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鼎談 「「かたち」の生成をめぐって―イケムラレイコの場合」

両義性をめぐって

皿井
 イケムラさんの作品、彫塑にしても、塑像にしても、絵画にしても思うのは、いかようにも見えるという、多角的な、両義性あるいは不完全性。少女であるか、もっと中性的なものか分からないとか、少女といっても、男と女の境界、子どもと大人の境界とか、そういう文化的に規定された枠にとらわれない、そういう何かを揺れ動くような、そしてその間をどうにかしてつなげられないかというところを目指しておられるのかなといつも思うんです。
 以前、川上弘美さんと対談されていましたよね。私も好きで、『真鶴』などを読んだりするんですけれど。『真鶴』のモチーフも結局、だんなさんに出て行かれてしまった女性が、狂気と正気の間、あるいは夢と覚醒の間、この世とあの世の間というのを揺れ動く。物語全体に何かつかみどころのないような、そういうイメージだと思うんですけど。何となく、イケムラさんの作品のイメージとシンクロするような感じがするんです。
イケムラ
 それは彼女と対談した時も、とても思いました。私もかなり読んだんですけれど、対談の前にね。非常に感覚として覚えてるのが、エロスと食べること。彼女の作品はしょっちゅう食べることが出てきて、2人で笑ってたんですけれど。「また食べに行こうね」なんて言ったと思うんですけれど。でも、その後なかなか機会がなくて。
 でも、境界のあいまいさというか、そういった境界をつくらないということ。私はどちらかというと、両義的なものをつなぐんじゃなくて、既にもう浸透していると思うんですよね。だから男と女じゃなくて、男は女でもあり、女は男でもあって、両方がいつも浸透していると思うんです。だから西洋、東洋も同じであって、そういった両義性が合体するんじゃなくて、もう既に入り込んでる。たとえば大人と子ども、私は自分が年齢を重ねるにつれて、内面の子どもが発現する。子どもっぽくなりたいということではなく、やっと子どもになれるんですよ。私たちは子ども性というのはずっともっていて、それがなかなか大人になるということによって抑えられちゃう。
 動物とも同じで、動物のほうが人間的であったりして、人間の動物性だとか。だからそういった境界というのを、どんどんどんどん取り払った時に、1つの自由の感覚が可能であると思うんです。
山梨
 輪郭が本当にないというか、いつの間にか「かたち」が移っていく、色が色面が移っていくという。線や輪郭線は現実にはない、人間が観念的につくるものですよね。イケムラさんは輪郭線を描かない。
13. レンブラントの自画像,
Self-Portrait of Rembrandt
14. レンブラントの自画像,
Self-Portrait of Rembrandt
イケムラ
 たとえば、レンブラントの自画像。この映像を見ていて、急に写真を撮りたくなって、撮ったんですけれど[13 ]。もちろんレンブラントの自画像はよく知られていて、素晴らしいですけれども、それを集めて、その変化を見ると、境界のなさみたいなものが、時間だけでなく、年齢だけじゃなくて、顔の表情だとかフィジオロジーの変化というのが、ペインティングとともに感じられて。
 これが一番若い時のレンブラントの自画像です [14] 。若い時は、どちらかというと、まだ輪郭はあって、それがだんだんと崩れていくということの美しさ。一般には美しくないんだろうけど、はっとするのは、ほとんど輪郭を使わないところです。非常に近く見ると、ペイントとペイントが絡んでいて、結構ボリュームあるんですけれど、でも1つのミステリー。どうしてこんな表現が可能なのかって、びっくりする。  レンブラントは本当のマスターではあるけれども、このスライドのように映像が悪いことによって、私たちが感じることが非常に伝わるのではないかなと思ったんです。私の水彩のポートレートもよかったら見てください [15]
15, Artsits, Popes and Terrorists
もちろんレンブラントと比較する気は全然ないので、ご心配なく。これは「アーティスト、ホープとテロリスト」という題でつくったシリーズなんですけれど。アーティストと聖人、テロリスト、これも1つの境界であって、社会的カテゴリーになります。
 社会の脇のほうにいながら、1つは聖的に見られたりする。だからといって聖者といわゆる悪者というのは関連し合っている。もちろんテロリズムを正当化しませんし、現在起こっていることは悲惨です。ただ、テロリストだって何かの政治的・イデオロギー的ビジョンをもっているわけでしょう。思想的なものや既成の価値を疑問に掛けるという。それを破壊行動に移すというのは許されないことですが。でも動機としてあるのが、何かを変化させようとする、そういったユートピアでもあり、そしてまた暴力的なエネルギーでもある。そのインテンシティーというのは、比較できるものがあるんじゃないかと。
 そういうボーダーを取ったところで、とにかく私は水彩で、それになぞってかたちを探したわけ。
山梨
 その時、水彩を選んだのというのは何かあったんですか。即興性?
イケムラ
 やはりボーダーが流れ去ろうという瞬間でしょうね。似ているとかいうのじゃなく、肖像としてみせるとか、そういうことではないと思う。
皿井
 今スライドはアーティストとか順番に並んでいるわけじゃなくて、全部。
イケムラ
 そうですね。アットランダムで。

ことばと「かたち」

16. 東京国立博物館での展示風景,
Leiko Ikemura MOMAT Show, 2011
山梨
 言葉と「かたち」についてうかがいたいと思います。言語はどうしてもルールがあって、文法があって、しかもその言語の中で培っている文化的な規範というものもあります。そういうものから解き放たれるという意味でも、海外に行く、スペインに行くというのはチャレンジであったというふうにおっしゃっておられました。
 ほかの対談でも、違う言語の場所に行くというのは、いつもある種、無垢にはならないでしょうけれども、目の新しさとを獲得するきっかけになるとおっしゃっていると思うんです。一方で展示をなさる時に、詩もお書きになりますね。展示の会場の中に文字を入れて、絵画と一緒に並置されますよね [16]。外国語大学にいらしていたのに美術家になられたのは、文字の表現可能性に対する、ある限界を感じたのかなと勝手に想像するんです。文字と視覚的な造形言語で、どういう対応の異なり方があるのでしょうか。
イケムラ
 私たちみんな詩人だと思うんです。ただ、この詩人の要素を発揮できないのが日常であって。でも発揮できないから言葉が生まれる。そういった矛盾というのは、向こうに住んでいて非常に意識するんです。私はどっちかというと、スペイン語のほうがドイツ語よりもなじみやすい。スペイン語で話す時の自分が私は一番好き。日本語を話す時の自分というのは、とても大事。ドイツ語を話す時は、何か仕事に対してるような感じで。国民性が、その言葉に表れていると思うんです。それに沿って、私はカメレオンみたいに変化しているわけですよね。私とか個というようなかっちりしたものはないであろうと。
 でも、やっぱり一番懐かしいものがあるのは日本語のやまとことばみたい。それが無意識にあるんだなとふっと思ったのが2005年ぐらいの時かな。「うみのこ」という詩をすべて平仮名で書きました。それは1つの可能性でした。やはり言葉を意味から話して、でも意味は大事だけれども、俳諧という規則にとらわれないで、息を出すように。言葉よりも言霊、体から来る発声、言葉の初めのその前の状態というのかな、そういうことだまの必要性を長年、自分がいろんな国のランゲージにアダプトしているからこそ感じたんです。
17. ドイツアジア美術館での展示風景,
Korekara oder die Heiterkeit des fragilen Seins,
Museen Dahlem, Berlin, Germany,2012
 ここは漢字も入れたりしているんですけれど [17]。アフォリスムみたいなのをさっと書き下ろすということがあります。それを展示に取り入れるというのは言葉の姿に惹かれるからです。特に日本語の姿は私はとても美しいと思うんです。一度ベルリンで行った展覧会では、彫刻と日本語を雨のように床まで降らせて。  ここで自分の言葉を彫刻と交ぜて。ショーケースって非常にやりにくいですよね。ガラスまでこんなふうに入っていて、それでこの垂直性のガラスを生かして、言葉を上から流しましょうと、その垂直性を床まで続けて。ドイツ人は読めないけれど、でも、その言葉のもっている言霊みたいなものが感じられるのではないかということで。
山梨
 日本語を日本でないところで書くというのは、普通、言葉はコミュニケーションのためのものなので、まず日本で話すと、日本人が聞き手として想定されているという、言語ってそういう何ていうのか。
イケムラ
 コミュニケーションのツール。
山梨
 存在的な制約というか、位置づけがある。それを換骨奪胎していって、意味が通じないのに、文字をかたちとして生かしたのではないのでしょうか、これは。
イケムラ
 どうでしょうね。私もちょっと分からないけれども、文字も「かたち」より姿だと思う。
山梨
意味ではなくて。
イケムラ
 意味ではないけれども、意味もある。言いたいことはやっぱりあるんだと思います。言いたいことに「かたち」を与えるというのが、私たちの仕事でしょうね。どの「かたち」を取る、どのメディアを取るかというのは、その内容による。一番大事なのは、詩人の心構えでしょう。

作品の自律性の危機 かたちとコンテクスト

山梨
 うかがっていて思うのですが、私もモダニズムの中で教育されてきた者なので、何かしら表現者のなかには表現したいイデアがある。それを作品というのはモノ化したものだというふうに、作品に対する時に構えちゃうんですね。それで、作者の思ったイメージというものに、いろいろなものから近づいていこうとする。でも、それはもうポストモダンになってから、こちらの見る側のコンテクスト、ゴンブリッチも言ってますけれども、無垢の目はないし、ポストモダンになってからは見る側のコンテクストというのは、どうしても入り込んでしか人間は認識できないとわかってしまった。イケムラさんがご自身でつくりたいと思ってつくる「かたち」と、ご自身がそれをまた見た時の認識の「かたち」って異なると思いますし、2000年につくった作品を当時はこう見たというのが、今見るとまた違うものとしてイメージが立ち上がる。
 個々の自分のコンテクストのなかにしか出会いはない。そうすると、どういうふうなイメージを受け取るのが正しいのか。正しいものを求めるなんて馬鹿ねという話なのかもしれないですけれど。どう対応していいかというのが不安なんです。イケムラさん作品は輪郭がはっきりあるわけじゃない。ボーダーがボーダーレスになっていて、その不安感というのがまた魅力だとも思うんですけれど。作り手としては、どう見られることを覚悟していますか?
イケムラ
 すごく複雑だと思うんですけれど。というのは、最近は、いわゆる作り手のアーティスト性というよりは、たとえばメディアの中間に立つ側。美術館の学芸員の方とか、研究者だとか、キュレーションしている人たちのアーティスト的要素のほうが強いわけですよ。物づくりの人は、どちらかというと、そういったシステムの中で発表していくわけですよね。モダニズムは終わっていて、コンテクスチュアリズムかな。アートのもっている自律性というのを、もうそれほど尊重しない、しなくてもいいという、そういう時代に来ている。危機ですよね。でも自分のなかにもいくつかの視点があってなかなか無垢なパーセプションが難しい。私はどういう風に観者にうけとられるかを勘定に入れたくないですね。なにかストラテジー的になってしまう、すべてが計算になってしまう。
 そういう点で、モダニズムを勉強した私のような人間にとっても不安です。確かに。自分がつくって、作品はあって、見てくれる人がいる。そういう図式がもう成り立たないんじゃないかと思うんです。いわゆるアート自体が1つの、そういったパーセプションの機械の中の1コマであるというのではなくて、だからと言って自律性を持ってアーティストが何かを作って、それが創作者というよりも、単に仕えるものであると。何かに仕える。
山梨
 捧げる。
イケムラ
 捧げるという意識を私は養いたいと思うんです。中世期以前だと思う。作者の名前のない時代。今のイメージメーカーじゃないけど、現代アートは、1つのデザインインダストリのプロダクトになってきています。そういった経済の中で動いているから良くないんですけどね。でも、そういう話はまた次の機会にしましょう。

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