三浦小平新潟県佐渡の小平窯で有名な陶芸家三浦小平は、9月8日午前3時28分、腸閉ソクのため佐渡郡相川町の相川病院で死去した。享年73歳。告別式は10日午前10時から同町玉泉寺で行なわれた。明治31年(1898)10月1日新潟県佐渡郡に三世常山(吉原清吉)の二男として生まれた。幼名、博。因みに生家は、祖父三浦常山(初代)が佐渡に開いた無名異焼(むみょういやき)の窯元であって、常山窯としては江戸末期から明治中期にかけての東京における陶芸の名家、三浦乾也に初代から三世まで指導・愛顧を蒙ったという。伯父良平(二世常山)の後を、父清吉が三世を継いでいた。博(のちの小平)は明治37年相川町立相川小学校に入学し、以来佐渡中学校に進学したが中退して、相川町の史家であり漢学者であった岩木拡(号枰陵)の私塾に通って漢学を学んだ。のちに上京して日本美術学校に入り、洋画を勉強した。更に葵橋洋画研究所に転じて3年間画技の修得に励んだ。当時の多感なこの画学生は、草土社の岸田劉生や中川一政、それに関根正二らのヒューマンな作品に傾倒し、また自分でも人物画をリアルに描こうと試みるなど、その影響を多分に受けた。しかし彼は、自分の画技に対する限界と、画家として立つ経済的困難性を考え、しかも父常山三世の懇請もあって、遂に画家志望を断念し、大正11年帰郷して父のもとで薫陶をうけながら家業に従事することになった。昭和4年12月22日、父が脳溢血で急逝して、その跡目は常山二世(良平)の長男舜太郎が帰郷して常山四世となったので、彼は常山窯をはなれて独立し、翌5年1月、小平窯を創始した。以後、陶芸家としての活躍は、次の略年譜に詳しいが、青年時代に修めた洋画の素養は、後年の作陶に活き、殊にその絵付けにすぐれた特技を現わし、むしろ陶芸家というより陶画家としての本領を発揮し得たといえよう。略年譜明治31年 10月1日新潟県佐渡郡において、三世常山(吉原清吉)の二男として生る。明治27年 相川町立相川小学校に入学し、以来佐渡中学校、日本美術学校と進学したが、生来の勝気と世相の変転とに影響され破乱の多い青年期を送った。大正13年 父常山の陶業に従事し、立志家業を継いだ。昭和3年 1月、三上イシと結婚する。昭和4年 12月22日、父三世常山死亡する。昭和5年 1月、家督相続について親戚協議を経て小平窯を創設する。昭和23年 日展入選「いか文花瓶」。昭和24年 8月20日、高松宮殿下御来訪。昭和24年 10月黒田陶苑にて第1回個展を開催する。以後、昭和28年第5回個展まで同時期、同場所にて毎年個展を開催。昭和29年 日本橋三越にて第6回個展を開催する。6月、朝日新聞社主催・現代日本陶芸展に招待出品、以来毎回出品する。昭和33年 東京国立近代美術館主催・国際陶芸展に招待出品「渚のリズム大皿」。10月、新潟市小林百貨店において親子三人展を開催。昭和36年 8月、三笠宮殿下御来訪。12月、相川病院に入院、胃かいようを手術す。昭和43年 7月、現代茶陶百家集、現代陶芸図鑑に作品収穫される。昭和44年 12月、現代の茶盌に収録される。昭和45年 第四銀行賞受賞。昭和47年 9月8日午前3時28分死去。勲六等単光旭日章を受ける。昭和48年 10月19・20・21日 新潟県佐渡会館にて遺作展が開催される。 |
藤田嗣治(レオナール・フジタ)元二科会会員、芸術院会員であった藤田嗣治は、1月29日午後1時14分、スイス・チューリッヒのカンスピタル州立病院で前立腺腫ようのために死去した。享年81歳。臨終には、君代夫人、海老原喜之助、田淵安一、元パリ市会議員ジョルジュ・ブラジェが附きそっていた。藤田嗣治は、明治19年(1886)に東京に生まれ、東京美術学校卒業後、大正2年に渡仏し、第1次大戦下にはパリにとどまって辛苦の生活を送り、モジリアーニ、スーチンらと親しく交友し、大正8年(1919)ころから「すばらしい白地」(grand fond blanc)と賞讃された独自の乳白色の下地に、繊細な描線で描いた作風を展開させて国際的な評価を獲得した。その後、エコール・ド・パリの著名なひとりとして国際画壇のなかで活躍し、大正13年には第5回展帝展に作品を送り、昭和4年に17年振りに帰国して個展を開催した。その後、南米・中米旅行などをへて、昭和15年(1940)第2次大戦下のパリを脱出して帰国し、戦争中は、戦争記録画の第一人者として活躍した。戦後に至って、日本画壇のなかでの中傷など煩瑣さをいとって昭和24年(1949)日本を離れてアメリカ経由でフランスにわたり、昭和30年(1955)フランス国籍を取得し、同34年(1959)には、ランス大聖堂でカトリックの洗礼を受けた。昭和41年(1966)、ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計から装飾までを完成させ、同年12月入院・手術し、一度退院、再度入院して切開手術を行なった。藤田の作品は、大正15年(1926)ルクサンブール美術館に収蔵されて以来、ルーヴル美術館、ニューヨーク近代美術館、パリ国立近代美術館など各国の美術館に所蔵されている。年譜明治19年・188611月27日、東京市牛込区に生まれる。父嗣章は千葉県安房郡の出身で、当時陸軍一等軍医。嗣治は次男で、四人姉弟の末子。嗣章は領有後間もない台湾、朝鮮の衛生行政に尽力し、大正元年、陸軍軍医総監に栄進した。明治24年・1891(5歳)8月、父の任地熊本で母まさを失う。幼い嗣治は長姉きくの許にあずけれらて養育される。きくの夫蘆原信之は嗣章の副官。明治26年・1893(7)4月、東京高等師範学校附属小学校に入学。明治33年・1900(14)4月、東京高等師範学校附属中学校に入学。明治38年・1905(19)3月、東京高等師範学校附属中学校を卒業。4月、東京美術学校予備科に入学。9月、東京美術学校西洋画科に入学。明治40年・1907(21)7月、精勤賞を受ける。明治43年・1910(24)3月、東京美術学校西洋画科本科を卒業。卒業制作は「自画像」「女」「網すき」。5月、白馬会第13回絵画展覧会に「山より」「女」が入選。美術学校卒業後、和田英作教授の助手として、帝国劇場の壁画や背景の制作を手伝う。このころから3年続けて当時の文展に出品したが、3回とも落選。明治44年・1911(25)3月、東京勧業展覧会に「青梅」「山家」「上野原」「駅」を出品。明治45年・1912(26)3月、第2回東京勧業博覧会に「午後の日」「宿裏」を出品。6月、光風会第1回絵画展覧会に「清水港」「帝国劇場」「南国」が入選。大正2年・1913(27)6月、門司から日本郵船三島丸で渡仏。この年の末モジリアニ、スーチンと知り合う。大正3年・1914(28)しきりに立体派風の制作を試みる。大正6年・1917(31)6月、シェロン画廊で初の個展を開く。ピカソの友人である批評家アンドレ・サルモンが目録に序文を書く。大正7年・1918(32)11月、シェロン画廊で2回目の個展。このころからフジタの名がひろまる。大正8年・1919(33)はじめてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選して、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出した。大正9年・1920(34)渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品。苦心のすえ独創した乳白のマティエールは批評家を魅了し、grand fond blanc(すばらしい深い白地)と称賛された。大正10年・1921(35)サロン・ドートンヌの審査員に挙げられ、いよいよ黄金時代が展開する。画商も蒐集家も藤田の作品を奪い合った。大正11年・1922(36)10月、第4回帝展に「我が画室」(1921)を出品。大正12年・1923(37)11月、サロン・ドートンヌ第16回展に「五人の裸婦」を出品。サロン・デ・チュイルリーの会員となる。大正13年・1924(38)5月、第5回帝展委員。10月、第5回帝展に「静物」(1922)を出品。このころからフェルナンド・バレと別れてユキと暮す。大正14年・1925(39)レジオン・ドヌール五等勲章を贈られる。8月、第6回帝展審査員。12月、日仏芸術社主催第二次フランス現代美術展に「坐せる女」など油絵3点のほか版画を出品。大正15年・1926(40)1月、「アミティエ(友情)」フランス政府買上げとなり、リュクサンブール美術館に収められる。5月、サロン・ナショナル・デ・ボザールの審査員。第5回フランス現代美術展に「モデル」「パリジェンヌの顔」ほかエッチング2点、サロン・ドートンヌに「横綱栃木山の像」出品。昭和2年・1927(41)11月、銅版画1点ルーブル美術館に収められる。昭和4年・1929(43)9月、ユキを伴って17年ぶりに帰国。10月、東京朝日新聞社屋で個展を開き、対策「構図」(1928)ほか鉛筆デッサン50余点、版画20点を出品。ひきつづき2回目の個展を日本橋三越で開催。「舞踏会の前」(1925)ほかデッサン、版画等数十点を出品。10月、第10回帝展に「自画像」(1929)を出品。昭和5年・1930(44)1月、日本郵船の大洋丸で横浜を出帆、北米を経由してパリに帰る。9月、ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3カ月間制作を行ない、さらにシカゴに1カ月滞在する。昭和6年・1931(45)1月、パリに引揚げる。10月、ユキに別離の手紙を残し、マドレーヌを伴ってブラジルに旅立つ。昭和7年・1932(46)3月、アルゼンチンに入り、さらにボリビア、ペルー、キューバなどを回る。11月、メキシコに着き7カ月滞在する。昭和8年・1933(47)ニューメキシコ、アリゾナからカリフォルニアに渡って4カ月を過し、11月17日横浜入港の秩父丸でマドレーヌと帰国。ひとまず高田馬場(淀橋区戸塚町)の中村緑郎邸(次姉やすの嫁ぎ先)に寄宿。昭和9年・1934(48)2月、日動画廊で個展。3月、二科会会員に推挙される。5月、大礼記念京都美術館開館記念京都市美術展に「メキシコ」を出品。9月第21回二科美術展覧会に「メキシコのマドレーヌ」「町芸人」「カーニバルの後」など27点を特別陳列。9~10月、銀座聖書館内ブラジル珈琲陳列所に壁画を制作。11~12月、北京に遊ぶ。この年、中村家の庭先にメキシコ風のアトリエを建てて移る。昭和10年・1935(49)2月、第2回油絵展(日動画廊)に「支那人」「和船」「好々爺」などを出品。3月、東京府美術館開館十周年記念現代総合美術展覧会に「自画像」(1929)を出品。6月、近作洋画小品展(新宿、紀伊国屋)に「大連支那人飯店」「眠れる女」など51点を出品。9月、第22回二科展に「北平の力士(大道芸人)」「五人女」「Y夫人の肖像」を出品。10月、日本壁画家協会結成され、顧問に推される。大阪の十合百貨店特別食堂に壁画を制作。11月、銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。昭和11年・1936(50)2月、第1回春季二科美術展覧会(日本橋、高島屋)に「私のアトリエ」「太海風景」ほか1点を、第3回小品展(日動画廊)に「北米ニューメキシコ」「南仏」「房州太海」「猫」「日本娘」など油絵、どろ絵、水彩画等の小品24点を出品。4月、第3回現代十大家洋画展(求龍堂主催、銀座資生堂)に「秋田風景」を出品。5月に開館した京都市の関西日仏開館貴賓室にカンバス張付油絵壁画を制作。6月、マドレーヌ自宅で急死。27歳だった。9月、第23回二科展に「自画像」「コドモの喧嘩」を出品。9月、京都市の丸物百貨店中二階喫茶室にカンバス張付の装飾壁画を制作。12月、堀内君代と結婚する。昭和12年・1937(51)2~3月、秋田市の平野政吉邸でカンバス張りの大壁画「秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図」を制作。6月、第4回近作展(日動画廊)に「佐渡小木港の雨」「夏の漁村房州太海」「紅花」「甲州の富士」など油絵26点を出品。9月、第24回二科展に1900年」「千人針」を出品。4~8月、横光利一原作「旅愁」の挿絵を東京日日新聞に連載。7月、麹町に京風の純日本式住宅を新築。この年、「自画像」(1928)パリの国立近代美術館に収められる。昭和13年・1938(52)5月、二科会濤友会のメンバーと沖縄に遊ぶ。6月、日本画展(大阪、関西画廊)に近作18点を、琉球作品発表展(日動画廊)に「海辺の墓」「琉球の女」など20余点を出品。9月、第25回二科展に「竈の前(那覇)」「客人(糸満)」「孫(那覇)」「島の訣別(那覇)」を出品。10月、海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍する。昭和14年・1939(53)4月、横浜出帆の日本郵船鎌倉丸で渡米。5月、パリに着く。6月、海軍省の依頼で制作した「南昌飛行場焼打ちの図」海軍館に陳列される。昭和15年・1940(54)5月、第二次大戦の戦火迫るパリを脱出し、7月、神戸入港の伏見丸で帰国。8月、第27回二科展に「人魚」「最後の平和」「ドルドーニュの家」「争闘(猫)」「ねまきの子供」など15点を特別陳列。10月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「サーカスの犬」を出品。9月、陸軍省嘱託として、ノモンハンの戦闘を主題とする作品を制作するため新京に向い、10月、帰国する。12月、石井柏亭、小杉放庵、津田青楓、中川一政らと新団体「邦画一如会」を結成。昭和16年・1941(55)1月、よき理解者であった父嗣章死去する。3月、邦画一如会第1回展に「港」(二曲一双)を出品。5月、二科会会員を辞退し、7月帝国芸術院会員となる。第5回大日本海洋美術展(東京府美術館)に「南昌飛行場焼打ちの図」「武漢進撃」を出品。6月、日本橋三越で個展を開き、「蚤市の床屋」「戦時下の巴里」「雨のモンマルトル」「巴里の屋根と鳩」「召集令と野の花」など油絵21点、素描、水彩を出品。7月、第2回聖戦美術展(上野、日本美術協会)に「哈爾哈河畔之戦闘」「古北口総攻撃(満州事変)」を出品。10月、帝国芸術院、国際文化振興会から文化使節として仏印に派遣される。昭和17年・1942(56)2月、「テンガー飛行場夜間爆撃」を陸軍航空本部に、「アリゾナ型撃沈の図」を海軍省にそれぞれ献納。3月、戦争記録画制作のため陸軍省から、5月、おなじく海軍省から南方に派遣される。7月、大東亜戦争従軍画展(高島屋)に「パーシバル」を出品。10月、満州建国十周年慶祝帝国芸術院会員絵画展覧会(帝室博物館)に「仏印順化承天府外苑」を出品。12月、大東亜戦争美術展覧会(東京府美術館)に「十二月八日の真珠湾」「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」「二月十一日(ブキ・テマ高地)」を出品。昭和18年・1943(57)1月、「シンガポール最後の日」その他に対し、昭和17年度朝日文化賞を贈られる。9月、国民総力決戦美術展(東京都美術館)に「アッツ島玉砕」を出品。10月、第6回新文展に「嵐」を出品。12月、第2回大東亜戦争美術展覧会(東京都美術館)に「天皇陛下伊勢の神宮に御親拝」「ソロモン海戦ニ於ケル敵ノ末路」「○○部隊の死闘-ニューギニヤ戦線-」を出品。昭和19年・1944(58)2月、戦艦献納帝国芸術院会員美術展(帝室博物館表慶館)に「キャンボチャ風景」を出品。3月、陸軍美術展(東京都美術館)に「血戦ガダルカナル」「神兵救出に到る」を出品。10月、文部省戦時特別美術展覧会に「ブキテマの夜戦」「大柿部隊の奮戦」を出品。昭和20年・1945(59)8月、疎開先の神奈川県津久井郡小淵村藤野で敗戦を迎える。昭和22年・1947(61)5月、新憲法実施ならびに東京都美術館開館二十周年記念現代美術展覧会に「私の夢」を出品。7月、高島屋で藤田嗣治、堂本印象二人画展。9月、ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。10月、第3回日展第2科審査員となる。昭和23年・1948(62)10月、近代日本美術総合展(東京国立博物館)に「わが画室」(1936)を出品。10月、第4回日展第2科審査員。11月、資生堂で個展。昭和24年・1949(63)3月、羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」というのが故国に残す言葉であった。ニューヨーク滞在中、51番街の画廊で近作展を開催する。昭和25年・1950(64)2月、英国を経てル・アーブルに着く。3月、ポール・ペトリデス画廊で戦後第1回の個展を開催し、50点の作品がたちまち売り切れた。4月、大阪・松坂屋で藤田嗣治回顧展(毎日新聞社主催)開催。昭和26年・1951(65)11月、マドリッドでスペイン美術協会主催の個展が開催され、同地を訪れる。出品約50点。この年、秘蔵の労作「我が室内」(1921)「アコーデオンのある静物」(1922)「カフェにて」(1949)「花の河岸(ノートルダム)」(1950)をパリの国立近代美術館に寄贈。なお、この年「時代の証人・画家」第1回展に指名招待され、第2回以後も招かれて出品を続ける。昭和27年・1952(66)6月、ペトリデス画廊で個展を開き、油絵42点、水彩10点、ほかに版画を出品。昭和28年・1953(67)5月、第2回日本国際美術展に「浜辺の女」(1952)を出品。昭和29年・1954(68)7月、ペトリデス画廊で個展を開き「料理人の子」「朝」「母子」など41点を出品。昭和30年・1955(69)2月、フランス国籍を取得。フジタは第二の故郷パリの市民となった。3月、ブリヂストン美術館で藤田嗣治作品特別陳列が行なわれ、油絵、水彩、版画など約50点が出品された。3月「時代の証人・画家」第4回展に「宝物」を出品。5月、日本芸術院会員を辞任。10月、渋谷・東横で平野コレクション展が開催された。昭和31年・1956(70)3月、「時代の証人・画家」第5回展に「ジャン・ロスタンの肖像」(1955)を出品。夏、ペトリデス画廊で個展を開き、40点を出品。昭和33年・1958(72)3月、「時代の証人・画家」第7回展に「酒場」を出品。6月、ペトリデス画廊で個展。9月、第30回J.A.N.展(銀座、松屋)に「誕生日」を出品。昭和34年・1959(73)1月、大阪・梅田画廊で藤田嗣治作品展。10月、ランス大寺院で夫妻ともどもカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナルド。レオナルド・フジタの第一作「聖母子像」を同寺院に寄贈する。11月、フランス社会進歩協会から銀メダルを贈られる。昭和35年・1960(74)3月、「時代の証人・画家」第9回展に「トロワ・グラース」を出品。6月、ペトリデス画廊で個展を開き、50点を出品。9月、新宿・伊勢丹で藤田嗣治展(毎日新聞社主催)開催され、平野政吉コレクション74点を中心に近作29点その他10余点出品。昭和36年・1961(75)10月、第1回トリエステ宗教美術展で金賞。11月、パリ郊外セーヌ県に農家を買って改造し、パリの住まいをそのままにして新しいアトリエに移る。昭和37年・1962(76)10月、国際形象展(高島屋)に「夏草」を招待出品。11月、大正期の洋画展(神奈川県立近代美術館)に「インキ壺の静物」「雪児童」「横臥裸婦デッサン」出品される。昭和38年・1963(77)4月、フジタ展(日動画廊)に油絵7点、水彩5点、素描4点など出品される。10月、第2回国際形象展(三越)に「二人」(1959)「母と子」「ネグリジェの少女」を招待出品。昭和39年・1964(78)6月、ペトリデス画廊で近作展を開催。9月、第3回国際形象展(三越)に「静物」(1963)「少女」「少女と果物」(1963)を招待出品。昭和40年・1965(79)2月、レオナルド・藤田版画展(日本橋画廊)に「五人の裸婦」(1923)「裸婦」(1927)「リラの花」(1940)「親子猫」(1943)などが出品された。5月、「近代日本の裸体画」展(国立近代美術館)に「五人の裸婦」(1923)「裸婦」(1931)「二人の裸婦」(1932)出品される。6月、二科会五十周年記念回顧展(新宿ステーションビル)に「秋田の娘」(1937)など出品される。9月、大阪・フジカワ画廊で藤田嗣治近作版画展。10月、世界の巨匠水彩素描展(日動画廊)に「メキシコの女」(水彩・1932)「猫と少女」(水彩・1965)など出品される。昭和41年・1966(80)4月、第2回近代日本洋画名作展(奈良・大和文華館)に「裸体」(1926)「マドレーヌ」(1934)「インキ壺の静物」(1926)「パリ風景」(1958)出品される。6月、近代日本洋画の150年展(神奈川県立近代美術館)に「海岸風景」(1912)「婦人像」(1912ごろ)「五人の裸婦」(1923)「カーニバルの婦人」(1932)出品される。10月、第5回国際形象展(三越)に「孫娘と祖母」(1949)「母子像」(水彩・1951)ほか素描3点を招待出品。10月、ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が完成。設計からステンド・グラス、フレスコ壁画の制作に精力をそそいだ。12月、ぼうこう炎のため入院、手術を受ける。昭和42年・1967(81)1月、退院してニースでしばらく静養。7月、レオナルド・フジタ近作展(銀座・彩壺堂)。10月、エコール・ド・パリ展(大阪・大丸)に「裸婦」(1937)「猫」(1947)「祖母と孫娘」(1949)「水汲みの女」(1950)出品される。10月、幻の戦争名画展(月光荘ギャラリー)に「肉迫」(1943)「重爆」「雲上の空中戦」出品される。10月、チューリッヒの州立病院に入院。12月、エコール・ド・パリを中心としたフランス近代絵画展(渋谷・東急百貨店本店)に「横たわる裸婦と猫」(1921)「鏡を見る裸婦」(1926)「モンパルナスの売春宿のサロン」(1928)「バラ色のシュミーズを着たユキ」(1923)出品される。昭和43年・19681月29日、81歳で死去。2月3日、ランスのカトリック大寺院で葬儀。4月、勲一等瑞宝章を追贈される。9月から11月にかけて藤田嗣治追悼展(朝日新聞社主催)が東京セントラル美術館と京都市美術館で開催される。遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。9月19日~10月4日、東京日動画廊において「パリのフジタ」展(日動画廊主催)開催される。(年譜作成・土屋悦郎) 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小杉放庵小杉放庵は、明治14年栃木県日光に生まれた。父は蘇翁と号し平田派の国学者で神官をつとめていた。放庵は国太郎と名付けられ、少年時代を日光の山中で過し、父に国学の素読を習い、中学は一年で退学している。この頃、当地の洋画家五百城文哉に絵を習い、西洋名画の図版などを手本に模写をし、或は風景写生を試み、油絵、水彩を自由気儘な作画をみてもらっていた。4年ほど五百城文哉の許で学んでから上京、さらに小山正太郎の不同舎に入って学ことになった。この頃、小杉未醒の号を用い、漫画、挿絵で先づ名を知られるようになり、油絵は、文展に力を入れ、明治43年第四回文展から「杣」(三等賞)、「水郷」(二等賞)、「豆の秋」(二等賞)、と三年連続受賞して一躍画壇に認められるようになった。大正2年フランスに留学しむしろ東洋画への認識を新たにして東洋人という自覚を強めて帰国してきたようである。大正3年帰国した年には日本美術院が再興され、かねてから親友の横山大観に誘はれて、美術院の洋画部設立に盡力した。帰国後は、フランスで心惹かれたシャヴァンヌの装飾画が、そのごの作品に大きな影響を与えて、壁画や装飾画風の油絵が、院展時代から春陽会時代初期へとつゞき、東京大学、安田講堂の壁画は、その代表作の一つであろう。大正9年日本美術院洋画部はなくなり、同12年に春陽会を創立、晩年迄同会の中心となって制作に当っていた。昭和初め頃から、油絵と同時に日本画にも筆をとる様になる。油絵もまた、油気を抜いた絵具を渇筆風に画布にすり込んでゆく技法で、画面の肌は日本画を思わせるようなマチュールを好んだ。題材も、古事記、奥の細道、歌人、孫悟空、おとぎ話など古典によるものが多く、次で花鳥、風景に及んでいる。かつて芸術院会員に任命されていたが、晩年近く、33年には会員を辞し、作品も油絵より日本画に移り、新文人画とでもいうべき水墨の、気品に富んだ作品を多くのこしている。又歌人としても知られる歌集が出版され「山居」、或は隨筆集「帰去来」などの著書がある。第二次大戦中から新潟県中頸城郡に疎開していたが、4月17日同地の自宅で老衰のため逝去した。享年82才。略年譜明14 1歳 本名国太郎。12月30日栃木県に生る。父は富三郎、母は妙、6人兄弟の末弟。明19 6歳 この頃より父(蘇翁平田派の国学者)について大学、日本外史等の素読をならう。明21 8歳 日光小学校に入学。明28 15歳 宇都宮中学一年で中退。明29 16歳 父につれられて日光在住の洋画家五百城文哉の内弟子に入る。明31 18歳 画業に志し上京(師匠文哉には無断で出奔)夜、赤坂溜池り白馬会研究所に通う。まもなく肺尖カタルに犯されて帰郷。再び文哉宅に帰る。明32 19歳 吉田博日光へ来遊、はじめて知る。明33 20歳 師匠の許をえて再上京。吉田博の感化で小山正太郎の不同舎に入門。同期生に青木繁、荻原守衛らがいた。明34 21歳 田端で自炊生活。(漫画の外に教科書の挿画、日光、横浜などで外人相手に売る水彩画などを描いた)。この年太平洋画会創立。明35 22歳 太平洋画会第一回展覧会が上野公園5号館で開催。会員となる。明36 23歳 不同舎小山正太郎の推薦で近事画報社に入る。太平洋画会第2回展に「晩鐘」他4点出品。未醒と号す。明37 24歳 1月渡鮮、日露役勃発して9月で従軍、戦場の挿画や戦地の小景を画報通信。帰国後近事画報社の正社員として入社。詩集「陣中詩篇」(蒿山房)を刊行。第三回太平洋画会に「海辺」他8点出品。明38 25歳 太平洋画会第4回展に「戦友」他数展出品明39 26歳 独歩、独歩社をおこす。同社発行の「新右文林」に漫画を描き、ようやく漫画家として頭角をあらわす。独歩の仲人で春夫人と結婚。第5回太平洋画会展に「捕虜と其の兄」他出品明40 27歳 5月美術雑誌「方寸」を創刊、石井柏亭、山本鼎、森田恒友、倉田白羊、坂本繁二郎、平福百穂らと共に同人で活躍、画壇に新風をおくった。10月明治文展開設。明41 28歳 10月第2回文展に「湟槃会」初入。明42 29歳 第7回太平洋画会展に「黄昏」出品、押川春浪、中沢臨川ら武侠社仲間と交友あり。明43 30歳 第8回太平洋画会展に「浦島」「一本杉」出品。第4回文展で「杣」が三等賞。明44 31歳 第9回太平洋画会展に「河原の杉」出品。第5回文展に「水郷」出品二等賞。シャヴァンヌの影響ありとされた。明45 32歳 第6回文展に「豆の秋」出品、二等賞無鑑査、画壇的地歩を確定する。この秋、横山大観と知り設立の計画を発表。大2 33歳 渡辺六郎の後援で渡欧、主に仏国に滞在イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、ロシア等を見学、翌年シベリア経由にて帰国「小湾」「ブルターニュ風景」「アルハンブラの丘」等が滞欧作品である。欧州紀行「画筆の跡」を刊行した。大3 34歳 再興日本美術院の創立に参加、同人として洋画部を担当。はじめ二科会にも出品したが、のち院展に専従して「飲馬」(第1回)「黄初平」(第2回)「或日の空想」(第3回)「山幸彦」(第4回壁画)「出関老子」(第6回壁画)等を出品した。大9 40歳 院展洋画部同人と連袂脱退事件あり、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、足立源一郎らと共に日本美術院を脱退。大11 42歳 春陽会創立に参加、前記院展脱退組の外に会員梅原龍三郎、客員岸田劉生、万鉄五郎、石井鶴三、中川一政、木村荘八、椿貞雄、山崎省三、今関啓司等後客員は会員となる。大12 43歳 第1回春陽会展に「泉」出品、この秋関東大震災。大13 44歳 第2回春陽会展に「採薬」出品。大14 45歳 第3回春陽会展に「泉」出品、東大安田講堂に壁画製作、アーチ形「泉」「採薬」を両側に「静意」「動意」の半円形二面を添える。昭2 47歳 芭蕉「奥の細道」紀行の足跡をしたい友人岸浪百艸居と同道、東北、北陸に遊ぶ。以後しだいに水墨画に親しみ、「奥の細道帖」の製作に没頭。第5回春陽会展に「奥の細道帖」翌同第6回展に「奥の細道」15題を出品。昭4 49歳 中国に遊ぶ。この機会にと改号。春陽会展出画では「帰牧」(第5回)「羅摩物語」(第6回)「山童遊嬉」(第7回)「娘」(第9回)等が油絵、「奥の細道帖」「水荘有客」(第5回)「漁樵閑話」「奥の細道」15題(第6回)「古事記」(墨素描第7回)「後赤壁画巻」(第8回)「呉牛」(第10回)「石上」(第11回)「草木春秋」(第12回)「山居十趣」「松下人」(第13回)等が水墨画である。昭和5年著書「放庵画論」(アトリエ社)昭10 55歳 松田改組により帝国美術院会員となる。つづいて近衛内閣、安井改組による帝国芸術院会員となる。主な作品には「楽人」(紀元二六〇〇年奉祝展)「金太郎」(春陽会)「うずめの舞」(芸術院会員展)「僧」(ニューヨーク万博展)等。昭20 65歳 戦災にて田端の画室焼失、居を越後赤倉に移し定住する。戦後は春陽会のほかに珊々会、墨心会展等に出品、続「本朝道釈」(春陽会第23回展)「曽遊江南画冊」(同24回展)「童話四題」(同25回展)「西遊記連図」(同27回展)「童話八題」(同28回展)「僧の顔」(同35回展)等の日本画「浦島の顔」「大伴旅人」等の油絵がある。昭34 79歳 日本芸術院会員辞退。本来の野人にかえる。主なる戦後著書、隨筆「帰去来」洗心書林、歌文集「石」美術出版社、絵と紀行「奥のほそみち画冊」竜星閣、歌隨筆「炉」中央公論社、隨筆「故郷」竜星閣、画集「小杉放庵」三彩社その他多数がある。昭35 80歳 4月小杉放庵の画集60年展を開催。初期以来の洋画、日本画素描等51点を展示。昭36 81歳 肺炎にて肉体の衰えめだつ、春陽会展に「童話三題」出品。昭38 83歳 再三の肺炎に体力を失い寡作となる。昭39 84歳 三月病床につき再起せず四月十六日黄泉の客となる。 |
渡辺聖空日本画家渡辺聖空は12月18日脳溢血のため市川市の自宅で急逝した。享年69才。本名辰左右。明治26年3月12日岐阜県に生れた。名古屋商業を卒業後上京し、松林桂月に師事したが、後に門下を退き、新しい墨絵の技法の研究に向ひ、小杉放庵、小川芋銭、中川一政等と図り墨人会を結成した。墨人会は芋銭の没後休会したが、その後、更に古来の墨絵を研究、新しい手法を創り出し、新生面を求めて日本墨絵会を結成、その会長となった。昭和9年第1回個展を資生堂で開き、以後資生堂、文春ギャラリー、産経ホール等で14回個展を開いている。著書に「大虚画芸」と「墨絵の描き方」がある。 |
小川洗二新興美術院理事小川洗二は、5月13日東京都渋谷区の自宅で、狭心症のため死去した。雅号倩葭。享年57才。明治38年3月15日茨城県稲敷郡に、日本画家小川芋銭の二男として生れた。日本美術院試作展、第2回聖徳太子奉讃美術展、茨城美術展等に作品を発表した。昭和3年東京美術学校図案科を卒業し、その後は専ら挿絵を描いた。昭和12年石井鶴三、木村荘八、中川一政、岩田専太郎等と挿絵倶楽部を設立した。昭和33年新興美術院会員となり、同36年には理事に推されている。 |
木村荘八春陽会々員木村荘八は脳腫瘍及び肺臓癌のため11月18日東大病院で逝去した。65才。明治26年8月21日東京日本橋区に生れた。明治43年京華中学を卒業、文学演劇に関心をもつ多感な少年であつた。45年葵橋の洋画研究所に入り岸田劉生と交友、同年フューザン会を結成して当時としては革新的な、フォーヴ風な作品を発表した。翌年フューザン会は解散し生活社を起したが、大正4年更に岸田劉生等と草土社を創立した。草土社時代は劉生の影響をつよくうけ、精神主義的な傾向のつよい写実描写に入つていつた。この時代、二科会、院展洋画部にも出品して、大正7年には院展で樗牛賞を受けている。大正11年草土社は解散、同年発足した春陽会に招かれて、客員として参加し、以来春陽会々員として、小杉放庵、中川一政らと同会の中心となつて会の発展につくした。「パンの会」「歌妓支度」「牛肉店帳場」「新宿駅」「髪を結う女」など代表的な作品が春陽会前期に描かれている。芝居、東京風俗などを扱つた作品が多く、独自の画風をみせている。戦後は浅草風俗「一の酉」などのほか、「窓外風景」「南橡風景」など、自宅周辺の風景を題材として一層観照を深めていつた。油絵のほか、挿絵、舞台装置、随筆と多才な面をみせているが、ことに挿絵では「にごりえ」「たけくらべ絵巻」「墨東綺譚」「霧笛」などのすぐれた作品をのこしている。西欧的な教養をもち、東京下町の人情風俗に限りない愛着をよせていた東京人であつた。著書に「風俗帳」「続現代風俗帳」「現代挿絵考」「東京今昔帳」などの随筆集があり、「東京繁昌記」は芸術院恩賜賞をうけた。略年譜明治26年 8月21日東京市日本橋区に生れた。父荘平は「第八いろは牛肉店」経営、荘八は八男。兄弟に木村荘太、荘十、荘十二など明治43年 京華中学卒業、この後暁星中学仏語講座に席をおき仏語を学ぶ明治45年 葵橋洋画研究所に入り、岸田劉生と交友10月、フューザン会を結成する大正2年 フューザン会解散、この頃から美術書の翻訳、新美術の紹介など盛んに行う。「ボティチェリ」「エル・グレコ」などの訳書出版大正3年 南品川宿、及び大崎に居住。岸田劉生、高村光太郎等と「生活社」をつくり展覧会をひらく大正4年 田中屋、三笠で個展10月現代の美術社主催洋画展に参加し、「桐谷展望」他11点出品。ほぼこのときのメンバーで草土社を結成する(この展覧会を草土社第1回展と勘定する)また美術雑誌「現代の洋画」の編集を担当する。「フアン・ゴッホの手紙」「未来派及立体派の芸術」など翻訳出版大正5年 本郷に転居草土社第2回展に「築地グラムマア・スクール附近」等47点出品。草土社第3回展に46点出品大正7年 第5回二科会展「土と草」(夏)(秋)出品第5回日本美術院展洋画部に「二本潅木」他3点出品、樗牛賞をうける。以後院展には毎回出品なお草土社には解散迄毎回10点以上出品する大正8年 第6回日本美術院展洋画部に「朝の雲」「夕焼」等9点出品少年美術史「二一ル河の草」出版大正9年 中国に旅行。第7回院展に「老虎灘の支那家屋」他4点の中国風景を出品。(この年で美術院洋画部は消滅)大正11年 1月春陽会結成に招かれ客員となる。11月草土社は第9回展を開いて解散大正12年 春陽会第1回展に「大学構内」「郊外風景」大正13年 春陽会第2回展「演劇図」外7点出品。春陽会々員となる「富士に立つ影」の新聞挿絵執筆、東京市復興局参与となる大正15年 春陽会第4回展「たけくらべ絵巻」「お七」「桜丸切腹」出品聖徳太子奉讃展「たけくらべ絵巻第2巻」昭和2年 春陽会第5回展「たけくらべ絵巻第3巻」「風景習作」、挿絵画稿類を出品著書「広重」昭和3年 春陽会第5回展「パンの会」昭和4年 春陽会第7回展「室内婦女」昭和5年 春陽会第8回展「歌妓支度」昭和6年 杉並区に転居春陽会第9回展「牛肉店帳場」(未完)、「夜楽」、挿絵原稿「ラグーザ玉」「祖国は何処へ」他昭和7年 春陽会第10回展「牛肉店帳場」昭和8年 春陽会第11回展「東京風景に因む挿絵」38点昭和9年 春陽会第12回展「わたしのラバさん一駒」「小説霧笛の場面」8点その他挿絵2点昭和10年 春陽会第13回展「新宿駅(東京風景第5)稿」、「同習作」昭和11年 春陽会第14回展「新宿駅(東京風景第5)」「浅草寺春(東京風景6)」のほか「女人横躰」など9点昭和12年 春陽会第15回展「盛綱陣屋」「浅草元旦」「夜の宿」など5点。東京朝日新聞に4月から6月迄連載の永井荷風「墨東綺譚」に挿絵をかく昭和13年 杉並区に新築成る春陽会第16回展「暫」「夜の宿」「墨東綺譚小説挿絵」など。この前後から芝居の舞台を題材とした作品多くなる昭和18年 春陽会第21回展「銀座なにわ橋」著書「随筆風俗帳」昭和22年 春陽会第24回展「庭木」「春雪」「日没」大仏次郎の小説「霧笛」の挿絵昭和26年 春陽会第28回展「窓外晴」など5点、他小説挿絵出品昭和27年 春陽会第29回展「窓外風景」など6点著書「現代風俗帳」昭和28年 春陽会第30回展「樹の中の家」「三の酉」の外、「花の生涯挿絵」著書「続現代風俗帳」「東京今昔帳」昭和29年 春陽会第31回展「窓外風景」など3点の外「雨月物語、白峰」など著書「銀座界隈」「花の生涯画譜」昭和30年 春陽会第32回展「窓外晴」など3点昭和31年 春陽会第33回展「窓外晴」「窓外日没」「酉の市」昭和32年 春陽会第34展「どん底」など3点昭和33年 春陽会第35回展「窓外風景」「和田本町日没」など。他に日本画「たけくらべ」など5点10月22日発病、11月18日東大病院にて逝去。病名転移性脳腫瘍及び肺臓癌11月遺著「東京繁昌記」出版昭和34年 2月「東京繁昌記」の文と絵に対し芸術院恩賜賞が贈られた2月日本橋白木屋において木村荘八遣作展開催、洋画、日本画、挿画100余点陳列 |
椿貞雄国画会々員椿貞雄は、12月29日千葉大学附属病院でホドキン氏病のため逝去した。享年61歳。自宅船橋市。明治29年2月10日米沢市に生れた。大正2年上京、正則中学校に転入したが、岸田劉生の個展に感動し、同3年劉生に師事した。大正4年草土社の結成に参加、更に巽画会、院展洋画部、二科会或は初期春陽会に出品する等、つねに岸田劉生と行動を共にし、作品も岸田の影響を最もつよくうけた。また、白樺同人武者小路実篤、長与善郎と識り、その人生観、芸術観は終生椿に大きな感化を与えた。昭和4年国画会に招かれて会員となり没年迄同会に所属、出品を続けていた。略年譜明治29年 2月10日山形県米沢市に生れた。大正2年 上京。大正3年 岸田劉生に師事する。武者小路実篤、長与善郎、木村荘八、河野通勢等と相識る。大正4年 岸田、木村とともに草土社を結成。大正9年 第1回個展を京都で開催。大正10年 9月、東京で最初の個展を開催。大正11年 岸田、中川一政等と春陽会の創立に参加。昭和2年 岸田、武者小路、長与などの提唱で第1回大調和展創立、為に春陽会を退会。昭和3年 第2回大調和展をひらき同会解散する。昭和4年 河野通勢とともに招かれて国画会々員となる。昭和7年 渡欧、ルーベンス、レンブラントに感銘し、この年帰国。昭和8年 4月銀座紀国屋ギャラリーで滞欧作品展開催、第8回国展「家族」。昭和15年 朝鮮、満州に旅行、紀元二六〇〇年奉祝展委員となる。昭和20年 群馬県碓氷郡に疎開、翌年迄滞在。昭和25年 第24回国展「蛙図」。この年孫の像を多くかく。昭和29年 この年から4年間、鹿児島、長崎を好み同地に写生旅行をくりかえす。昭和31年 第30回国画会展「孫二人」「工場裏」「孫」。昭和32年 第31回国展「桜島風景」「泰山木」。第5回目の長崎旅行より帰京、11月千葉大学附属病院に入院。12月29日逝去。病名ホドキン氏病。昭和33年 4月第32回国展で遺作40余点を陳列。 |
田中謹左右明治41年岡山市に生れ、中川一政に師事、昭和7年渡欧し滞仏1年にして帰朝、昭和8年春陽会会友に推挙された。享年28。 |