちょっと違うと思うので。山水っていいだしていらっしゃる、「アルプスのインディアン」 [19] の時はどちらかというと。
イケムラ
 水なしね。
山梨
 セザンヌの垂直性や雪舟の「秋冬山水」の構図はこのころは入れてらした。最近はもっと山水に、水への意識が高まっているということでしょうか。描き方も水平にして描かれているということでした。「アルプスのインディアン」の時は立てて描いておられましたか? イーゼル画ですか?
イケムラ
 そうですね。これは「アルプスのインディアン」で、あの時から日本の水墨画に非常に惹かれていました。でも、1988年から1989年だからもう随分まえのことだけれど。そういうペインティングやっている人は誰もいなくて、理解もなかっただろうけれど。
 その時比較したのは、セザンヌとゲルハルト・リヒター、そういうふうにいうとみんなおかしいなと思うだろうけど。ゲルハルト・リヒターは、アブストラクションを、心象風景なんかということから全然とらわれないやり方ですよね。ドイツの人たちはドイツ・ロマンティシズムがあるにもかかわらず、結構内面的なものを嫌うわけです。いわゆるコンテンポラリーのアートに全く合わないから、頭脳的にやっちゃうので、たとえばゲルハルト・リヒターもそういう要素に直接には関与しないという。
 でも心象風景に達するには、景色を見て習っていくのではないやり方があると思います。それはすでに私たちの伝統のなかにあったわけですよね。
 セザンヌは、とにかく自然を見て学べという。私は彼の言っていることは絶対に確かだと思う。けれども、どういうふうに自然を見るんですかって、それがすごくいつも疑問で。肉体に迫っていくように自然を対象とできないから。反対に誰かのポートレートをつくる場合、1対1の可能性というのが非常に分かりやすくありますけれど、大きな山の下に座って自然を描写しろなんて、セザンヌがいくら言ったって私にはつかみようがないのです。1989年ぐらいに、スイスのアルプスでこもっていた時も、自然を描写するのではなく体で吸い込むごとく映されるような内景であると思った。
 だから、見るということは視覚の問題ではなく生きるということで。どんどんその中で生きて、自然のなかに浸透して、体と精神を縫合しながら触れていくものだと。自然というのは、体の中の自然とコレスポンドしているわけじゃないですか。いわゆる自他というのが分かれているのが、西洋的思考だけれど、本当は一体であるということを1年くらい山にこもって1人で生活した時の大事な経験でした。私なりにセザンヌから学んだことだと思っています。
山梨
 それが最近、水のほうに。
イケムラ
 これが山からだんだんと水のほうに、また下りてきました。
山梨
 もう時間なので、まだあるかと思いますけれども、この場はこれで終了とさせていただきます。イケムラレイコさん、ありがとうございました。(拍手)

©独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所