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鼎談 「「かたち」の生成をめぐって―イケムラレイコの場合」

Tree Series 色・素材

6. Tree Series
皿井
 このシリーズですが、イケムラさんは1つの木というものの存在感にすごく共感されているような感じがするんですね [6]。生命の揺らめきみたいなものに惹かれている。木というモチーフに惹かれていらっしゃるのですが、一方で木を素材としてお使いになることはなくて土を使う。あえて指の痕跡を残すような素材をお使いになりたいと思ってらっしゃるように感じるのですが、そうした材料の選択や痕跡について、何かお考えがあったら教えていただきたいのですが。
7. インドの風景, Trees in India
イケムラ
 私の場合は、その彫るということはしないんですね。木はでも非常に興味をもっています。私、いっぱいいろんな木の写真を集めるんですけれど。ここに映ってるのはインドの木です[7]。車で走ってる時に写したので、どこの木か分かんないですけれど、木の姿というのは、猫が世界中でよく似ているのと同じで、インドの木も日本の木も同じようなところもあるんですよね。
 この木の生命というのは、本当に不思議なことに、先の先まである。当たり前のことなんだけれど、不思議で。私はよく思うのは、木というのはフィギュアである。日本語で何というのか分かんないですけれど、エビデンス・エクスペリエンスというのかな、いわゆる自分と対象のものが、自分と自己と対象でない、そうではなくて一体になるという、そういう経験を元にして私は、「Tree Series」を描きました。
山梨
 ご自身と木が一体化するということですか。
イケムラ
 そういう感覚ですね。だから感情移入とか、それ以上のもっと一体化した、その瞬間をつかまえて、それを。表現じゃないんですよね。ペインティングしたいのは物ではないという。だから自分と体につながってる。そのつながりというのが境界なしにあるという、そういうエネルギーだと思います。創造というのもイメージの想像ではなくて、確かに描くことで自分と世界のつながりができるというか、それを、たとえば木を通して経験する。それが絵になるという、場かなと思います。
山梨
 その時に赤という色ですね。描くのにいろんな色を選ぶことができるわけですけれども、この朱色の色は、土のようでもあり、また血のようでもあり、赤で描かれることによって有機物的な感じがより強まるといいますか。その色を選ばれているのでしょうか。それからジュートに描かれていることが多いと思うんですけれども、下地作りによってどれだけ色料が浸潤するかということがあると思うんですが、そういうことへの配慮というのはおありになるのですか。
イケムラ
 そうですね。朱色についておっしゃられることは興味深いです。色を選ぶ時は本能的でその意味についてはそこまで考えないのですけれど、木と炎を重ねたイメージがありました。材料については、キャンバスの素材を触感させ、肌で材料を感じながらも、非常に材質的でありながらも透明であって欲しいと。また非常に目の粗いことによって、キャンバスの奧と私たちのいるこちらの世界とが、いつもリンクしている。そういう空間をつくりたいのです。
 私はずっとドイツに住んでいますが、いわゆるペインティングというのは、彼らにとって1つの観念の問題なんですよね。私はそうじゃないと信じていて。それと素材なんですけれど、グラウンドに素材を塗りますよね、普通は。私にとって、藤田(嗣治)はすごく気になる作家なんです。彼の下地づくりね。何か人間の肌のようにして、そして、いやらしいほどつるっとした素晴らしい下地をつくる。それをでも秘密にしているんですよね。「かたち再考」シンポジウムでも藤田の研究発表があったのですが、確かにその秘密が知りたいんですよね。中世期から今までの間にどういう工夫をされていたのかということは、よく考えることですが、でも、最終的には自分が何をペインティングを通じて伝えたいかで自分なりの技術を発展するしかないと思うんです。
 またペインティングって、お料理と似ているところがあります。材料の下作りも他人に任せてしまうと、全然違うんですね。やっぱり自分でマーケットに行って素材を選んで、その素材をどういうふうにつくるかという比喩的なことです。たとえばジュートというのは麻よりももっと貧しい素材ですけれど。ジャガイモなんかを包むような材料なんですね。そういう貧しい材料を使うけれども偽物ではない。今流通しているキャンバスにはいろんなものが混ざって工業的につくられた材料です。
 それらを使っても全然うまくいかなかったので、80年代からずっと試行錯誤しました。絵の具の質と、キャンバスにする材料が合わないわけ。私の場合は素材を感じるというのは、しみ込むということがとても大事でその素材の中に浸透することを可能にする素材を選びます。藤田の場合は逆に、何回も下地を塗って何回もサンドペーパーで擦って、滑らかな乳白的なグラウンドをつくるわけです。そこに滑るように、細い墨線で描くという。それはそれで1つのやり方だと思います。
 彼も20世紀の初めにパリにいて、エキゾチックな芸術家として寵愛されていましたが、彼なりの苦心があったと思うんです。1970年代頃は、日本を出る人たちは、一般にはアメリカやイギリス、フランスに行ってました。グラナダだとかセビリアで勉強しようなんてした人は私だけだったんです。非常にペインティングの伝統の深いところで、結構批判されるほうが多かったんです。でもそれによって鍛えられるから。絵というのは、絵だけじゃないですけれど、一般にアートはそうだと思うんですけれど、やはり1つの、人生の態度だと思うので、上手下手じゃない。
 いつも思うんだけれど、テーマにしても何にしても、土にしろ、彫刻にしろ、ペインティングにしろ、とにかく一番原初的なところに戻っていくという、そういう意識があります。
皿井
 私はこの「Tree Series」がとても好きです。2014年の10月にイケムラさんのアトリエにお邪魔させていただいたんですけれども、実際に作品を拝見すると、このスライドではなかなか分からない、やっぱりしみ込み方に奥行き感があるんですね。絵画空間の奥行きが非常に感じられる作品で。ジュートのしみ込みというのは、私は絵を描かないので、素人考えなんですけれど、制御できないですよね。コントロールできなくて、その素材に任せてしまう部分があると思うんです。そういう偶然性と狙っている部分とそのせめぎ合いというのは、イケムラさんの中でどういう折り合いを付けているのでしょうか。
イケムラ
 とても重要なポイントで、我々は言葉だとかあるいは概念なんかに影響されてしまっている。日本だってそういった西洋的な考え方は非常に浸透しているので、それを破るというのは難しいことで。今から見て思うんですけれど、たとえば日本を出るということ自体が1つの言葉に対する不信だったんです。言葉があることによって、本当に子どものように物を見るとか、そういうことがなかなかできないんじゃないかな。
 たとえば絵を描くにしろ、物をつくる時でも、こういう概念があって、こういうコンセプトがあって実現しますというのは、私はつまらないと思う。私たちの考えていることなんてちっぽけじゃないけど、でも限界はあるんじゃないかなって。
 人間って本当にみんな狂ってるのか分かんないけれど、その狂い方にみんなブレーキをかけ、それが1つの教養だとか文化だとかになって、そういうことに構わないで何かを溌剌と表現できるというのは、たとえば・・・。
山梨
 アールブリュット。
イケムラ
 うん。ああいう人たちの作品を見ると、私ははっとするんです。すごく反省させられる。意識のし過ぎというのがとても邪魔になるんだなって思うんです。特にコンセプチュアルアートが主流の環境の中で、対照的な考え方で自分でも戸惑う時がけっこうあります。
皿井
 焼き物も同じですよね。焼き物も、火によってどういう結果が出てくるか分からない。ある意味自然を巻き込んで、それも一緒になって作品をつくる。その偶然性も含んだ作品づくりというのを、二元論はつまらないとは思うんですけれど、東洋的な部分なんですか、西洋に身を置いてらしてどうなんでしょうか。
イケムラ
 二元論では物は考えられないと思うんです。でも二元論の克服ということは、アートの世界でするべきことであって。もちろん物を書いている方でもそうだし、研究者もそうだと思うんですけれども。そういった二元論を克服した時に何かが生まれるというのは、この間の「かたち」シンポジウムでいろんな方のお話を聞いていて、つくづくと思ったんです。私たちみたいな作家は、どちらかというと、自分に興味あることしか見ていないんだなということがすごく分かって、ちょっとショックだったんです。
 二元論の克服というのは、物を何か行動に移せたら克服するだけではない。対象と自己だとかいろんな二元論があるわけですけれど、それをどういうふうに合体していくか。あるいは、矛盾のまま突き上げられるか。そういうのもあって。西洋、西洋っていいますけど、どこまで西洋なのかも分からないし、西洋でも私の好きな人は非常にもっと東洋的で面白いミクスチャーがある。だから彼らは違うんだ、私は違うんだということをよく私も言うんですけれど、そのたびに反省します。そういうふうな区切りを付けることによって、自己を囲おうとする。それ自体がまだまだ人間が出来てない証拠だと思います。
 だから、私は自分の故郷を非常に誇りに思うし、日本人であることもとても誇りに思うようになったのは、やっぱり年のせいかななんて思うんですけれど。違いというのがあるけども、ないという。だから、私たちはどこに行ってもいいんだ。どこに行ってもいいけど、でも帰ってくるのも素晴らしいなという、そういう感じの東洋というのをもって行きたい。

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