中川一政

日本洋画界の最長老で文化勲章受章者中川一政は、2月5日午前8時3分心肺不全のため神奈川県足柄下郡の湯河原厚生年金病院で死去した。享年97。70余年に及ぶながい画業をとおし、ひたすら独自の作風を追求し現代の文人画家とも称された中川一政は、明治26(1893)年2月14日東京市本郷区に警視庁巡査中川政朝の長男として生まれた。同45年錦城中学校を卒業、翌大正2年から1年半兵庫県芦屋市に滞在、この間、雑誌『白樺』を愛読し聖書に親しんだ。また、芦屋滞在中の同3年8月頃から独学で油絵を描き始め、同年10月に帰京後、巽画会第14回展に「酒倉」を出品し入選した。これは、審査員であった岸田劉生の推賞によったという。翌4年早々に代々木時代の劉生を初めて訪ね、3月の巽画会第15回展には「監獄の横」他2点を出品し椿貞雄とともに最高賞にあたる二等銀牌を受賞、10月の第2回二科展には「幼児」他を出品、また、草土社の第1回展となった現代の美術社主催第1回美術展覧会に「自画像」他を出品し、同じく出品した劉生や木村荘八らと草土社を組織し同人となった。草土社展へは、同11年第9回展で終了するまで出品を続けた。草土社結成前後から劉生との交渉が深まり、劉生を通し武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎らを知った。ただし、画風は当初から劉生の影響の強いいわゆる草土社風ではなく、独自の抒情性をたたえたものであった。同10年、第8回二科展に「静物(薬瓶の静物)」などで二科賞を受賞、同年有島武郎の推薦で詩集『見なれざる人』を叢文閣から出版した。翌11年、小杉放庵、梅原龍三郎らによる春陽会結成に際し、劉生、木村荘八らとともに同会客員として招かれ、翌年の第1回展から出品を続けた。この間、一時ゴッホに傾倒し同14年訳書『ゴオホ』を出した。昭和2年、小杉放庵の肝入りによる老荘会に加わり、以後中国の古典に親しむ。同6年には麹町倉橋邸で最初の水墨画展を開いた。また、同3年に片岡鉄兵『生ける人形』(朝日新聞連載)の挿絵を担当したのをはじめ、同8年には尾崎士郎『人生劇場青春篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆、一方、『武蔵野日記』(同9年)『庭の眺め』(同11年)などの随筆集を刊行しすぐれた文才も示した。戦前は、同13年から18年の間、第5回展をのぞき新文展の審査員を依嘱される。戦後は春陽会展の他、美術団体連合展、秀作美術展などで新作発表を行う。同23年には武者小路らとともに生成会同人に加わり、雑誌『心』を創刊した。同28年ニューヨークを経てブラジルへ赴き、翌年ヨーロッパを巡遊して帰国した。また、同33年、39年には中国を訪れる。同33年、ピッツバーグ現代絵画彫刻展に「イチゴと赤絵の鉢」を出品、同42年には『中川一政画集』(朝日新聞記)を刊行した。同50年文化勲章を受章する。初期の日本的フォーヴィスムの画風から、次第に時流を超えた自己の絵画世界を展開し、簡潔明快で清朗な独自の作風をうちたてた。油彩具のほか岩彩もしばしば試み、また、書や陶芸も手がけた。戦後の作品に「マリアの国」(昭和34年)、「尾道展望」(同37年)などがあり、歌集に『向う山』、随筆集に『香炉峰の雪』他がある。 年譜明治26年2月14日 東京市本郷区中川政朝の長男に生れる。父母とも金沢の人で、政朝は上京後、警視庁巡査となる。明治36年東京府下巣鴨村字向原に転居。巣鴨監獄の近くであった。明治40年3月 本郷区誠之高等小学校を卒業。明治45年3月 錦城中学校を卒業。大正2年この年兵庫県芦屋市斎田家の客となり、滞在一年半に及ぶ。『白樺』を愛読し、また熱心なキリスト教信者であった斎田家の人々の影響で聖書に親しむ。大正3年8月 この頃から油絵をかき始める。10月 東京に帰り、巽画会第14回展に「酒倉」を出品、入選する。「酒倉」は審査員岸田劉生が推して入選したことを後に知った。大正4年1月 「霜の融ける道」を描く。この頃画家への志望を強め、はじめて代々木時代の岸田劉生を訪ねる。3月 巽画会第15回展に「監獄の横」「霜の融ける道」「少女肖像」を出品、このときの最高賞である二等賞銀牌を受賞した。10月 第2回二科美術展覧会(三越呉服店旧館3階)に「幼児」「弟に与ふる自画像」「春光」を出品、現代の美術社主催第1回美術展覧会(銀座、読売新聞社楼上)に「秋の丘の道」「自画像」「デッサン(鉛筆)」「監獄の横」を出品。このとき出品した岸田劉生、木村荘八らと草土社を組織して同人に加わり、この展覧会を草土社の第一回展とした。劉生との交渉次第に深くなり、また劉生を介して武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎らを知る。大正5年4月 草土社第2回美術展覧会(銀座、玉木美術店楼上)に「監獄の横(1)」「監獄の横(2)」を出品。11月 草土社第3回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「酒倉」(1914年作)「監獄の横(1)」(同)「霜の融ける道」(1915年作)「習作」(同)「春光」(同)「監獄の横(2)」(同)「山の麦畑(未成品)」(1916年作)「自画像」(同)「うすく曇った日の風景」(同)「素描風景」(同)を出品。大正6年2月 岸田劉生鵠沼に転地する。劉生の鵠沼時代は大正12年9月の大震災まで続き、この間しばしば劉生を訪ね、時には1カ月ぐらい泊りがけで遊びに行った。4月 第4回草土社展覧会(京橋橋際、玉木商会楼上)に「風景」(1916年作)「素画-けぶれる冬」「けぶれる冬」「監獄之横(1)」「静物(1)」「静物(2)」「監獄之横(2)」「静物(3)」「横堀肖像」「素画-久保君の顔」「素画-原野の道」「素画」を出品。9月 第4回二科美術展覧会に「風景」を出品。12月 第5回草土社展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「うすく曇った日の風景」(1916年作)「風景」(同)「監獄之横(1)」(1917年作)「監獄之横(2)」(同)「夕日落つる踏切」(同)「風景(鵠沼)」(同)「野娘(エチュード)」(同)「少女」(同水彩)を出品。大正7年9月 第5回二科美術展覧会に「冬」「夏」を出品。12月 草土社第6回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「冬」(旧作)「静物」「暮春の景色」「練兵場となりし城跡」「スケッチ(1)」「スケッチ(2)」を出品。大正8年3月 同人雑誌『貧しき者』を創刊する。発行所は中川方「貧しき者社」である。武者小路実篤や千家元麿らも寄稿し、月刊で10号ぐらい続いた。9月 第6回二科美術展覧会に「暮春の景色」「下板橋の川辺(冬)」「監獄裏の日没」を出品。12月 第7回草土社美術展覧会には出品を中止した。大正9年4月1日-15日 神田裏神保町6、兜屋画堂において個人展覧会を開催、このとき会場を訪れた石井鶴三を知る。9月 第7回二科美術展覧会に「静物(1)」「静物(2)」「自画像」「草枯れし監獄の横」を出品。12月 草土社第8回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「肖像断片」「冬の路傍」「自画像」「監獄の横(1)」「監獄の横(2)」「静物(1)」「静物(2)」「静物(3)」「初冬の道」「池袋の麦畑」「男の肖像」を出品。大正10年2月 詩集『見なれざる人』を叢文閣から出版する。有島武郎の推薦と叢文閣主人の好意で実現した。9月 第8回二科美術展覧会に「静物」「静物」「静物小品」を出品し、二科賞を受賞する。この年画室を新築する。大正11年1月14日をもって春陽会成立し、木村荘八、岸田劉生、椿貞雄、万鉄五郎、斎藤与里らと招かれて客員となる。大正13年第2回展のとき客員制を廃した。11月 草土社第9回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「静物」「初夏川畔」「初夏川畔」「厨房静物」「厨房静物」(以上油絵5点)、「白描居留地図(画箋)」「白描居留地図(画箋)」「赭墨小品」(画箋)」(以上日本画三点)を出品。草土社は第9回展で終る。大正12年4月 『白樺』第14年4月号に詩八篇を発表。5月 春陽会第1回美術展覧会(上野公園、竹の台陳列館)に「椿花」「静物小品(其1)」「静物小品(其2)」「静物(其1)」「春暖」「居留地図」「厨房静物」「村の景色」「隅田川」「静物(其2)」を出品。10月28日 伊藤暢子と結婚する。暢子の兄に舞踊家ミチオ・イトウ、舞台装置の伊藤熹朔があり、俳優千田是也は弟である。仲人は野上豊一郎、弥生子夫妻であった。大正13年第2回春陽会展(三越呉服店)「村娘」「村娘(クロッキー)」「中禅寺湖」「二月」「風景」「修善寺温泉」「薄日さす景色」「素描(中禅寺湖)」「素描(行人坂)」「素描(湖畔)」大正14年4月 中川一政訳『ゴオホ』アルスから出版される。ひところゴッホに傾倒しその影響をうけた。9月 巣鴨の画室を引払い東京市外和田堀之内村永福寺隣に移る。第3回春陽会展「静物(其4)」「静物小品(其1)」「野娘」「肖像(其2)」「肖像(其1)」「中禅寺」「静物(其1)」「静物(其2)」「静物(其3)」「静物小品(其2)」「湯ケ原」大正15年4月 『中川一政画集』をアトリヱ社から出版。5月 第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に「上水べり」「春の川辺」を出品。上野公園に新築された東京府美術館の落成を記念して開催された。第4回春陽会展「静物小品」「晩春新緑」「初夏水流」「静物」「うすれ日」「野川」「夏景」昭和2年9月 小杉放庵の肝入りで「老荘会」という集りができ、週1回田端の放庵邸で漢学者公田連太郎翁に中国古典の講議を聞く。荘子からはじめて、詩経、文選、易経の大半を、昭和20年爆撃をうけるまで続けた。石井鶴三、木村荘八、岡本一平、かの子夫妻、岸浪百草居、美術記者の外狩素心庵、田沢田軒、金井紫雲などが常連であった。翁の漢字に対する深い学殖とすぐれた労作に第32回(昭和36年度)朝日文化賞が贈られた。第5回春陽会展(東京府美術館)「花(3)」「同上(4)」「うすれ日」「チューリップ」「浅春」「花(1)」「花(2)」昭和3年6月 7月にかけて片岡鉄兵原作『生ける人形』(朝日新聞連載)の挿絵を執筆する。第6回春陽会展「信濃川岸」「冬山」「上水べりA」「同B」「山村早春」「山間早春」「山」昭和4年9月 春陽会洋画研究所麹町区内幸町幸ビルディング4階に開設される。第7回春陽会展 「山村春」「生ける人形挿絵」(6点)「歳晩帖(忙中閑人、旅の宿、川国境を為す、仲秋初月、修善寺桂川、山間春浅、独異郷に在り、漁村雨後、山村春宵、窓前他国山、山田猟人来る、黒部渓谷鐘釣)」「郊外」「静物小品」昭和5年6月 『美術の眺め』をアトリヱ社から出版。第8回春陽会展 「朝の道」「冬山の眺め」「枯山」「煙霞帖(煙霞如是好、山中春望、時春雨寒、偶海村月、我愛日本国、海村春望、春自遠方来、能解閑行有幾人、山間日永、漁樵同時)」昭和6年5月 麹町、倉橋藤治郎邸において最初の水墨画個展を開催。9月 佐藤春夫とともに文芸雑誌『古東多方』の編集に携わる。第9回春陽会展「煙霞帖追補 前山薇也肥」「煙霞帖追補 二月入斧之時」「煙霞帖追補 波浮港」「山家花」「城山」「山裏春(鉛筆淡彩)」「葉桜(岸田国士さしゑ)」「屋上庭園(同)」「頼母しき求緑(同)」昭和7年8月 『原色版セザンヌ大画集第3巻静物』(中川一政編輯解説)アトリヱ社から出版される。第10回春陽会展 「閑行帖(夜半春雨過、誰知山中春、扇面漁樵、身賎知農事、山従人面起、秋風何処至、円窓秋山、能解閑行有幾人)」「夜久野」「日坂」「川奈」「山の刈田」昭和8年2月 『美術方寸』を第一書房から出版。3月 7月にかけて尾崎士郎原作『人生劇場春青篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆。9月 二科会第20回展を記念する回顧作品陳列室に「静物」(1921年作)を出品。第11回春陽会展 「冬田之畔(遠州菊川)」「信濃之道」「白い壁」「山家秋(水墨)」「人生劇場挿画」(10点)昭和9年10月 『武蔵野日記』を竹村書房から出版。第12回春陽会展 「春浅」「霜の山」「山川呼応」昭和10年2月 六潮会第4回展(日本橋、三越)に招かれて「春眺秋望冊」を特別出品。六潮会は日本画家中村岳陵、山口蓬春、福田平八郎と、洋画家中川紀元、牧野虎雄、木村荘八に批評家外狩素心庵、横川毅一郎を同人とする研究団体であった。3月 東京府美術館10周年記念現代綜合美術展覧会に「冬田之畔(遠州菊川)」(1933年作)を出品。第13回春陽会展 「芭蕉屏風」昭和11年5月 『庭の眺め』を竹村書房から出版。第14回春陽会展 「白百合花」「富士川」「富士川べり」「山川冬晴」「冬川」「早梅」「覉魂」「身辺屏風」「人生劇場挿画」(11枚)昭和12年2月 小川芋銭、小杉放庵、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと墨人会倶楽部を結成。4月 大阪朝日新聞社主催明治大正昭和三聖代名作美術展覧会(大阪市立美術館)に「山川呼応」(1934年作)を出品。6月 墨人会第1回展(大阪、朝日会館)に「金魚」「水辺蛙」などを出品。8月 春陽会講習会のため1カ月間台湾へ行く。11月 春陽会洋画研究所閉鎖される。12月 尚美堂主催第1回春陽会日本画展(銀座、三越)に「一茶屏風(二曲一双)」「雪中梅」「我が家に鯉のゐるぞ嬉しき」その他を出品。第15回春陽会展 「鷲津山」「一茶小屏風」昭和13年4月 9月にかけて尾崎士郎原作『石田三成』(都新聞連載)の挿絵を執筆。6月 墨人会第2回展(上野、日本美術協会)に「俳諧屏風」を出品。9月 『顔を洗ふ』を中央公論社から出版、第2回文部省美術展覧会(新文展)第2部審査員を依嘱される。第16回春陽会展 「三月海」「入江(2)」「入江(1)」昭和14年3月 満州、北支に旅行する。5月 12月にかけて尾崎士郎原作『人生劇場風雲篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆。9月 第3回新文展第2部審査員を依嘱される。10月 第3回新文展に「樹の下の子供」を出品。11月 石原求龍堂主催中川一政扇面画展(銀座、三昧堂)に、扇面画20点を出品。第17回春陽会展 「春曇」「牧の郷」「窓外山川」「石田三成挿画(1-6)」昭和15年8月 紀元二千六百年奉祝美術展覧会委員を依嘱される。10月 紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「樹の上の少年」を出品。12月 藤田嗣治、石井柏亭、小杉放庵、石井鶴三、木村荘八、鍋井克之、津田青楓らと「邦画一如会」を結成。第18回春陽会展 「安良里(1)」「安良里(2)」昭和16年3月 邦画一如会第1回展(日本橋、三越)に「万葉屏風(二曲半双)」を出品。8月 第4回新文展審査員を依嘱される。10月 大札記念京都美術館秋季特別陳列に「風景」を出品、第4回新文展に「新劇女優」を出品。第19回春陽会展 「安良里」「椅子の女」「九州の春」昭和17年2月 銀座、資生堂において第2回水墨展を開催。9月 11月にかけて中山義秀原作『征婦の詩』(中部日本新聞連載)の挿絵を執筆。10月 『美しい季節』を桜井書店から出版。12月 『一月桜』を大阪、錦城出版社から出版。第20回春陽会展 「徒然の女」「うらの山」、特別室「静物」昭和18年6月 第6回新文展審査員を依嘱される。6月 詩集『野の娘』を昭南書房から出版。9月 銀座、資生堂において第3回水墨展を開催。10月 第6回新文展に「田園五月」を出品、歌集『向ふ山』を昭南書房から出版。11月 京都、南禅寺無隣庵において石井鶴三、中川一政水墨展開催される。11月 春陽会教場設立され、委員長となる。第21回春陽会展 「晩春風景」、水墨 「雪晩」「沢」「川蟹」「山桜頬白」「菜畑」「万葉屏風」昭和19年7月 本郷、大勝画廊において新作展を開催。11月 銀座、資生堂において水墨展を開催。第22回春陽会展(東京都美術館) 「雪(1)」「雪(2)」「寒椿」「雪景」昭和20年8月 疎開先の宮城県宮床村で終戦を迎える。昭和21年11月 大阪、高島屋において新作発表会を開催。第23回春陽会展(三越) 「花」昭和22年4月 日本橋、三越において中川一政展を開催し、「梨と柿」ほかを出品。5月 倉敷、大原美術館において講演を行う。7月 『我思古人』を靖文社から出版。11月 大阪、高島屋において新作発表会を開催。12月 『篋中デッサン』を建設社から出版。第24回春陽会展 「椿桃」「蛙」「柿柘榴」「椿」「林檎」昭和23年6月 日本橋、高島屋において石井鶴三、小杉放庵、木村荘八と第1回春陽四人展を開催。7月 武者小路実篤、長与善郎らとともに「生成会」同人に加わり、雑誌『心』を創刊。10月 たくみ工芸店において中川一政、浜田庄司新作展開催される。春陽会25周年記念展 「三島手扁壷」「少年夏帽子」「壷の花」「椿静物(1)」「椿静物(3)」「風和日暖」「鰯」「椿静物(2)」昭和24年4月 大阪、高島屋において近作発表会を開催。5月 神奈川県足柄下郡真鶴町1575に画室を持つ。5月 第3回美術団体連合展(毎日新聞社主催)に「静物椿の花」を出品、日本橋、三越において第2回中川一政新作展を開催。第26回春陽会展 「少年像」昭和25年3月 第1回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「花」を出品。5月 第4回美術団体連合展に「晩春新緑」を出品。7月 『香炉峰の雪』を創元社から出版。第27回春陽会展 「静物水墨」「夏草の花」「マジョリカ壷」「夏花図」昭和26年10月 壷中居において中川一政新作展を開催し、「福浦」ほかを出品、大阪、高島屋において中川一政新作展を開催。第28回春陽会展 「かながしら、かさご」「椿 林檎」「かながしら、貝」「沖のかさご、土瓶」「金目鯛 鯵」「万暦螺細文庫」「煎茶」「柿、みかん」「少年像」「村の夕」「村の眺め」昭和27年1月 第3回秀作美術展に「少年像」を出品。10月 大阪、高島屋、岡山、金剛荘において中川一政新作展を開催。第29回春陽会展 「漁舟帰る時」「漁村図」「風炉先屏風(春)金目鯛」「風炉先屏風(冬)雪中児童」昭和28年1月 第4回秀作美術展に「漁舟帰る時」を出品。5月 大阪、高島屋において中川一政紙本小品展を開催。7月 一政花十題展(兼素洞)に「椿静物」、水墨画9点(うち扇面6点)を出品。10月 龍三郎、一政新作展(兼素洞)に「百合と枇杷」「三島手扁壷」「ダリヤと果物(水墨画)」「福浦」を出品。11月25日 羽田発、アラスカ、ニューヨークを経てブラジルに渡り、第2回サンパウロ・ビエンナーレを見る。12月22日 フランス船ラボアジール号でリオデジャネーロを出港、ルアーブルへ向う。第30回春陽会展 「入江」「福浦港」昭和29年1月 第5回秀作美術展に「福浦港」を出品、『見えない世界』を筑摩書房から出版。1月 ルアーブル着、パリ、ローマほかイタリアの諸都市、ロンドンを見学。4月16日 帰国。5月 『大正期の画家』展(国立近代美術館)に「春光」(1915年作)を出品。8月 『水彩と素描』展(国立近代美術館)に「信濃川岸村(鉛筆)」を出品。昭和30年1月 『モンマルトルの空の月』を筑摩書房から出版。4月 サエグサ画廊において中川一政滞欧スケッチ展を開催、日本橋、高島屋において中川一政新作展を開催。9月10日 国立近代美術館主催『晩期の鉄斎』展に際し、同館講堂において「鉄斎の芸術」と題し講演を行う。昭和31年1月 第7回秀作美術展に「ダリヤの静物」を出品。5月 名古屋、松坂屋において中川一政新作展を開催。7月 『日本の風景』展(国立近代美術館)に「福浦港(突堤)」「福浦港(波打際)」を出品、雨晴会第1回展(兼素洞)に「波打際」「ダリヤと枇杷(岩彩)」を出品。昭和32年2月 画集『鉄斎』筑摩書房から出版される。武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄と監修に当り、『鉄斎の仕事』を執筆。3月 雨晴会第2回展に「マリア園の眺め」「大浦天主堂の眺め」を出品。7月 毎日新聞社主催現代美術十年の傑作展(渋谷、東横)に「福浦港(突堤)」(1956年作)を出品。10月 漁樵会(小杉放庵、中川一政二人展)(ギャラリー創苑)に「魚」ほか扇面8点を出品。昭和33年1月 第9回秀作美術展に「マリア園の眺め」選抜される。3月 日本橋、高島屋において中川一政新作展を開催し、油彩19点、墨彩20点を出品、雨晴会第3回展に「長崎風景(1)」「長崎風景(2)」を出品。6月 『正午牡丹』を筑摩書房から出版。10月 光琳生誕三百年記念展覧会が北京で開催されるのを機会に中国を訪問し、北京、大同、西安等を巡遊する。行を共にしたのは団長中川一政、副団長千田是也、石井鶴三、谷信一、水沢澄夫であった。12月 ピッツバーグ現代絵画彫刻国際展に「イチゴと赤絵の鉢」(1957年作)を出品。第35回春陽会展 「パンジー(1)」「静物」「チューリップ」「椿」「パンジー(2)」昭和34年1月 第10回秀作美術展に「マリア園」を出品、『戦後の秀作』展(国立近代美術館)に「マリア園」を出品。3月 『近代日本の静物画』展(国立近代美術館)に「万暦螺細文庫」「李朝三島手扁壷」「春花図」を出品、雨晴会第4回展に「天主堂」「港の雪(1)」「港の雪(2)」を出品。7月 中川一政、熊谷守一二人展(ギャレリー・ポワン)に「信州の新緑」「長崎小品」、ほかに「ダリア(金地墨彩)」など墨彩3点を出品。10月 朝日新聞社、東京国立博物館主催明治大正昭和三代名画展(第2会場銀座、松坂屋)に「薬瓶のある静物」を出品。12月 『道芝の記』を実業之日本社から出版。第36回春陽展 「バラ、リンゴ(水墨)」「椿、ネルソン壷(水墨)」「アマリリス、マジョリカ壷(水墨)」「長崎の夕暮」昭和35年1月 第11回秀作美術展に「長崎の夕暮」を出品。1月 長与善郎、中川一政、武者小路実篤、梅原龍三郎四人展(日本橋、三越)に出品、『近代日本の素描』展(国立近代美術館)に「アイリスと金盞花」「芙蓉静物」を出品。3月 雨晴会第5回展に「佐世保」「平戸」を出品。5月 「漁村凱風」全国知事会から東宮御所に献納される。12月 歌会始めの召人に選ばれる。第37回春陽展 「チューリップ(水墨)」「磯浜」「椿(水墨)」昭和36年1月 第12回秀作美術展に「磯浜」を出品。1月12日 歌会始めの儀皇居内仮宮殿の西の間でとり行われ、下記の召歌を詠進した。御題「若」。若き日は馬上に過きぬ残る世を楽しまむと言ひし伊達の政宗あはれ3月 雨晴会第6回展に「薔薇」「椿」を出品。11月 弥生画廊主催中川一政近作展(文藝春秋画廊)に墨彩14点、油彩22点を出品。第38回春陽展 「チューリップ」「椿」「長崎風景」「椿、林檎」昭和37年1月 第13回秀作美術展に「尾道展望」を出品。2月 国立近代美術館主催『現代絵画の展望』展(日本橋、三越)に「マリア園」を出品。5月 雨晴会第7回展に「椿」を出品。6月 『近代日本の造形 油絵と彫刻』展(国立近代美術館)に「尾道展望」を出品。6月30日 ミュンヘンのバイエルン独日協会の招待をうけ渡欧の途に就く。途中印度、イラン、イラク、エルサレム、エジプト、ギリシャを経て南仏、スペインを見学する。10月24日 ミュンヘン市立博物館において現代日本美術に関する講演を行う。11月2日 帰国する。第39回春陽展 「舟着き場」「マジョリカ壷の百合の花」昭和38年1月 第14回秀作美術展に「舟着き場」を出品。3月 雨晴会第8回展に「ペルシャ壷の薔薇」を出品。6月 朝日新聞社主催中川一政スケッチ展(銀座、松屋)に『人生劇場』挿絵7点、『厭世立志伝』挿絵29点のほか、「アシジの町(淡彩)」など風景スケッチ4点、「男子裸体」、芭蕉句扇面屏風2点を出品。6月26日 朝日新聞社と日中文化交流協会主催の日本現代油絵展が中国で開催されるに当って、画家代表団が中国人民対外文化協会の招待で訪問することとなり、その団長として北京に向う。展覧会は7月に北京と上海で開催され、「福浦港」を出品。7月23日 羽田着帰国。9月 『近代日本美術における1914年』展(国立近代美術館)に「春光」(1915年作)を出品、会期中10月5日同館講堂において「草土社の人々」と題し講演を行う。11月 日本橋、高島屋において中川一政近作展を開催し、「トレド風景」「カーニュ」など油彩、墨彩あわせて22点を出品。12月 昭和初期洋画展(鎌倉近代美術館)に「樹の下の子供」(1939年作)を出品、『うちには猛犬がゐる』を筑摩書房から出版。第40回春陽展 「椿」「福浦港」昭和39年1月 第15回秀作美術展に「マリア園」を出品。3月 雨晴会第9回展に「ピカソ壷の薔薇」を出品。7月 山形県酒田市、本間美術館主催中川一政作品展観に自選の油彩11点、水墨4点、厭世立志伝挿画(着彩)28点、人生劇場挿画(墨)6点を出品。9月28日 中国人民対外文化協会の招きをうけ、日中文化交流協会代表団の1人として空路北京に到着、10月1日北京で挙行された中華人民共和国建国15周年を祝う国慶節式典に参列。10月19日 帰国。第41回春陽展 「湯ケ原の山と海」昭和40年3月 雨晴会第10回展に「薔薇」を出品。4月 『近代における文人画とその影響』展(国立近代美術館)に「アイリスと金盞花」「鉄線花静物」を出品。4月26日 ソ連定期客船バイカル号で横浜を出帆、ソ連文化省の招待で同国の美術演劇事情を視察した後、イギリス、フランス、イタリアなど9ケ国をまわる。7月9日 羽田着帰国。6月 二科会50周年記念回顧展(新宿ステーションビルディング)に「静物」(1921年作)を出品。8月 忘れえ得ぬ作品展(吉井画廊)に「静物」(1922年作)を出品。第42回春陽展 「椿とピカソの絵」「海と村落」昭和41年1月 中川一政近作展を開催し、吉井画廊の会場に「湯ケ原の山と福浦」など14点、弥生画廊の会場に「薔薇」など9点を出品。3月 雨晴会第11回展に「ばら」を出品。6月 近代日本洋画の150年展(鎌倉近代美術館15周年記念)に「下板橋の川辺」(1919年作)「静物」(1921年作)を出品、大阪、梅田画廊において中川一政、小林和作作品展開催。7月 京王梅田画廊、東京梅田画廊において中川一政、小林和作作品展開催。9月 資生堂ギャラリーにおいて『中川一政のアトリエ』展開催。12月 中川一政、小林秀雄監修『鉄斎扇面』筑摩書房から出版。第43回春陽展 「福浦港」「薔薇ペルシャ壷」昭和42年1月 「朝日新聞」に連載の大佛次郎『天皇の世紀』の装画を同46年12月にわたり、34回、204点執筆。2月 中川一政回顧展(朝日新聞社主催)が銀座松屋で開催。『遠くの顔』を中央公論美術出版から出版。『中川一政画集』を朝日新聞社から出版。3月 第12回雨晴会展に「瀬戸内海」「薔薇」を出品。『近くの顔』を中央公論美術出版から出版。10月 中川一政展を銀座吉井画廊で開催。12月 中川一政書展を銀座松屋で開催し、屏風、条幅、額、約170点を出品。会期中ブリヂストン美術館ホールで「書について」と題し講演を行う。『中川一政書蹟』を中央公論美術出版から出版。第44回春陽展 「春曇(福浦)」昭和43年10月 中川一政展を吉井画廊にて開催。第45回春陽展 「福浦」昭和44年6月 「守一・実篤・一政三人展」が吉井画廊で開催される。昭和45年1月 紅梅白梅会(瀧井孝作、中川一政、武者小路実篤、梅原龍三郎、熊谷守一)が吉井画廊で開催される。5月13日 羽田発、フランスへ出発、パリに滞在後、月末からコンカルノへ移り制作に励む。7月 妻暢子、肝硬変のため入院、帰国する。10月18日 暢子死去する。昭和46年5月 「朝日新聞」連載の大佛次郎「天皇の世紀」挿画展を吉井画廊で開催。『中川一政挿画』(「天皇の世紀」)を中央公論美術出版から出版。9月 『さしゑ人生劇場』を求龍堂から出版。10月 さしゑ人生劇場展を吉井画廊新館で開催。昭和47年2月 私家版『中川印譜』を寒山会から上梓する。3月 『中川一政画集1972』を筑摩書房から出版。昭和48年10月 水墨岩彩画集『門前小僧』を求龍堂から出版。第50回春陽展 「箱根駒ケ岳」昭和49年1月 『書の本』を求龍堂から出版。2月 中川一政書展を吉井画廊にて開催。『一政印譜』を求龍堂から出版。4月 中川一政展をパリ吉井画廊にて開催し、油彩、水墨岩彩15点を出品。4月から5月までフランスに滞在する。昭和50年『中川一政文集』(全5巻)第1巻が筑摩書房から刊行。昭和51年1月、完結。日本経済新聞に「私の履歴書」が掲載される。6月10日 中国文化交流使節日本美術家代表団名誉団長として中国に赴き、北京、西安、上海、無錫などを巡遊。一行は宮川寅雄(団長)、脇田和、中根寛、高山辰雄、吉田善彦、加山又造、平山郁夫。同月27日帰国。10月 『腹の虫』を日本経済新聞社から出版。11月 文化功労者となる。文化勲章を受章する。第52回春陽展 「箱根駒ケ岳」昭和51年2月 中川一政書展を吉井画廊で開催。『中川一政装釘』を中央公論美術出版から出版。10月 『中川一政画集1976』を筑摩書房から出版。昭和52年3月 壮心会書展(平櫛田中、奥村土牛、中川一政)が京都高島屋で開催される。昭和53年10月 中川一政近作展(高島屋美術部創設70年)を東京高島屋、大阪高島屋にて開催。『私は木偶である』を車木工房から出版。昭和54年2月 中川一政近作展を彌生画廊で開催。歌集『雨過天晴』を求龍堂から出版。10月 水墨岩彩画集『花下忘帰』を求龍堂から出版。昭和55年2月 随筆『88』を講談社から出版。詩集『野の娘』を創樹社から出版。3月 NHK教育テレビ日曜美術館「アトリエ訪問・中川一政」が防映される。6月3日 成田発スペイン、イタリア、フランスを旅行、17日成田着帰国。『書と印譜』を出版(発行・求龍堂、制作・車木工房)。昭和56年2月 米寿記念『中川一政画集88』を講談社から出版。9月 朝日新聞社主催「中川一政展-私の遍歴」が東京高島屋にて開催される。昭和57年2月 中川一政近作展を彌生画廊で開催。5月 アメリカへ旅行し、ニューヨーク、ワシントン、ボストン、フィラデルフィア等の美術館を見学。6月 真鶴に新アトリエが完成。9月 中川一政展(秋田)を秋田市美術館で開催。10月 中国文学芸術界連合会の招聘により中国を訪問、北京、南京、杭州、紹興、上海を巡遊する。一行は、中川一政(顧問)、宮川寅雄(団長)滝沢修、朝吹登水子、林屋晴三。金沢市の菩堤寺「久昌禅寺」の寺標を揮毫、建立される。昭和58年3月 中川一政展(沖縄)を沖縄三越で開催。5月 中川一政展(酒田)を本間美術館で開催。昭和59年2月 随筆集『画にもかけない』を講談社から出版。3月 大阪なんば高島屋で中川一政新作展(4月、東京・日本橋高島屋)を開催。4月 『中川一政ブックワーク』が形象社から出版される。10月 東京都名誉都民の称号を受ける。昭和60年1月 日華美術展(春陽会、中華民国台陽美術協会合同)が台湾国立歴史博物館(台北市)にて開催される。10月 随筆集『つりおとした魚の寸法』を講談社から出版。11月 NHKテレビ(1)にて「中川一政・描く日々『92歳、多彩な創作活動』」が放映される。第62回春陽展 「向日葵」昭和61年1月 梅原龍三郎追悼(1月16日死去)「梅原の世界」を「朝日新聞」に執筆。6月 『墨蹟一休宗純』を編纂、中央公論社から出版。7月 NHK教育テレビ(3)「ビッグ対談」に「独創をめざし独走す・一休禅師の魅力を通し日本的、東洋的発想の可能性を探る」と題され、柳田聖山と対談。8月 『陶芸中川一政作品集』が万葉洞から出版。10月10日 松任市立中川一政記念美術館が開館。同日、松任市名誉市民の称号を受ける。神奈川県真鶴市においても、真鶴町立中川一政美術館が建設されることになり着工される。11月 『中川一政全文集』(全10巻)を中央公論社から出版、第1回配本第8巻が発行される。以下各巻は毎月20日に刊行、昭和62年8月完結。昭和62年10月 松任市立中川一政記念美術館一周年に当り、新館が開設され、中川一政の周辺特別展が行われる。エッチングと装釘原画を、野上弥生子、岸田劉生、梅原龍三郎、石井鶴三、長与善郎、志賀直哉、武者小路実篤、高村光太郎、富本憲吉、バーナード・リーチ、小杉放庵らの作品、書簡、原稿などともに展示する。金沢市石川近代文学館で同館新装開館一周年記念中川一政特別展が開催(10月25日から昭和63年1月31日まで)され、著書、印譜、挿画、装釘原画、装釘書・誌、原稿など文業に関する作品を展示。昭和63年1月 第1回春寿会展(日動画廊)に「薔薇」2点を出品。東京・彌生画廊新館で中川一政墨彩展を開催。北国新聞に「独行道」(「卒寿をこえて」)を連載。3月 『裸の字』特別限定版、限定版、普及版を中央公論社から出版。5月 東京・日本橋高島屋で中川一政新作展を開催。第65回春陽展 「薔薇」昭和64 平成元年2月 東京・彌生画廊新館で中川一政新作展を開催。平成3年2月5日午前8時3分、心肺不全のため神奈川県足柄下郡の湯河原厚生年金病院で死去。97歳。同7日東京都杉並区の自宅で密葬が、同23日東京都港区の青山葬儀所で葬儀が執り行われた。〔本年譜は、『中川一政画集』(昭和42年、朝日新聞社)所収の「中川一政年譜」、並びに「中川一政1988新作展」図録(同63年、高島屋)所収の「略年譜」を基に作成したものである。〕

星忠伸

読み:ほしただのぶ  東京日本橋の一番星画廊の創業者で美術商の星忠伸は癌のため7月14日死去した。享年71。 1947(昭和22)年12月5日、福島県双葉郡広野町に生まれる。福島県立勿来工業高等学校を卒業後、幼い頃から好きだった絵を学ぶため、京都市立芸術大学への入学をめざし京都に移り住む。新聞配達をしながら受験勉強に励んだものの進学に至らず、当時面識を得ていた画家の福田平八郎の助言により、画商として身を立てることを決心し、上京する。67年から銀座の石井三柳堂に勤務し、中川一政をはじめ多くの画家と出会う。72年、自宅営業の美術商として開業する。77年、作家で僧侶の今東光を通じて美術史家の田中一松と知り合う。星と田中はたまたま近所に住んでいたことから、これ以後、星は83年に田中が亡くなるまで、日常的に田中の運転手役を買って出るなど親交を深め、田中から古美術の手ほどきを受け、その後の星の仕事にも大きな影響を与えたという。一番星画廊が関わった山形県酒田市の本間美術館での展覧会の仕事なども、田中が同館の相談役を務めていた機縁によるという。 87年、古美術商の組田昌平の協力のもと、東京日本橋に株式会社一番星画廊を設立し、公立美術館への作品納入を中心に画廊経営をおこなう。屋号の「一番星」は中川一政の命名によるもので、開廊記念として中川一政展を開催した。看板とした墨書「一番星」も中川一政の印象的な書風が今なお輝かしく、画家と画商のあいだの豊かな親交を物語っている。星は、第一線で活躍する画家のスケッチ旅行の運転手としてその制作を手助けする一方、若い駆け出しの画家を温かく励まし支援するなど、星の明るい人柄とやさしさ、機転の利いた行動力をうかがわせるエピソードを数々の画家や美術関係者が伝えている。1996(平成8)年から2010年にかけて、日本画家・小泉淳作による建長寺法堂天井画および建仁寺法堂天井画の雲龍図や東大寺本坊障壁画等の制作プロジェクトに関わった。星は絵をこよなく愛し、自分がほれ込むような絵を描く画家を大切にしてきた。病を得て、入院先の病室でも小品の絵を賞翫していたという。2020(令和2)年2月29日から3月12日に、星を追悼して「よいの明星」展が一番星画廊にて開催され、親交のあった画家や大寺院の僧侶、美術関係者らの追悼文が寄せられた小冊子が発行されている。

柳澤孝彦

読み:やなぎさわたかひこ  建築家の柳澤孝彦は8月14日、前立腺がんのため死去した。享年82。 1935(昭和10)年1月1日、長野県松本市に生まれる。県立松本深志高等学校を経て、54年東京藝術大学美術学部建築科に進学し、吉田五十八、吉村順三、山本学治ら錚々たる教授陣の指導を受けた。卒業後、竹中工務店に入社、28年間一貫して設計部に籍を置き、同社を代表する建築家の一人として活躍した。86年第二国立劇場(仮称、現、新国立劇場)国際設計競技の最優秀賞を機に独立、TAK建築・都市計画研究所を設立し、大型の文化施設を中心に数多くの建築設計を手がけ、1995(平成7)年「『郡山市立美術館』及び一連の美術館・記念館の建築設計」に対して日本芸術院賞が贈られた。 柳澤の仕事はなんといっても新国立劇場(1997年)に象徴される。通商産業省東京工業試験所跡を中心とした工業地に計画された新国立劇場は、大中小の異なるタイプの劇場を総合する難解な設計条件に加え、劇場としての敷地や立地の適性の問題があり、また複雑に絡みあった法規制や多種多様な舞台関係者の存在など、設計競技の段階から建設時の困難が予想されるものであった。完成するまで12年間の紆余曲折を経ながらも、隣接する民間街区の東京オペラシティ(1999年)を含めて「劇場都市」という壮大なコンセプトでプロジェクトをまとめ上げたその手腕は、竹中工務店時代に培われた柳澤の卓越したマネージメント能力の賜物といえよう。 柳澤が手がけた建築はゼネコン出身の建築家らしく、総じて作家性を前面にださない堅実な作風を示すいっぽう、有機的かつ明快な平面計画と重層的かつ濃密な空間構成にきわめて独創的な特徴をもつ。たとえば新国立劇場では、外観は飾り気のないオーソドックスなデザインでまとめながらも、各劇場をつなぐ共通ロビーはリニアな吹抜け空間に大階段やバルコニー、トップライトなどを巧みに配置することで欧州都市の広場的な空間をつくり出し、劇場建築に求められる祝祭性を十二分に獲得している。真鶴町立中川一政美術館(1988年)、郡山市立美術館(1992年)、窪田空穂記念館(1993年)、東京都現代美術館(1994年)、上田市文化交流芸術センター・上田市立美術館(2014年)など、日本芸術院賞を受賞した美術館・記念館建築をもっとも得意としたが、竹中工務店時代の身延山久遠寺本堂(1982年)や有楽町マリオン(1984年)、独立後のひかり味噌本社屋(1997年)や軽井沢プリンスショッピングプラザ・レストラン(2004年)など民間建築の佳作も多い。 吉田五十八賞(真鶴町立中川一政美術館、1990年)、日本建築学会賞(新国立劇場、1998年)ほか建築関係の受賞多数。松本市景観審議会長を務めるなど故郷の振興にも貢献した。 著書に『柳澤孝彦の建築:平面は機能に従い、形態は平面に従い、ディテールは形態に従う』(鹿島出版会、2014年)、共著に『新国立劇場=New National Theatre Tokyo:Heart of the city』(公共建築協会、1999年)がある。

吉井長三

読み:よしいちょうぞう  吉井画廊会長、清春白樺美術館理事の吉井長三は8月23日、肺炎のため死去した。享年86。 1930(昭和5)年4月29日、広島県尾道市に生まれる。本名長蔵(ちょうぞう)。旧制尾道中学在学中、洋画家小林和作に絵を学ぶ。画家を志して東京美術学校入学を目指すが、父親の反対により、48年中央大学法学部に入学。同年、同校予科在学中、絵画修学の夢を捨てきれず、東京美術学校の授業に参加し、伊藤廉にデッサンを、西田正明に人体美学を学ぶ。53年に東京国立博物館で開催された「ルオー展」を見て深い感銘を受ける。同年中央大学法学部を卒業し三井鉱山に入社するが、2年目に退社して弥生画廊に勤める。海外作品を扱う画廊が少なかった当時、フランス絵画を日本にもたらすことに意義を見出し、64年、小説家田村泰次郎の支援を得てパリに渡り、博物館や画廊を巡る。翌年、株式会社吉井画廊を東京銀座に設立。開廊記念展は「テレスコビッチ展」であった。その後、ジャン・プニー、ベルナール・カトラン、アンドレ・ドラン、アントニ・クラーベ、サルバドール・ダリらの展覧会を開催する一方、青山義雄、中川一政、原精一、梅原龍三郎ら日本の現代洋画の展覧会を開催。71年、ルオーの54点の連作「パッシオン」を購入して、同年ルオー生誕百年記念展に出品し、国内外で注目される。73年パリ支店を開設して富岡鉄斎、浦上玉堂ら文人画を紹介し、75年には現代作家展として東山魁夷展を開催。フランスではまだ良く知られていなかった日本美術を紹介して話題を呼んだ。日仏相互の芸術紹介のみならず、芸術家の国際交流の場としての芸術村を構想し、80年山梨県北杜市に清春芸術村を開設して、エコール・ド・パリの画家たちが住んだラ・リューシュを模したアトリエを建てて国内外の芸術家の制作の場とした。また、79年に武者小路実篤から1917(大正6)年に計画した白樺美術館の構想について聞いたのを契機として、83年清春白樺美術館を設立し、白樺派旧蔵の「ロダン夫人胸像」のほか、白樺派の作家たちの作品、原稿、書簡等を所蔵・公開した。1990(平成2)年ニューヨーク支店を開設。99年、郷里尾道の景観を守る目的で尾道白樺美術館を開設。同館は2007年に閉館となったが、翌年、尾道大学美術館として再び開館して現在に至っている。11年清春芸術村に安藤忠雄設計による「光の美術館クラーベ・ギャラリー」を開館。画商である一方で、小林秀雄、井伏鱒二、谷川徹三、今日出海、梅原龍三郎、奥村土牛らとの交遊でも知られる文化人でもあった。フランス現代美術を日本に紹介する一方、日本美術をフランスに紹介する画廊経営者として先駆的な存在であり、99年レジオン・ドヌール・オフィシエ勲章を、07年にはコマンドゥール勲章を受章。著書に『銀座画廊物語―日本一の画商人生』(角川書店、2008年)がある。

村山密

読み:むらやましずか  フランス在住の洋画家・村山密は、自宅があるパリ市内の病院で、10月22日がんのため死去した。享年94。 1918(大正7)年10月26日、茨城県行方郡大生原村大字水原(現、潮来市水原)に、父村山茂、母なみの次男として生まれる。村山家は江戸時代初期から続く地主で、祖父魁助は能書家でもあったことから、家には美術雑誌や複製絵画があり、6歳の頃にはすでに絵描きになると言い、10歳の頃には画家となってパリへ行くと両親にいっていたという。25年大生原尋常高等小学校(現、潮来市立大生原小学校)に入学。後に水彩画家として初の芸術院会員となった小堀進から図画の指導を受け、在校中の1927(昭和2)年には茨城県行方郡小学校図画コンクールに出品、入賞している。31年同校を卒業し、茨城県立麻生中学校(現、県立麻生高等学校)へ入学するも、翌32年画家を目指して上京。出版会社を経営する親戚宅に身を寄せ、仕事を手伝う傍ら絵の勉強に励んだ。同じ頃、近所にあったイヌマエル教会に出入りするようになる。33年川端画学校の夜間部に通い始めるが、36年には画学校をやめ、春陽会洋画研究所に通い、石井鶴三、木村荘八、中川一政等に学んだ。この頃、イヌマエル教会にて受洗。洗礼名をヨハネとする。37年には体調を崩し一時帰京するが、翌38年に再び上京。検事局で勤務する傍ら、木村荘八の主宰する画談会に通う。39年、福島県出身で当時東京府庁に勤務していた渡邊ミツと、イヌマエル教会にて挙式。40年には前年にフランスから帰国していた岡鹿之助が春陽会の会員に迎えられ、同年4月の第18回春陽会展にて岡の滞欧作12点が出品された。村山は岡の作品に大変な感銘を受け、また画談会において岡が村山の作品を評価したことも手伝い、岡に師事するようになる。そのなかで村山は、近代的絵画の精神や近代的技法について、岡から具体的な指導を受けた。42年には第20回春陽会展に「花」が、第5回文部省美術展覧会(新文展)に「花」がそれぞれ初入選、以後春陽会展を中心に作品を出品し、49年には春陽会会友、52年には会員となっている。その間、43年には応召のため一時画業の中断を余儀なくされ、45年終戦の年には父茂が亡くなっている。 戦後の混乱もようやく落ち着いてきた54年、予てからの念願であった渡仏を果たし、パリ到着の翌日には、岡鹿之助、さらには旧水戸藩主の直系徳川圀順の紹介状を手に藤田嗣治を訪ね、以後毎日のように藤田のもとへと足を運んだ。翌55年、経済的な問題から帰国し、57年には日本橋三越において「村山密滞欧作品展」を開催。同じ頃四谷のイグナチオ教会に通いカトリックに入信している。59年、今度は定住を決意して再び渡仏。翌60年には藤田の紹介によりルシオ画廊でのグループ展に参加、以後も出品を続ける。61年にはトゥルネル画廊の代表アンヌ・マリと知り合い、翌62年同画廊にて第1回個展を開催。同年のサロン・ドートンヌでは初めて出品した「ノートルダム寺院」が初入選し、パリ16区主催風景画コンクールではド・ゴール大統領賞を受賞、翌63年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールでは「ノートルダム寺院(パリ)」を出品し、外国作家賞を受賞。この間、フランスを訪れた岡とともにブルターニュの僻村コーレルや、サルト県ソーレムのサン・ピエール修道院を巡り、岡が帰国した後の経済的・精神的苦境の際には、日本からの岡の手紙に非常に励まされたという。また、弟憲市は兄を支援するために銀座に画廊を開き、村山作品の販売を手掛けた。 春陽会や新文展に出品していたころの村山作品は、花や果物といった穏やかな静物画であったが、パリへと渡った後には、パリを中心とする風景画を多く描くようになり、風景画家としてその名が知られるようになった。色彩とフォルムの秩序を重視し、パレット上での混色を避けて色彩の純度を高める手法を採るなど、新印象派を自称する村山の作品は、印象派やキュビスムといった西洋絵画の技法と、日本人としてのアイデンティティとによって構成された現代フランス絵画であると評された。 69年にはアニエール展に「ケー・ブールボン(釣人)」を出品しグランプリを受賞、70年にはサロン・ドートンヌの会員となり、72年には同展陳列委員、さらに79年には審査委員となる。81年サロン・ド・オンフルールでウジェーヌ・ブーダン賞を受賞。同年フランス国籍を取得する。翌82年には再びアニエール展でグランプリを受賞。85年日本人で初めてサロン・ドートンヌのプレジダント・ド・セクション・パンチュール(具象絵画部門絵画部長)に任命され、翌86年にはサロン・ドートンヌの最高の栄誉ともいえるオマージュ展に日本人として初めて選出、「オンフルールの旧税関」「夜のノートルダム」「けし」「睡蓮」など18点が展示された。87年モナコ王室主催国際現代絵画展にて「ルーアンの聖堂」が宗教絵画特別賞を受賞。1991(平成3)年にはパリ市よりヴェルメイユ勲章を受章した。また、同年9月には茨城県潮来町名誉町民に任命され、11月には第27回茨城賞を受賞している。93年ルールド市主催の国際ジェマイユ・ビエンナーレでグランプリを受賞。95年にはフランス芸術院よりグランド・メダイユ・ドール(栄誉大賞)を、日本国より勲四等旭日小綬章をそれぞれ授与され、97年フランス国家よりシュヴァリエ・ラ・ド・レジョン・ドヌール勲章を受章している。 フランスでは「ミュラ」の愛称で親しまれ、優秀な日本人画家をフランスに紹介し、フランス現代絵画を日本へ紹介するなど、両国の相互理解を深める上で大きな役割を果たした。

大河内信威

読み:おおこうちのぶたけ  日本陶磁協会理事長、茶の湯同好会・古今サロン会副会長の大河内信威は、7月12日心不全のため東京都渋谷区のセントラル病院で死去した。享年87。明治35(1902)年7月24日東京・下谷区に生まれる。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。父正敏は旧大多喜藩主大河内正質の長男で、東京帝国大学工学部教授ののち、戦前に新興コンツェルン理研産業団を主宰した実業家でもあり、また陶磁器への造詣が深く『柿右衛門と色鍋島』などの著書でも知られる。旧制浦和高等学校卒。戦前は大多喜天然瓦斯を経て、理研産業団各社の専務などをつとめ、戦後は理研科学映画専務ののち、東邦物産嘱託となった。この間。陶磁史、茶道史の研究を深め、なかでも楽茶碗に関しては父子代々のコレクターでもあり、論考、著書を通じ楽焼研究に大きく寄与した。また、実験茶会、陶芸教室などをおこし、自ら作陶もした。その交遊も多彩で、美術家では岩田藤七、近藤悠三、荒川豊蔵、中川一政らがあった。著書に『茶碗百選』(平凡社)、『古九谷』(日本陶磁協会)、『楽茶碗』(河原書店)、『茶の湯古今春秋』等がある。

遠藤典太

春陽会会員の洋画家遠藤典太は8月8日午前2時10分、心不全のため横浜市中区の横浜市立港湾病院で死去した。享年88。明治36(1903)年1月10日福岡県大牟田市に生まれる。三井三池工業学校応用化学科に学ぶが大正7(1918)年2年次で退学。三井鉱山会社三池事務所に勤め、同13年画家を志して上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事。同15年第4回春陽会展に東京大学構内の三四郎池を描いた「池」で初入選。以後同会に出品し、また、昭和4(1929)年春陽会研究所が設立されるとここに学び、小杉放菴、山本鼎、森田恒友、石井鶴三、中川一政らの指導を受けた。同6年第9回春陽会展で春陽会賞受賞。同9年同会会友となり、戦後の同22年同会会員に推挙された。同52年第54回春陽会展に「栢槙」を出品して第54回展賞を受賞。風景画を得意とし、身近な題材をとらえ、鮮やかな色を激しい筆触で用いてその筆触によって画面に動きを生み出す画風を示した。 春陽会展出品略歴第4回(大正15年)「池」(初入選)、5回(昭和2年)不出品、10回(同7年)「子供の顔」「三池風景」「天草風景(二)」「天草風景(一)」、15回(同12年)「雨後」「池畔」「山ふところ」、20回(同17年)「シクラメン」「磯辺」「山家」、30回(同28年)「教会堂」「街角の家」「港」、35回(同33年)「運河の舟」「運河」「山手の破家」、40回(同38年)「古いバラック」「木立」、45回(同43年)「神ノ木台部落」「神ノ木台風景」、50回(同48年)「丘の部落(2)」「丘の部落(1)」、55回(同53年)「栢槙」、60回(同58年)「さるすべりの木」、65回(同63年)「諸磯風景(その二)」

益田義信

国際美術家連盟名誉会長で美術の国際交流に尽くした洋画家益田義信は、1月10日午前6時55分、老衰のため横浜市中区の警友病院で死去した。享年84。三井物産創業者益田孝を祖父に、劇作家益田太郎冠者を父に持つ益田は、明治38(1905)年3月1日、東京・品川御殿山に生まれた。慶応義塾幼稚舎より普通部に進み、同部三年在学中に油絵を始める。昭和元(1926)年、中川一政ら春陽会の若手画家たちと慶応の学生グループの合同展である桃源展を設立し日本橋丸善などで展覧会を開く。昭和2(1927)年第6回国画創作協会展に「アネモネ」で入選し、梅原龍三郎の知過を得、以後梅原を師に仰ぐ。翌3年慶応義塾大学経済学部を卒業し、美術研究のための渡仏、パリでは宮田重雄、伊東廉、林重義、佐分真と交友し、3年間滞在の後、同6年帰国する。同7年第7回国画会展に初出品し、「ボーリュー」「コルテの家」「南佛風景」等滞欧作11点を展観して同会会友に推される。同18年国画会会員となり、戦後も同展に出品した。同24年、伊原宇三郎らと日本美術家連盟を組織してその委員となり、芸術家の社会的地位の改善に尽力する。同27年日本が初めてヴェネツィア・ビエンナーレに参加するに際しその副委員となり、その折の体験から同展日本館の設立を企画して同31年これを完成する。同30年、アメリカ国務省の招待を受け3ケ月間アメリカの美術館、美術学校を視察。この間、カーネギー国際展日本参加を交渉し、また、後にはヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレ等の国際展に委員として参加。同41年にはユネスコの国際造型芸術連盟(IAA)会長となり、同44年退任と同時に同会名誉会長となった。ヨーロッパ風景、花、庭などを好んで描き、版画の制作も行ない、昭和30年には国画会版画部会員ともなったが、同53年12月、同会を退いた。戦後間もない昭和24年よりアマチュア画家による『チャーチル会』の指南役をつとめたことでも知られ、訳書にオリビエ著『ピカソと其の友達』などがある。

松村外次郎

彫刻界の長老であり、二紀会名誉会員であった彫刻家松村外次郎は、6月20日午後零時45分、心不全のため東京都新宿区の東京医科大学付属病院で死去した。享年88。明治34(1901)年9月17日、富山県東礪波郡に生まれ、早くから彫刻家を志し、大正5(1916)年、井波尋常高等小学校を卒業して富山県工芸学校(現、富山県立高岡工芸高等学校)木工科に入学する。同9年、同校を卒業し、同年9月に上京して吉田白嶺の内弟子となる。同10年、平和博覧会美術展に「雪の朝」で入選。同12年第10回院展に「女」で初入選する。同13年、東京美術学校彫刻科に入学。同15年、聖徳太子奉賛美術展に「一笑傾国」で入選する。東美校在学中に院展から二科展へ転じ、昭和2(1927)年、第14回二科展に「女の顔」「軍鶏」で初入選。以後二科展に出品を続ける。昭和4年東美校を卒業し、同6年6月に渡仏し古典石彫を中心に研究して同8年帰国する。同年第20回二科展に「真珠王」「女の顔」「マスク」を出品して同会会友となり、翌9年第21回二科展には「パリージェンヌ」「マドモアゼル・マサコ」「神農群像」を出品し「神農群像」で推奨を受ける。同11年二科会会員となり、同19年の二科会解散まで同会に参加する。戦後は、同26年二紀会に彫刻部が設けられると同展に出品を始め、同会委員となる。同29年から隔年で行われた現代日本美術展には1回展より5回展まで招待出品を続け、同30年、32年、34年には日本国際美術展にも招待出品する。また、新素材の可能性を探る「白色セメントによる春の野外彫刻展」にも、同30年第5回展から同41年第16回展まで出品。二紀会においては、同42年副理事長、同51年名誉会員となった。木彫、石彫、ブロンズやセメントを素材とする塑像など幅広い技法を修得し、初期から、形の根源にかかわる様々な古典彫刻に興味を示した。留学期から帰国後しばらくは人物像に西洋古典の研究の跡が認められ、昭和30年代には抽象的傾向を強めるが、晩年には中国など、東洋の古典的彫刻を思わせる作風へと変化した。熊谷守一、中川一政らと親交があり、古典的造型の端麗さと暖かい人間性とを持つ作風を示した。同59年4月郷里の富山県民会館美術館で「松村外次郎回顧展」が開かれたほか、平成元年には出身地庄川町に同町立松村外次郎記念美術館が竣工した。年譜、出品歴は「松村外次郎回顧展」図録に詳しい。 二科、二紀展出品歴第14回二科展(昭和2年)「女の顔」「軍鶏」(初入選)、15回「L子の顔」「中山氏立像」「牧氏の首」、16回「U氏像」「F女の顔」、17回(同5年)「立像」、18、19回不出品、20回「真珠王」「女の顔」「マスク」、21回「パリージェンヌ」「マドモアゼル・マサコ」「神農群像」(推奨)、22回(同10年)「エマージ」「天の川」「桃太郎」「猫」、23回「母と子」「芭蕉」、24回「顔」「モニューマン覇空」、25回「立山縁起」、26回「幼時の鹿之助」「犬」、27回(同15年)「和唐内」「背黒鴎」、28回「東天紅」、29回「タバコ」、30回「大空の決戦へ」第5回二紀展(同26年)「はと」「いぬ」、6回「ユダヤ」「鷹」、7回「うしお」「リング」、8回「朝」「ことぶき」、9回(同30年)「フルーツ」「朝日先生」、10回「蓬瀬由来」「犬」、11回「裸婦」「鳩」、12回「トルソー」、13回「女王+トルソー」「シルクドチェッコ」、14回(同35年)「月輪」、15回「鳳鳥至」、16回「裸婦」、17回「裸婦」、18回「日章旗」、19回(同40年)「草笛」「鴉」、20回「原始居A・B・C」、21回「風の樹」「位相(トポロジー)」、22回「初平の羊」、23回「座る女」、24回(同45年)「リボンの娘」、25回「花たより」、26回「しゃも」「わし」、27回「袈裟山降雪(円空遺聞)」「ふたり」、28回「ゆびきり」、29回(同50年)「ゆらぐ」「西行」、30回「母と子」「とりのエチュード」、31回「天籟」、32回「ドイツ娘の顔」「フロイライン・ジグルン」、33回「熊谷先生」「エマージュ尋牛の友」、34回(同55年)「朱雀」、35回「橋本八百二像」「元武」、36回「鳳龍」、37回不出品、38回「白虎」、39回(同60年)「白虎」、40回不出品、41回「越の川」、42回「ひょうたん」、43回(平成元年)「蓮如上人(吉崎)」

小林秀雄

日本芸術院会員、文化勲章受章者の小林秀雄は、3月1日じん不全による尿毒症と呼吸循環不全のため東京・信濃町の慶応病院で死去した。享年80。わが国における近代批評の確立者とされ、美術論でも多大の影響を与えた小林は、明治35(1902)年4月11日東京市神田区に生まれ、昭和3年東京帝国大学文学部仏蘭西文学科を卒業。翌4年、「改造」の懸賞評論に「様々なる意匠」を応募し二席に入選、すでに成熟した確固たる自己の文体と批評の方法を示した。同8年、川端康成らと「文学界」を創刊し文学批評とともに時事的発言も行ったが、やがて戦況が深まるにつれ日本の古典に沈潜し、また陶器と向いあう沈黙の世界に閉じ込もり、「無常といふ事」(同17年)、「西行」(同年)、「実朝」(同18年)、などの作品を生んだ。戦後の仕事は、「モオツァルト」(同21年)、『近代絵画』(同33年刊)など、音楽、美術論を著した時期、『考えるヒント』(同39年刊)に代表される歴史、思想的エッセーを執筆した時期、そして、同40年から「新潮」に連載し同52年に刊行された『本居宣長』の時代に三分して捉えられている。美術論に関しては、その本格的な出発となった『ゴッホの手紙』(同27年刊、第4回読売文学賞)で示されているように、「意匠」をつき抜けた「天才の内面」を掘りあてることに関心を集中させ、孤独で強靭な作家の姿を浮彫りにした。『近代絵画』(同33年刊、第11回野間文芸賞)においても、画家列伝形式でモネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノワール、ドガからピカソをとりあげ、これを近代芸術精神史というべき域へ昂めている。その他、戦前の陶磁器に関するエッセーをはじめ、美術を論じた執筆は数多い。また、晩年はルオーの作品を愛していたという。同34年日本芸術院会員となり、同44年文化勲章を受章。美術関係文献目録(『新訂 小林秀雄全集』新潮社刊-昭和53・54年-所収)第3巻故古賀春江氏の水彩画展「文学界」昭和8年11月第9巻骨董 初出紙未詳。昭和23年9月の執筆か。眞贋 「中央公論」 昭和26年1月号。埴輪 『日本の彫刻1上古時代』、美術出版社刊、昭和27年6月。古鐸 「朝日新聞」 昭和36年1月4日号。徳利と盃 「藝術新潮」 昭和37年2月号。と題する連載の第1回。壷 「藝術新潮」 昭和37年3月号。の第2回。鐸 「藝術新潮」 昭和37年4月号。の第3回。高麗劍 「藝術新潮」 昭和38年2月号。の第4回。染付皿 「藝術新潮」 昭和38年3月号。の第5回。信樂大壷 『信樂大壷』、東京中日新聞社刊、昭和40年3月。原題「壷」。として執筆された。第10巻ゴッホの手紙 「藝術新潮」 昭和26年1月~27年2月ゴッホの墓 「朝日新聞」 昭和30年3月26日号。ゴッホの病氣 「藝術新潮」 昭和33年11月号。ゴッホの繪 『オランダ・フランドル美術』(世界美術大系19)、講談社刊、昭和37年4月。ゴッホの手紙 『ファン・ゴッホ書簡全集』内容見本 みすず書房 昭和38年10月光悦と宗達 『國華百粹』第四輯。毎日新聞社刊、昭和22年10月。原題「和歌卷(團伊能氏蔵)」。梅原龍三郎 「文體」復刊号、昭和22年12月。文末「附記」はこのエッセイが『梅原龍三郎北京作品集』(石原求龍堂刊、昭和19年11月)の解説のために執筆されたものであることを伝えている。鐵齋1 「時事新報」 昭和23年4月30日-同5月2日号。原題「鐵齋」。鐵齋2 「文學界」 昭和24年3月号。原題「鐵齋の富士」。雪舟 「藝術新潮」 昭和25年3月号。高野山にて 「夕刊新大阪」 昭和25年9月26日号。偶像崇拜 「新潮」 昭和25年11月号。原題「繪」。鐵齋3 『現代日本美術全集』第一巻、座右宝刊行会編、角川書店刊、昭和30年1月。原題「富岡鐵齋」。鐵齋の扇面 「文藝」増刊号(美術讀本)、昭和30年11月。鐵齋4 『鐵齋』、筑摩書房刊、昭和32年2月。原題「鐵齋」。梅原龍三郎展をみて 「讀賣新聞」 昭和35年5月7日号夕刊。第11巻近代絵画 「新潮」 昭和29年3月-30年12月号 「藝術新潮」 昭和31年1月-33年2月号。単行本は昭和33年人文書院より刊行。同年普及版を新潮社より刊行。ピカソの陶器 「朝日新聞」 昭和26年3月13日号。マチス展を見る 「讀賣新聞」 昭和26年4月23日号。セザンヌの自畫像 「中央公論」 昭和27年1月号。ほんもの・にせもの展 「讀賣新聞」 昭和31年3月28日号。私の空想美術館 「文藝春秋」 昭和33年6月号-同八月号。マルロオの「美術館」 「藝術新潮」 昭和33年8月号。「近代藝術の先駆者」序 『近代藝術の先駆者』、講談社刊、昭和39年1月。同書は『20世紀を動かした人々』全16巻の第7巻。別巻1中川さんの絵と文 『中川一政文集』内容見本、筑摩書房、昭和50年5月。土牛素描 「奥村土牛素描展目録」 昭和52年5月ルオーの版画 『ルオー全版画』内容見本、岩波書店、昭和54年3月ルオーの事 「ルオー展目録」 昭和54年5月、「芸術新潮」 昭和54年6月号に再録

西川寧

書家、中国書道史家で、日本芸術院会員、文化勲章受章者の西川寧は、5月16日急性心不全のため東京都目黒区の東京共済病院で死去した。享年87。現代書道界の重鎮として活躍した西川寧は、明治35(1902)年1月25日西川元譲の三男として東京市向島区に生まれた。はじめ吉羊と号し、のち安叔と字し、靖庵と号す。父元譲は字を子謙、号を春洞と称した書家で、幼時から神童をうたわれ、漢魏六朝普唐の碑拓法帖が明治10年代にわが国にもたらされるや、その研究に志し、また説文金石の学にも通じ書家として一派をなした。13歳で父春洞を亡くし、大正9(1920)年東京府立第三中学校を経て慶應義塾大学文学部予科に入学、この頃中川一政と親炙した。同15年同大学文学部支那文学科を卒業。在学中、田中豊蔵、沢木梢、折口信夫の学に啓発された。卒業の年から母校で教鞭をとり、のち同大教授として昭和20年に及んだ。昭和4年、中村蘭台主催の萬華鏡社に加わり、翌5年には金子慶雲らと春興会をおこし雑誌「春興集」を創刊、また、泰東書道院創立に際し理事として参加、この時、河井荃廬と相識る。同6年、最初の訪中を行い、同年『六朝の書道』を著す。同8年、金子、江川碧潭、林祖洞、鳥海鵠洞と謙慎書道会を創立。同13年、外務省在外特別研究員として北京に留学、同15年までの間、山西(大同雲崗他)、河南(殷墟)、山東(徳州、済南他)など各地の史蹟、古碑を訪ね、中国古代の書を独力で精力的に研究し、帰国後の創作ならびに研究活動へと展開させた。とくに、創作においては、従来とりあげられることの少なかった篆書・隷書に、近代的解釈を加え独自の書風を確立していったのをはじめ、楷書においては、六朝の書風を基礎とした豪快な書風を確立して書道界に新風を吹き込んだ。同16年『支那の書道(猗園雑纂)』を印行、同18年には田屋画廊で最初の個展(燕都景物詩画展)を開催した。戦後は、同23年に日展に第五科(書)が新設されて以来、審査員、常務理事などをつとめ運営にあたった。同30年、前年の日展出品作「隷書七言聯」で日本芸術院賞を受賞、同44年日本芸術院会員となる。この間、同24年、松井如流と月刊雑誌『書品』を創刊、同56年まで編輯主幹をつとめ、また、同22年から37年まで東京国立博物館調査員として中国書蹟の鑑査と研究にあたったほか、自ら深く親しんだ中国・清朝の書家趙之謙の逝去七十年記念展をはじめ、同館の中国書の展観を主辨した。また、同35年には、「西域出土 晉代墨跡の書道史的研究」で文学博士の学位(慶應義塾大学)を受けた。一方、同34年から同40年まで東京教育大学教授をつとめたほか、東京大学文学部、国学院大学でも講じた。戦後も二度中国を訪問、また、ベルリン、パリ、ロンドン等を二回にわたって訪ね、ペリオ、スタイン、ヘディン等によって発掘された西域出土古文書の書道史的調査を行った。同52年、文化功労者に挙げられ、同60年には書家として初めて文化勲章を受章した。作品集に『西川寧自選作品』(同43年)、『同・2』(同53年)等、著書に『猗園雑纂』(同60年再刊)等がある他、すぐれた編著書を多く遺す。没後、従三位勲一等瑞宝章を追贈される。また、自宅保存の代表作の殆んどを含む遺作百数十点余は、遺志により東京国立博物館へ寄贈された。平成3年春から著作集の刊行が予定されている。

角南松生

春陽会会員の洋画家角南松生は、9月12日脳こうそくのため東京都新宿区の駒ケ峰病院で死去した。享年92。本名松三郎。明治24(1891)年12月1日岡山市に生まれる。昭和8年から春陽会洋画研究所で学び、木村荘八、中川一政の指導を受けた。春陽会へは第10回展から出品し、同15年第20回展に「花」で春陽会賞を受賞、翌年春陽会会友、同22年春陽会会員となる。戦前の新文展には第4回から出品、戦後も第1回日展に出品したが翌22年には日展を離れた。同27、35、38、52年の4回にわり欧米を巡遊する。作品に「福沢諭吉像」(現慶応志木高蔵)などがある。また、村武らと浅草で天洋画会を設け、活動写真時代の映画館宣伝の草分けとして活躍したことでも知られる。

小松均

仙境の画人小松均は、8月23日午後4時10分、急性心不全のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年87。明治35年(1902)1月19日、山形県豊田郡に、曹洞宗延命寺住職小松梅男を父に生まれる。本名匀。幼時に父を失い、大正8年上京、川崎市の洋服店で働く。いったく帰京したのち、翌9年再び上京。新聞配達のかたわら、同年川端画学校に入学、岡村葵園に学ぶ。大正12年中央美術展に「嫁して行く村の乙女」が入選し、翌13年第4回国画創作協会展に「晩秋の野に死骸を送る村人たち」が入選、奨学金を受けた。これを機に土田麦僊の知遇を得、同14年京都の東山に転居、麦僊の山南塾に入塾する。また東山洋画研究所でデッサンを学び、宮本三郎らを知る。この頃から内貴清兵衛の援助を受け、15年の第5回国画創作協会展にも「秋林」「夕月」を出品、国画賞を受賞し会友となる。しかし、昭和3年国画創作協会日本画部が解散となり、同部会員が新たに結成した新樹社に参加した。この間、昭和2年大原に転居、翌3年の「八瀬」など、大原に取材した作品を描き始める。同4年第10回帝展に「渓流」が初入選し、この頃より水墨画を描き始めた。翌5年第11回帝展で「櫟林」が特選を受賞。一方、院展には、大正14年の春季展に「倉のある雪の日の子守子」が入選していたが、秋季展では、同じく昭和5年第17回院展に「もや」が初入選。以後、帝展、院展の双方に出品する。9年第21回院展にも「緑蔭」を出品したが、同年福田豊四郎、吉岡堅二らと山樹社を結成、以後公募展出品を暫時中止する。12年には津田青楓らと墨人会を結成。また、11年には、内貴清兵衛の紹介で横山大観、小林古径を知った。14年より再び院展に出品し、16年には新文展にも出品しているが、17年第29回院展に「黒牡丹」を出品。以後院展にのみ出品し、戦後21年第31回院展で「牡丹」が日本美術院賞を受賞、同人に推挙された。大原で自給自足の生活をしながら、大原の自然を題材に制作。40年第50回院展「吾が窓より(夏山)」が文部大臣賞を受賞する。43年山形美術館で個展開催後、翌年から郷里の自然に取材した最上川シリーズを開始。44年第54回院展「最上川(三ケ瀬、渦巻、はやぶさ)」、45年同第55回「最上川源流」、46年第56回「栗の花さく最上川」、48年第58回「最上川難所、三ケ瀬・碁点」、49年第59回「春の最上川」と出品し、このシリーズによって、50年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。54年第64回院展「雪の最上川」は内閣総理大臣賞となる。また52年第62回院展「富士山」以降の富士山シリーズ、58年第68回「岩壁」以降の岩壁シリーズなどを発表。墨を主体に、細かく、しかし綿々と描き込み積み上げていく画風は、素朴さと大地のエネルギーを伝える力強さに溢れ、“大原の画仙”と称された。55年郷里大石田町の名誉町民、61年文化功労者となる。また画塾甲辰会を主宰し、『おのれの子・作品集』(43年)『おのれの子・素描集』(46年)などの著書を残している。 略年譜明治35年 1月19日、山形県豊田郡に小松梅男、フヨの長男として生まれる。父は曹洞宗延命寺の住職であったが、均の生後1年余で死去したため、山形県白鳥村で農業を営む母方の伯父、細谷金四郎宅に母子は身を寄せる。母は均の8歳の時再婚、均はその後も細谷家で養われた。大正3年 白鳥小学校を卒業し、富並尋常高等小学校に入学。往復16キロの山路を学校に通う。大正5年 富並尋常高等小学校を卒業し、伯父の農業を手伝う。大正8年 この頃、川崎市に出、洋服屋の小僧となる。のち東京・神田の書籍店、菊屋に移る。この頃から画学生に憧がれたが一旦帰郷し、下駄屋に丁稚奉公する。大正9年 再び上京し、万玄社に勤め、新聞配達をするかたわら、画家を志して川端画学校に通って岡村葵園に学ぶ。画学校の友、藤井茂樹(無縁寺心澄)の水彩の直感的写生を見て野獣派の描法を日本画に取り入れることによって、新しい日本画を創るヒントを得る。大正13年 6月、第5回中央美術展に、再婚の際の母の姿をテーマに「嫁して行く村の乙女」を出品し、入選する。第5回帝展に「姐妃」を出品したが落選する。11月、第4回国画創作協会展に、父の死を追想して描いた「晩秋の野に死骸を送る村人たち」を出品して入選する。大正14年 京都に移り、土田麦僊の山南塾に入る。東山洋画研究所でデッサンを学ぶ。宮本三郎、橋本徹太郎らを知る。この頃から、土田麦僊の紹介で、京都の実業家で美術に理解の深かった内貴清兵衛の援助を受ける。2月、第11回日本美術院試作展に「倉のある雪の日の子守子」が入選する。大正15年 3月、第5回国画創作協会展に「秋林」「夕月」を出品し、奨学金を受け、会友となる。昭和2年 4月、第6回国画創作協会展に「花(一)」「花(二)」を出品。昭和3年 4月、第7回国画創作協会展に「雪」「八瀬」を出品。7月、国画創作協会日本画部解散。11月、福田豊四郎、吉岡堅二らとともに新樹社を設立する。昭和4年 6月、第1回新樹社展に「秋野」を出品。10月、第10回帝展に「渓流」を出品し入選する。この頃から水墨画を試みる。昭和5年 6月、第2回新樹社展に「薄」を出品。10月、第11回帝展に「櫟林」を出品し、特選となる。昭和6年 9月、第18年院展に「鯰」「牛」を出品。10月、第12回帝展に「山路」を出品し入選する。昭和7年 10月、第13回帝展に「花の森」を出品。昭和8年 10月、第14回帝展に「洛北早春」を出品。昭和9年 9月、第21回院展に「緑蔭」を出品し、この後一時公募展への出品を停止する。昭和10年 満州に渡る。昭和11年 6月、土田麦僊没。内貴清兵衛の紹介で、横山大観、小林古径に会う。昭和12年 津田青楓、中川一政、矢野橋村、菅楯彦らと墨人会を結成し、6月25日~7月4日、第1回展を大阪・朝日会館で開催。昭和13年 傷病兵慰問のため、中国に渡り、上海・鎮江・蘇州・杭州・南京を巡る。福田豊四郎、吉岡堅二と三樹社を結成、のち会名は新美術人協会と改名され、太田聴雨、森田沙伊、横尾深林人らも参加する。昭和14年 ★々人と号す。11月、麦僊の山南塾再興を企て、山南会をおこす。昭和15年 法隆寺金堂壁画模写事業が始まったのに刺激され、仏画の大作制作を志す。昭和17年 9月、第29回院展に「墨牡丹」を出品。昭和18年 9月、第30回院展に「牡丹」(2点)を出品。10月、第6回新文展に「雪後」を出品。昭和19年 「蓮池」「大原女少女」を描く。黙音洞人と号す。昭和20年 仏画の大作を描き続けながら、終戦を迎える。昭和21年 9月、第31回院展に「牡丹」を出品。谷中の日本美術院で描く。日本美術院賞を受け、同人となる。昭和22年 9月、第32回院展に「花菖蒲」を出品。昭和23年 9月、第33回院展に「山三題」を出品。昭和24年 9月、第34回院展に「松」を出品。昭和25年 9月、第35回院展に「神津島の娘」を出品。昭和26年 9月、第36回院展に「蓮」を出品。昭和27年 9月、第37回院展に「大原の春」を出品。昭和28年 9月、第38回院展に「花(一)(二)」を出品。昭和29年 9月、第39回院展に「裸婦素描(一)(二)」を出品。昭和30年 9月、第40回院展に「即現婦女身」を出品。昭和32年 9月、第42回院展に「夏山」を出品。昭和33年 9月、第43回院展に「夏の大原」を出品。他に「東尋坊」を描く。昭和34年 5月、第5回日本国際美術展に「岩山の月」を出品。9月、第44回院展に「鯉」を出品。昭和35年 9月、第45回院展に「雄島岩壁」を出品。「不動尊(青)」を描き始める。昭和36年 9月、第46回院展に「藤間美知踊る幻お七・三態」を出品。昭和37年 9月、第47回院展に「白日夢」を出品。昭和38年 9月、第48回院展に「はぢらひ」を出品。昭和39年 9月、第49回院展に「雪壁」を出品。昭和40年 9月、第50回院展に「吾が窓より(夏山)」を出品。文部大臣賞受賞。昭和41年 9月、第51回院展に「戸隠の春」を出品。昭和42年 9月、第52回院展に「蓬莱峡全図」を出品。昭和43年 9月、第53回院展に「池の朝(鯉)」を出品。昭和44年 9月、第54回院展に「最上川(三ケ瀬、鍋巻、はやぶさ)」を出品。最上川連作を始める。昭和45年 9月、第55回院展に「最上川源流」を出品。昭和46年 9月、第56回院展に「栗の花咲く最上川」を出品。昭和47年 9月、第57回院展に「鯰の池」を出品。他に「三十六童子」を描く。昭和48年 9月、第58回院展に「最上川難所(三ケ瀬・碁点)」を出品。画業50年記念展を大阪阪神百貨店で開催。他に「吾が家への道」を描く。昭和49年 9月、第59回院展に「春の最上川」を出品。他に「白糸の滝」「黒富士」を描く。昭和50年 9月、第60回院展に「吾が窓より(大原春雪)」を出品。最上川シリーズで芸術選奨を受賞。この頃、「舞妓」「牡丹」「鯉図」を描く。昭和51年 9月、第61回院展に「吾が窓より(田園の夕暮)(田園の朝)」を出品。昭和52年 9月、第62回院展に「富士山」を出品。他に「赤富士(一)(二)」を描く。昭和53年 9月、第63回院展に「赤富士」を出品。小松均展を東京、京都大丸で開催。他に「七媛富士」を描く。昭和54年 9月、第64回院展に「雪の最上川」を出品。内閣総理大臣賞受賞。昭和55年 9月、第65回院展に「豊茂富士」を出品。昭和56年 9月、第66回院展に「大原早春」を出品。小松均展を高知県立郷土文化会館で開催。昭和57年 9月、第67回院展に「白富士図」を出品。昭和58年 9月、第68回院展に「岩壁」を出品。昭和59年 画業65年記念、小松均展を神戸大丸、新潟伊勢丹、仙台十字屋で開催。9月、第65回院展に「大原風景」を出品。昭和60年 9月、第70回院展に「岩山雲烟図」を出品。他に「岩山」を描く。昭和61年 6月、自然への感応・15年の足跡 小松均展を東京池袋、西武アート・フォーラムで開催。(小松均展図録 1986年 池袋西武アート・フォーラムより抜粋)

芹沢銈介

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)で、文化功労者の型絵染作家芹沢銈介は、4月5日午前1時4分、心不全のため、東京都港区の虎の門病院で死去した。享年88。略年譜明治28(1895)年5月13日、静岡県静岡市の呉服太物卸小売商大石角次郎の次男として生まれた。明治41(1908)年 静岡県立静岡中学校に入学。中学時代、すでに美術好きの少年で、水彩画家山本正雄のよき指導を得ていた。大正3(1914)年 東京高等工業学校図案科入学。印刷図案を専攻。翌年、図案科は東京美術学校に学務委託され、ここで石版印刷技法を修得した。この頃、雑誌「白樺」「フューザン」の挿画を通して西欧美術に感動、国内では梅原龍三郎、安井曽太郎、特に岸田劉生と中川一政に傾倒、また富本憲吉、バーナード・リーチの作品に惹かれた。大正5(1916)年 東京高等工業学校図案科卒業、静岡市の生家に帰る。大正6(1917)年 2月、静岡市の芹沢たよと結婚、友人太田三男と文金図案社を始め、店舗の装飾、広告、祭の花車等の依頼を受け、大工玩具の考案製造もした。11月からは、静岡県立静岡工業試験場で、蒔絵、漆器、染色紙、木工等の図案指導を行う。この年長女規恵出生。大正8(1919)年 小絵馬の収集始める。10月長男長介出生。大正10(1921)年 大阪府立商工奨励館募集のポスター図案に入賞、福助足袋屋のポスターで朝日新聞ポスター図案に入賞、等各府県、新聞広告の懸賞に入賞多数。このころ、子供の乗物、絵本を作り、劉生風の油絵を描き、自分の子供たちの衣服もデザイン、布染めして工夫して着せるなどした。大正11(1922)年 この年から近隣の子女を集めて「このはな会」と名付け、手芸の図案を与えて、絞り染めや刺繍、編物等の製作をさせた。この年の主婦之友全国家庭手芸展に出品させ、最高賞を受けた。このころ、雑誌「白樺」に柳宗悦の東洋美術紹介があったのに感銘を受け、特に「李朝の陶磁器号」に感動する。11月に次女和喜出生。大正13(1924)年 芹沢家は、親戚のための請判が原因で土地、家屋、山林、田畑のすべてを失い、借家住いとなる。この頃から蝋染を始める。昭和2(1927)年 柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司らが静岡市鷹匠町の宅へ来訪、収蔵の李朝陶器等に賛成する。4月、東京鳩居堂の第1回日本民芸展で古民芸の系列に接す。6月、柳宗悦編「雑器の美」(民芸叢書第一編、工政会出版部)の装幀をする(以後柳宗悦著述本の装幀多数)。この年、朝鮮京城の民族美術館、慶州佛国寺を訪れる。往路、船中で雑誌「大調和」(昭和2年4月創刊)に連載中の柳宗悦の論文「工芸の道」に感銘をうけ、生涯の転機となる。昭和3(1928)年 上野公園の大禮記念国産振興博覧会で、静岡県茶業組合連合会の展示を行う。この博覧会特設館の日本民芸館で初めて見る沖縄の紅型に瞠目する。前後して開かれた啓明会その他の沖縄工芸の展示を見て紅型への思慕を深めた。昭和4(1929)年 3月、京都大毎会館の日本民芸品展に、所蔵の小絵馬、陶器、染物等出品、また國画会展にはを初出品、N氏賞受賞。昭和6(1931)年 雑誌「工芸」創刊され、表紙を1ケ年受け持つ。その型染布表紙は装幀の仕事への端緒となる。この年、三女とし出産。昭和8(1933)年 大連で個展を開催、帰途、満州・朝鮮の各地を回遊。倉敷文化協会主催で同地で個展を開催、大原孫三郎の知遇を受ける。昭和9(1934)年 東京市蒲田区蒲田町に移る。柳宗悦と共に民芸品収集のため四国を一巡する。昭和14(1939)年 柳宗悦他民芸同人と沖縄に渡り、那覇に滞在、各々専門分野で同地工芸の研究を行う。同地壷屋の生地を取り寄せて赤絵を試み、また沖縄の景物を素材とした染絵を多く作り、これらを高島屋の沖縄展に出品。昭和20(1945)年 戦災で工房と全家具・家財を失う。山本正三の発案で型染カレンダーを創始する。昭和30(1955)年 工房を新設し、有限会社芹沢染紙研究所を開設する。昭和31(1956)年 型絵染で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。昭和33(1958)年 倉敷の大原美術館工芸館のために、倉庫群の配置換え及びその内外装、展示用家具の設計をする。昭和36(1961)年 大原美術館工芸館第1期工事により陶磁館落成。この年、柳宗悦死去。昭和38(1963)年 大原美術館工芸館第2期工事により棟方志功、芹沢銈介の両館完成。昭和41(1966)年 スペインのバルセロナのカタルーニア美術館を訪れ、近東、欧州各地を巡遊。この年、紫綬褒章を受章。昭和43(1968)年 大阪フェスティバルホールの緞帳の図案「御船渡」を制作、新皇居連翠の間の横額二面の謹作、米国サンディエゴ州立大学の夏期セミナーに招請され、同地及びロスアンゼルス、カナダのバンクーバーで個展開催。昭和45(1970)年 大原美術館工芸館の第三期工事で東洋館完成。大阪大丸百貨店の濱田庄司、棟方志功との「巨匠三人展」に出品。この年、勲四等瑞宝章を受章。昭和46(1971)年 東京の民芸館で「芹沢銈介収集品展」を開催。「このはな会」寄贈によるケネディ記念館のための屏風「四季曼荼羅」を完成。パリ国立近代美術館長ジャン・レマリー氏来日、同館における芹沢銈介展の開催を要請する。昭和48(1973)年 大阪・阪急百貨店で「芹沢銈介 人と仕事展」を開催。昭和49(1974)年 浄土宗開宗八百年慶讃大法要のため、京都・知恩院大殿内陣の荘厳飾布を制作。岡山天満屋百貨店での展覧会「型絵染の巨匠芹沢銈介の五十年-作品と身辺の品々-」を開催。昭和51(1976)年 文化功労者となる。パリ国立グラン・パレにおいて「芹沢銈介展」を開催。昭和52(1977)年 東京・サントリー美術館で、パリ帰国展として「芹沢銈介展」を開催する。昭和53(1978)年 浜松市美術館で「芹沢銈介の身辺-世界の染めと織り展」を開催。国会図書館での「本の装幀展」に特別出品。静岡・西武百貨店で「芹沢銈介小品展-のれん・装幀とその下絵・挿絵-」を開催。静岡市民ホールの緞帳図案「静岡市歌」制作。横浜市港北公会堂緞帳図案「陽に萠ゆる丘」制作。大原美術館で「芹沢銈介の蒐集-もうひとつの創造-展」を開催する。昭和54(1979)年 千葉県立美術館で「芹沢銈介展-その創造のすべて-」を開催。米国サンディゴ市ミュージアム・オブ・ワールドフォークアートで「芹沢銈介展」開催。昭和55(1980)年 東京国立近代美術館の「日本の型染-伝統と現代-展」に出品。中央公論社より『芹沢銈介全集』の刊行を開始する。昭和56(1981)年 静岡市立芹沢美術館が開館。昭和57(1982)年 栃木県立足利図書館で「芹沢銈介の文字展」開催。天心社の依頼により「釈迦十大弟子尊像」を制作。大原美術館で「芹沢銈介作釈迦十大弟子尊像展」開催。紫紅社より『歩 芹沢銈介の創作と蒐集』刊行。昭和58(1983)年 フランス芸術文化功労勲章を授与される。新宿京王百貨店で「88歳記念芹沢銈介展」開催。4月19日に妻たよ死去。8月病に倒れる。昭和59(1984)年 4月5日午前1時4分心不全のため死去。4月26日、日本民芸館にて日本民芸館葬。正四位に叙せられ、勲二等瑞宝章を受ける。

岡鹿之助

春陽会会員、日本芸術院会員で文化勲章受章者であった洋画家の岡鹿之助は、4月28日午前11時、心筋硬ソクによる心不全のため、東京大田区の中央病院で死去した。享年79であった。岡鹿之助は、明治31年(1898)、劇評家として知られていた岡鬼太郎の長男として生れた。岡家はもと佐賀鍋島藩の出で、鹿之助というのは祖父の名からとられている。明治45年、中学2年のころから岡田三郎助についてデッサンを学び、大正8~13年、東京美術学校西洋画科の岡田三郎助教室に学んだ。大正13年(1924)に渡仏し、翌年2月からパリに住み、藤田嗣治の指導をうけながらサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンに出品した。大正14年、最初のサロン・ドートンヌ出品の際に自分の作品のマチエールの貧弱なのに驚き、以後、顔料や画布について研究をはじめ、また、スーラ、ルドンなどの作品にひかれた。昭和14年(1939)12月の帰国まで、約15年間フランスに滞在し、その間、藤田のほか斎藤豊作、ボナール、ラプラード、アスラン、ザッキン、マルケなどと交友した。帰国後は、春陽会に会員として迎えられ、その第18回展から参加、以後、没するまで春陽会展を中心に作品を発表、戦後は日本国際美術展、現代日本美術展、国際形象展などでも活躍した。昭和28年に渡仏、同34年、同44年にも再度渡欧し、34年(1959)のときには満2年間滞在した。昭和27年には第5回美術団体連合展出品の「遊蝶花」で芸能選奨文部大臣賞、昭和31年第2回現代日本美術展では「雪の発電所」で最優秀賞、昭和39年日本芸術院賞をうけ、昭和44年日本芸術院会員となる。同47年近代フランス古典主義の示唆を受け、新たな日本的風情を持つ秩序とリズム感のある画風を樹立して、日本の現代洋画の流れを変える一石を投じた業績によって文化勲章をうけた。著書に『フランスの画家たち』(中央公論社、昭和24年)、『ルソー』(原色版美術ライブラリー・みすず書房、昭和31年)、『スーラ』(同、昭和33年)、『ジョルジュ・スーラ』(ファブリ世界名画全集・平凡社、昭和44年)などがある。 明治31年 7月2日劇評家岡鬼太郎(本名嘉太郎)の長男として、東京市麻布区に生れる。母・みね。明治38年 東京、麻布尋常小学校入学。明治44年 麻布尋常小学校卒業。四月、麻布中学に入学。明治45年 麻布中学校2年生のときから、父の知人であり、父がその人となりを尊敬していた岡田三郎助に素描を学ぶことになった。大正8年 前年、麻布区西町から浅草区今戸町の隅田川畔の住居に一家をあげて移転、。東京美術学校西洋画科に入学、敷地内にアトリエを建てる。東京美術学校では、第3学年より岡田三郎助の教室に学んだが、青と黄で裸体を描き、美術学校のアカデミックな画風に反発して、あまり登校せず、アトリエにこもるようになる。しかし、反発の理由を理解し、かばってくれていた師岡田三郎助の恩情を後年まで忘れ得なかった。大正12年 9月、関東大震災に遇い、浅草今戸町の家は焼失、麻布区広尾町に仮寓する。大正13年 3月、東京美術学校西洋画科卒業。12月、美術学校5年在学中の南城一夫とともに、3カ年の予定で日本郵船筥崎丸で渡仏する。大正14年 サロン・ドートンヌに「風景」入選する。2月、パリ着、5 Rue Delamlre のガレージを改装したアトリエを紹介されて借りるが、しばらくして師岡田三郎助と小山内薫からの紹介状をもって藤田嗣治を訪れると、そのアトリエは、藤田が数日前まで住んでいた部屋であることが判った。絵について、パリでの生活について、また、フランス画壇の現状について、藤田から学ぶところが多かった。7月、ブルターニュの田舎でひと夏を過し、その間の制作の中で、ようやく、これ迄の学校で学んだアカデミックな表現から完全に脱することが出来た。秋、7、80点の制作の中から、藤谷すすめられてサロン・ドートンヌに風景2点を初めて出品、「風景」が1点入選する。大正15年 サロン・ドートンヌに「信号台(1)」「信号台(2)」「水門」「村の一隅」「マディック氏別荘」出品。昭和2年 サロン・デ・ザンデパンダンに「城と花。」ウォルベルグ画廊(スイス)に「セーヌ湖畔」。ポエッシー画廊に「ひとつの島」「古港」。サロン・ドートンヌに「ピレネー山麓」「堀割」「滞船」。日本人会・日本人画家展に「礼拝堂」。マントン画廊に「麓」。モンパルナス画廊に「ピレネー風景」出品。その他、「海浜天気予報台」「水門」「青衣の女」などを制作。夏、奇蹟の聖地として知られるルルドのカテドラルを訪ね、のちピレネーの山岳地帯を旅行する。この頃、描法がスーラに似ていると言われたが、スーラは、フランスでもまだ注目されていなかった。当時ルクサンブールにあった美術館を訪ね、そこにひっそり掛っていた「シルク」を観て初めてスーラを知ったが、スーラの科学的色彩の処理よりも、むしろその造形的秩序をもった画面構成に啓発される。また、オザンファン、ジャッヌレ共著の“La Peniture Moderne”からも大いに学ぶところがあった。昭和3年 サロン・ドートンヌに「雪」「滞船」出品。その他「街道」「町役場」「海」「海洋信号所」などを制作。4月、12 Rue Mouton-Duvernet に移る。パリに来てから数年後、斎藤豊作と出会い、その他、この先輩画家の知遇をうけ、サルト県リュッシュ・プランジュ村のベンベルの古城と呼ばれる斎藤家のシャトーに度々招かれ、制作に時を過す。また、パリ滞在中は、ボナアル、ラプラード、ザッキン、マルケ、ピエル・ロワなどと交わり、ことに同年輩のシャルル・ヴァルシュとは親しかった。昭和4年 ベルギー、ブラッセルにおける日本人画家展に“Port” “Sous la neige” 出品。サロン・デ・チュイルリイに「燈台」出品。その他、「海辺風景」「波止場」「入り江」などを制作。この頃から、過労がもとで心臓を悪くする。心臓病の権威フィッシンガー博士の診察をうけたところ、心身の休養のためにしばらく制作をやすめて、ボート漕ぎとか釣りとか、軽い運動をすすめられ、釣りを選ぶ。昭和5年 サロン・ドートンヌに「雪」「窓」出品。サロン・デ・チュイルリイに「燈台」「雪の信号台」出品。その他、「村役場」「波止場」「滞船」など。前年の暮から三月迄、南仏のヴァンスに滞在。昭和6年 「信号台」「燈台」「城」「風景」制作。7月、ブルターニュ、トレブールに7、8の2カ月滞在制作する。昭和7年 コレット・ヴェイユ画廊に「小学校」出品。昭和8年 サロン・ドーロンヌに「街の一隅」出品。その他、「セーヌ河畔」など。昭和9年 モンパルナス画廊に「橋」出品。昭和10年 サロン・デ・ザンデパンダンに「花屋にて」。サロン・ドートンヌに「積雪」出品。ブルターニュの北、トレガステルの海辺に1カ月滞在、制作に没頭。昭和11年 ル・ニヴォ画廊に「魚貝の図」「静物(花)」出品。昭和12年 サロン・ドートンヌに「寺院」その他出品。シャルパンティエ画廊に「礼拝堂」出品。その他「窓」など制作。昭和13年 ベルネム・ジュン画廊における日本人展覧会に「聖堂」「南方街道」出品。昭和14年 シャルパンティエ画廊の第11回在パリ日本美術家協会展に「花」「魚」出品。その他「廃墟」など制作。9月、第2次世界大戦勃発のため、海外日本人引揚船となった日本郵船鹿島丸になかば強制的に乗船させられ、菊池一雄、高田力蔵、田近憲三、中村光夫、宮本三郎、角浩など、多くの在仏作家とともに、英国、米国を経由、3カ月を要して帰国した。帰国の船中、9月23日、師岡田三郎助の訃報に接す。12月、帰国。東京都大田区田園調布の両親の家に落着く。昭和15年 4月、春陽会に会員として招かれ、18回展に「堀割(サン・ドニ)」「町役場(モレエ)」「波止場(ブルターニュ)」「村役場(ノルマンディ)」「礼拝堂(モンタルジス)」「聖堂(ラオン)」「南方街道(バイヨン)」「廃墟(ミディ)」「魚」「花」の滞欧作12点を発表した。昭和16年 4月、春陽会19回展に「庭」「富士山麓水源地」「寺院(パリ郊外)」「パリ郊外」。11月、春陽会第1回秋期展に「風景」(滞仏作)出品。大田区田園調布にアトリエを新築する。昭和17年 4月、春陽会20回展に「花籠(1)」「花籠(2)」「城」出品。帰国後は日本の風景をモチーフを求め、日本庭園、農家、城などを描いたが、やがて信号台、燈台、発電所といった特殊の建築構造や、そこに漂うそれとなき生活環境の造形表現に興味を惹かれるようになった。昭和18年 4月、春陽会21回展に「村荘」「積雪」「街道」10月、第6回文展に「農家」出品。この頃、春陽会は文展に参加していたため、中川一政らと文展審査員として同展に参加出品した(官展出品は、この年のみ)。10月29日、父嘉太郎逝去。昭和19年 4月、春陽会22回展に「三色菫」出品。この頃から好んで三色菫(遊蝶花)を描きはじめる。昭和20年 戦況激化し、各展覧会はほとんど中止となる。友人の好意で信州伊那に疎開の場を用意してくれたが東京にとどまり周辺に落下する焼夷弾からアトリエを守ることに成功した。昭和21年 5月、春陽会23回展に「遊蝶花(1)」「遊蝶花(2)」「花籠」出品。昭和22年 2月、春陽会24回展に「風景」。5月、東京都美術館開館20周年現代美術展に「花籠」6月、第1回美術団体連合展に「河岸」出品。昭和23年 3月、春陽会25回展に「橋」「窓」。5月、第2回美術団体連合展に「水源地」出品。昭和24年 4月、春陽会26回展に「船」「窓」。5月、第3回美術団体連合展に「礼拝堂」出品。9月、著書『フランスの画家たち』(中央公論社)。フランス滞在中の親しかった人々、励ましてくれたり、学ぶべきことの多かった画家たちについて「みづゑ」誌上に掲載した原稿をまとめたもの。12月24日、母みね逝去。昭和25年 1月、読売新聞社主催、現代美術自選代表作15人展に11点出品。3月、第1回選抜秀作美術展に「礼拝堂」(前年の美術団体連合展出品作)出品。9月、著述「新印象主義並びにジョルジュ・スーラの絵画理論」(世界美術全集第24巻)(平凡社)昭和26年 4月、春陽会28回展に「燈台」「帆船」「観測所」。5月、第5回美術団体連合展に「遊蝶花」出品。昭和27年 1月、第3回選抜秀作美術展に「遊蝶花」出品。(前年の美術団体連合展出品作)4月、春陽会29回展に「水門」。5月、第1回日本国際美術展に「海辺の遊蝶花」出品。パリのサロン・ド・メエ外国部に出品招待を受け「工場」「廃墟」を出品。3月、前年第5回美術団体連合展出品の「遊蝶花」、その他に対し、芸能選奨文部大臣賞をうける。昭和28年 4月、春陽会30回展「燈台」。5月、第2回日本国際美術展に、「礼拝堂」出品。2月28日、木下正男と渡仏。引揚船で帰国以来13年振りでパリの土を踏む。パリでは、戦後はじめてフジタに再会、互に無事を喜ぶ。音楽会を楽しむ他、ピアフなどの新しいシャンソン、ローラン・プティの斬新なバレー“狼”の演出をみて、その独自性に目をみはる。また、ポール・クローデルの詩によるオネゲルの曲「火刑台場のジャンヌ」がオラトリオ形式で上演されたのを初めて観てとくに深い感銘をうけた。4月、オランダに旅行、アムステルダムの美術館でレムブラントなどを見るが、フェルメールの数点はとくに深く心を惹かれた。ハーグのゴッホ展などを見てパリに戻り、ロワールの一群の古城を訪れ、南仏でしばらく制作する。次で、アンチーブのピカソの美術館に行く。古城の内部を近代風に造り変え、明るく清潔な室内に置かれた作品は、アンチーブ時代のピカソの、楽しい生活を思う存分さらけ出したものばかりで観る眼にも快かった。4月28日、帰国。10月、著書『油絵のマティエール』(美術出版社)出版。数年にわたって「美術手帖」に連載した原稿をまとめたもの。昭和29年 1月、第5回選抜秀作美術展に「燈台」(前年春陽会展出品作)出品。3月、銀座兜屋画廊で最初の個展「岡鹿之助滞欧作展」を開き、前年(28年)の渡仏による作品、並びに第1回渡仏中の作品で未発表の小品を品する。「壊されなかった礼拝堂」「三色スミレ(A)」「三色スミレ(B)」「とんねる」「寺院」「礼拝堂」「工場」「廃墟の丘」「貯水池」「聖堂」「燈台」他出品。1月、留学時代から興味をもって調べていたアンリ・ルッソーについての覚え書きをまとめ「みづゑ」(1月号)の特集号として発表する(序説・滝口修造)。2月、美術出版社から画集『S・OKA』(岡鹿之助論・滝口修造)出版。昭和30年 1月、第6回選抜秀作美術展に「壊されなかった礼拝堂」(前年バラ会出品作)4月、春陽会32回展に「祝いの花籠」。5月、第3回日本国際美術展に「捧げるもの」出品。7月、リトグラフ「梟」多色摺・私家版。8月、「観測所」多色摺・明治書房出版。昭和31年 1月、第7回選抜秀作美術展に「捧げるもの」(前年日本国際美術展出品作)4月、春陽会第33回展に「並木」。4―5月、神奈川県立近代美術館主催、「高畠達四郎・岡鹿之助2人展」に60点出品。5月、第2回現代日本美術展に「雪の発電所」出品。最優秀賞をうける。7月、リトグラフ「蛾」単色摺・春陽会出版。長い間昵懇の病院長米山弥平博士に勧められて、ともに、雪の志賀高原裏山にジープを雇って発電所を見に行ったところ、山を背景とした発電所の現実の風景が、すでに自分の構想の中にあった発電所のコンポジションとあまりにも似ているのに驚き、この雪の発電所の制作となった。3月、著書『ルソー』(原色版美術ライブラリー)みすず書房出版。昭和32年 1月、第8回選抜秀作美術展に「雪の発電所」(前年現代日本美術展出品作)4月、春陽会34回展に「山麓」。5月、第4回日本国際美術展に「村荘」出品。7月、リトグラフ「雨やどりする鳥」単色摺・美術出版社版画友の会出版。1月、第2回現代日本美術展出品の「雪の発電所」により毎日美術賞をうける。盛岡地方及び発電所の多い信州上田附近に旅行し、そこで得たモティーフから「山麓」を制作する。7月、画集『岡鹿之助』(日本百選画集)美術書院出版。昭和33年 1月、第9回選抜秀作美術展に「雪の牧場」(前年雨晴会出品作)4月、春陽会35回展に「花」。5月、第3回現代日本美術展に「丘陵」、また同展に、毎日グランプリ作家展として旧作6点出品。5月、著書『スーラ』みすず書房出版。昭和35年 1月、第10回選抜秀作美術展に「献花」(前年春陽会展出品作)出品。2月28日、山本丘人とともに渡仏、山本丘人の希望で神戸から海路により、4月6日パリ着。しばらく共にパリでの生活を送るが、丘人がイタリアへ発った後、かねてより招かれていた斎藤豊作遺族のソードルヴィルの古城に落着く。5月16日からポワチエ地方へ旅行、中世の寺々を訪ね、中でもタヴァンの壁画に興味をそそられる。しかし、この間にみるべき作品は殆ど出来ず、心身の疲労も著しい。ロワールの古城やシャルトルを訪ね、パリに戻る。10月、パリ来訪中の今泉篤男に、気分転換のためにと、イタリア旅行に誘われ、22日から11月4日まで旅行する。イタリアでは、ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ラヴェンナ、パドヴァ、その他を訪れ、アレッツオのピエロ・デルラ・フランチェスカの壁画、ラヴェンナのサン・ヴィターレのモザイクに惹かれ、また、チマブエなどの作品に深い感銘をうけた。アッシジのジョットの壁画を再見して、パリに戻る。昭和35年 帰国迄の3カ年をパリ郊外に居住。4月上旬、山岳地帯マシッフ・サントラルを通ってカマルグ地方に旅行する。霞ヶ浦を幾十倍かしたような荒漠とした大湿地帯で、渡り鳥の生息地として有名な所である。この荒涼とした、風景の中で半月ほど過し、心身の休養をとる。8月、友人の村山密(春陽会会員)とブルターニュの僻村コーレルで、カトリックの司祭ギヨオム・ル・カン氏の家の1室を借りうけて宗教的雰囲気の中で静かなひと夏を過す。11月、ブルゴーニュ地方に旅行。ヴェズレーのサン・ヴェルナール寺を訪ね、数世紀の風雨に晒された石造りの寺の石の魅力に、茫然とする。昭和36年 6月、グレゴリオ聖歌が今日最も正しい形で残っているといわれる、ソーレムのサン・ピエール修道院を訪ねる。大勢の剃髪した修道士たちの合唱するグレゴリオ聖歌を聞き、深い感動をうけ、数日間滞在してミサを聞きに通った。11月パリより帰国。昭和37年 4月、春陽会39回展に「望楼」「群落(雪)」「粉ひき場」。5月、第5回現代日本美術展に「群落(B)」「群落(A)」(東京国立近代美術館買上)10月、第1回国際形象展に同人として参加「群落」「ファサード」出品。昭和38年 1月、第14回選抜秀作美術展に「群落(雪)」(前年春陽会出品作)。4月、春陽会40回展に「林」出品。4月末―5月、日本経済新聞社主催「岡鹿之助展」(於日本橋白木屋)開催。約50点出品。5月、第7回日本国際美術展に「たき火」。7月、朝日新聞社・日中文化交流協会主催の、北京、上海における日本油絵展に「ファサード」出品。昭和39年 4月、春陽会41回展に「無線中継所」。5月、第6回現代日本美術展に「献花」出品。昨年の日本経済新聞社主催「岡鹿之助展」の作品並びに多年に亘る業績に対し、日本芸術院賞をうける。8月、リトグラフ「魚」、「巣」単色摺・画集9月30日、渡仏。12月26日、パウル・クレーの作品をみるためにスイスへ旅行、バーゼル及びベルンの美術館をたずねる。昭和40年 10月、第4回国際形象展に「群落(廃墟のある)」「砦」出品。前年末よりスイスに滞在、正月1日は美術館が休みなので雪の山と湖を見物。昭和41年 4月、春陽会43回展に「僧院」。5月、第7回現代日本美術展に「花と廃墟」。10月、第5回国際形象展に「献花」「城」出品。昭和42年 4月、春陽会44回展に「燈台」。5月、第9回日本国際美術展に「雪の無線中継所」。11月、第6回国際形象展に「運河」「城」出品。毎日新聞社主催「岡鹿之助展」(渋谷東急本店)に近作を含めた97点展観。昭和43年 3月、毎日新聞社主催、「岡鹿之助展」(大阪大丸店)4月、春陽会45回展に「水辺の城」。10月、第7回国際形象展に「献花」出品。東京渋谷、吹田貿易株式会社ロビーの大理石モザイク壁画、銀座資生堂のタピスリーの下絵制作。昭和44年 1月、日本芸術院会員となる。4月、春陽会46回展に「雪」出品。5月、渡仏。6月に春陽会の山崎貴夫とラヴァルのペリーヌを訪れ、芝生と花で囲まれたアンリ・ルソオの墓に詣でる。7月、ソーレムのサン・ピエール修道院を訪ね、再び、グレゴリオ聖歌をきく。9月、心臓強化のため医者にかかったが、服用していた薬の副作用で紫斑病にかかり、フォッシュ病院に数日入院する。10月、帰国。著書『ジョルジュ・スーラ』(ファブリ世界名画全集)平凡社出版。昭和45年 4月、春陽会47回展に「朝の城」。10月、第9回国際形象展に「礼拝堂」「古城」出品。昭和46年 4月、春陽会48回展に「献花」。9月、第10回国際形象展に「古い城」「ラヴァルの城」出品。著書『ルソー』(ファブリ世界名画全集)平凡社出版。昭和47年 4月、春陽会49回展に「村の発電所」出品。京都、吹田貿易株式会社ロビーのモザイク壁画の下絵制作。11月、文化勲章を受ける。昭和48年 4月、春陽会50回展に「森の館」。9月、第12回国際形象展に「燈台」出品。9月、講談社より画集『岡鹿之助』(日本の名画)出版。昭和49年 4月、春陽会51回展に「館」出品。5月、東京毎日新聞社主催、「岡鹿之助展」(東京渋谷、東急百貨店本店)6月、大阪毎日新聞社主催、「岡鹿之助展」(大阪梅田、阪急百貨店)東京展とは別個に同じような企画で開催された。いずれも、初期から近年までの作品、90余点を展観。5月、リトグラフ「粉挽場」多色摺・『岡鹿之助作品集』(美術出版社)特製本収録。6月14日、今泉篤男と渡仏。同氏のすすめでリトグラフ7点(葡萄1、西洋梨、フレマチス、鳥の巣、梟、葡萄2、三色菫)をアトリエ Guillard Gourdon et Cie で制作する。心不全の発作によってしばらく休養ののち、7月11日帰国する。昭和50年 4月、春陽会53回展に「城跡」。10月、第13回国際形象展に「岬」出品。昭和51年 4月、春陽会53回展に「城」出品。昭和51年 4月、春陽会54回展に「雪の庁舎」出品。昭和53年 4月、春陽会55回展に「段丘」を出品。同月28日午前11時、心筋硬ソクによる心不全のため、東京都大田区田園調布中央病院分室で死去した。告別式は5月7日、東京・青山斎場において春陽会葬として行われた。(本年譜は、『岡鹿之助画集』収録の岡畏三郎編年譜より再録、一部追記したものである)

伊川鷹治

春陽会会員の洋画家、伊川鷹治は、11月28日午前零時、皮膚ガンのため東京・築地の国立ガンセンターで死去した。享年72歳。伊川鷹治は、明治31年(1898)12月28日、長野県小県郡に生まれ、中学校を卒業後、大正6年(1917)上京して赤坂葵橋の白馬会洋画研究所に入所して5年間黒田清輝に師事し、その後、白滝幾之助、山形鼎らの指導をうけた。昭和5年(1930)春陽会8回展に「あんこうなど」が初入選、以後同会展毎回出品、昭和11年(1936)から木村荘八、中川一政らの指導をうけ、昭和18年同会18回展に「文楽人形」「花」「風景」「魚貝」を出品、春陽会賞をうけ、翌19年「文楽の楽屋」「風景」などによって春陽会会友に推された。一方、昭和7年(1932)、銀座資生堂において第1回個展、以後、昭和23年までに5回同所において個展を開催した。昭和23年(1948)春陽会会員に推挙され、美術団体連合展などにも出品した。主要作品に、上記のもののほか、「秋庭」「馬込別れ坂」「菜園の秋」(昭和23)、「春の庭」(昭和23)、「桜行く頃」(昭和24)などがある。

石井彌一郎

太平洋美術会評議委員の石井弥一郎は、9月1日胃ガンのため死去した。享年74歳。明治31年5月6日山形県庄内の郵便局の家に生れた。少年の頃、その村で早くに亡くなった松田修造という洋画家の作品をみて、つよく洋画にひかれ、酒田市の商業学校を卒業すると実業への道を歩まずに、大正5年夢を抱いて上京、まず川端画学校で手ほどきを受け、続いて太平洋画会研究所に移って勉励した。その後、前田寛治の“写実”に共鳴してその研究所に学んだ。10余年に及ぶ長い洋画の基礎勉強にも漸く得心したのだろう、昭和5年の初頭から公募展への実力試しが堰を切るかのように始められた。第5回1930年展(1.17-31)第7回槐樹社展(2.26-3.14)、第2回第一美術協会展(5.18-6.5)に搬入、それぞれ入選して自信を強めた。昭和8年春陽会第12回展から同会に所属、第25回展(昭和21年)まで連続作品を発表した。その間、中川一政に知遇を得、師事した。昭和8年頃から数年、京都・大谷大学美術部に迎えられ講師をつとめ、その京都時代には、関西での有力な公募展に出品した。新興美術協会第3回展出品受賞(昭9・1月)・同第4回展出品大阪毎日新聞社賞・同第5回展(昭11)出品、京都市美術展第1回展出品受賞(昭10・5月、受賞作「黄檗山禅悦堂」は京都市美術館所蔵となる)、春陽会系-樹社展会員出品(昭10・11月、京都朝日会館)などの活躍がみられる。昭和11年にはフランス、イタリアへ美術研究に遊学、その帰朝後の収穫は、京都市社会教育課の後援で「仏伊スケッチ展」を京都大丸にて開催、翌12年には、「滞欧洋画展」(2月11日-19日、大阪・阪急百貨店)、「滞欧洋画小品展」(4月3日-9日、東京銀座・森永)で披露した。戦後は専ら個展発表に意欲をもやし、昭和21年に日本橋白木屋での個展開催以来、46年10月の日本橋丸善での開催に至るまで、なお戦中5回の個展を加えると、実に連年30余回の開催を重ねており、一方昭和25年太平洋画会評議委員に推され、この展覧会での毎年の出品も終始おこたらず、その旺盛な作画努力と発表意欲には特筆に価するところがあった。晩年の作風は、自分が気にいる日本特有の風景や風物を対象に、止むに止まれぬ衝動をぶっつけて、きれい事を回避した生動感みなぎる制作に深まりをみせ、心ある識者に注目されたいた。『石井弥一郎画集』(昭和47年9月30日、三彩社発行)に詳しい。

足立源一郎

春陽会会員、日本山岳協会会員であった洋画家の足立源一郎は、3月31日午前1時45分、胃ガンと老衰のため鎌倉市の自宅で死去した。享年83歳であった。足立源一郎は、明治22年(1889)7月8日、大阪市、南船場の一角にある石油商の家に生れた。父弥助、母浅野。明治37年第一高等小学校を卒業すると道修町の絵具屋(薬種問屋か?)に丁稚奉公にだされたが、翌年父の急死にあい、その年京都市美術工芸学校に入学した。明治39年、京都岡崎に関西美術院が開設され、それにも出席し浅井忠、鹿子木孟郎らの指導をうける。明治40年には上京して太平洋画会研究所に入り、柚木久太のすすめで大正3年(1914)渡欧し、パリにあってグラン・ショミエール、アカデミー・ランソンに通う。第1次世界大戦に遭遇するがリヨンや南仏に難をさけ、大正7年(1918)ロンドンを発って帰国した。ロンドン滞在中には松方コレクションの蒐集に尽力している。帰国後は、院展洋画部に出品して同人となり、さらに春陽会創立に参加、以後終始、春陽会展を中心に作品を発表したが、大正12-15(1923-26)第二回滞欧、昭和11年(1936)日本山岳画協会創立、同13年、14年、15年と毎年、中国、旧満州、朝鮮に写生旅行、同19年にも中国、朝鮮に旅行した。日本国内も各地に写生旅行し、後半期は山岳風景の画家として知られた。 略年譜明治22年(1889) 7月8日父弥助、母浅野の四男として大阪に生る。明治28年 足立弥助願念寺本堂に須弥壇寄進明治32年 大阪市立久宝小学校より東区立第一高等小学校に進む。明治37年 第一高等小学校を卒業し絵具屋に奉公す。明治38年 1月12日、弥助死亡。4月、京都市美術工芸学校入学。11月、褒状二等「洋食器」。秋期修学旅行で伊勢方面に行く。同輩に奥村林暁、加井民次郎など。明治39年 3月2日、京都岡崎に関西美術院開設、そちらにも出席、先輩に安井曾太郎、梅原良三郎など。同輩に黒田重太郎など。夏、富士山に登り箱根、伊豆を巡る。垂水海岸に滞在。明治38-39年、京都市美工校の写生、採点あるもの20数点あり。明治40年 殆んど関西美術院に移る。12月16日、浅井忠没。明治39年、40年の京都及び大阪の鉛筆デッサン多数。明治41年 上京し太平洋画会研究所に学ぶ。明治42年 徴兵検査の為大阪へ還る。同行奥村。中仙道をへて伊香保、安中、妙義を訪れ、木曾街道をたどる。明治41年-大正3年の間の消息殆んど不明。白馬会研究所や美校にも研究に通った。九段の暁星へフランス語及び会話の勉強に通う。この間の友人に奥瀬英三、金山平三、柚木久太、大久保作二郎、若山為三、鍋井克之等がある。房州、箱根、伊豆半島、伊豆七島、高野山、紀州、瀬戸内海等へ足を運んだ。大正3年 柚木久太、金山平三らのすすめにより柚木久太をたよって渡仏する。4月、パリ着、ホテル・オデッサに泊まる。後シテ・ファルギェールに移る。グラン・ショミエール、アカデミー・ランソンなどに学ぶ。オーヴェル・シュール・オワーズにガッシェを尋ねる。ベルリッツに通いノイローゼ気味となり、プルターニュへ旅行する。フイニステル地方に迄足を伸ばし、モエラン、ケルゴエ、ル・プールデユを訪れる。7月28日、第1次欧州戦争始まる。8月上旬、リモージュへ疎開する。島崎藤村、柚木、金山、正宗得三郎と同行。2週間で帰国の為リヨンへ向う。10月11日、……リオンの足立より手紙にも絵具を注文あり……(『懐中日記』、川島理一郎)、11月、パリへ戻る。大正4年 パリ滞在。7月、ブルターニュへ行く。パンポール、イル・ブレア等。森田恒友同行。鹿子木孟郎渡仏。大正5年 4月11日、願念寺鐘楼献堂供養。春、サヴォアに写生行。夏、チュルサックに滞在。コント・フルールの城館に泊る。プレ・イストリックの遺跡研究に過す。大正6年 1月、黒田重太郎パリ着。2月上旬、イタリア旅行に発つ。2月17日、サヴォアよりトリノへ。2月18日、トリノよりジェノヴァ着。3月8日、アマルフイ。3月17日、ペスタムにギリシア遺跡を訪う。3月18日、ナポリ滞在1週間目となる。3月18日、ローマ着。3月20日、アツシジ。3月21日、ペルージヤ。3月22日~25日。フィレンツェ滞在。4月3日、再びローマよりナポリへ。5月上旬、ニースを経てパリへ戻る。大正7年 4月、帰国の為ロンドンに向う。同行黒田重太郎。ロンドンで船待ち中に赤沼智善、山辺視学を知る。第1次松方コレクションの選択にたづさわる。5月中旬、ロンドンを発ちプリマスに向う。6月15日頃、船団出港。ケープ・タウン、マダガスカル経由日本へ向かう。因幡丸、8月20日上海に向け香港を発つ。大正8年 春、奈良へ移る。第1日曜写生会始まる。4~5月、第1回自由展覧会、於大阪天王寺美術館。主な出品者、浜田葆光、赤松鱗作、住田良三、普門暁、古谷新、藤堂杢三郎、林重義、向井潤吉、鶴丸梅太郎、小沢、安田、青木大乗、岩佐なら、他。9月12日~19日第6回日本美術院展出品、計20点。青き眼の女、アルプ・マリチームの風景、ニース郊外、ひじを突く女、登り道、チューリップ、風景、ブロドウス、ナチュールモルト、眼を粧う女、カーニュの村、冬の午前、アプレミディ、カーニュの冬、アルプ・マリチーム、女の習作、ビーボアン、オリビエの村、画家像、イルルブレアの夏。9月、足立源一郎を挙げて同人となす。(日本美術院)大正9年 7月17日~19日、足立源一郎小品展、大阪資生堂階上にて。ベトイユの春、村、セーヌ河岸、ムードンの冬、アブニュー・ド・ブルトゥイ、コロンブの運河、ポン・ヌーフ、サヴォアの夏、郵便局、モンマルトル、サンクルーの秋、パリ南郊の秋、ヴェルサイユの庭、春秋(ブルターニュ)サンクロア村、地中海岸、クアルチエ・オートイユ、プラス・ド・ラ・コンコルド、ドルドーニュ、トリノの冬、アルノ河岸、アルバノ村、アルバノ湖、カステル・サンテルモ(ナポリ)、ソレント街道、プラツア・サンタ・カテリナ、オリーブ園、カーニュ早春、静物、奈良。9月1~29日、第7回日本美術院展。首里早春、日盛り、静物、画家像、真玉橋、カクス・ノアール、佐渡山殿内、アトリエの午後、沖縄風景、南島冬雨、ポロネーズ、画家像。同年、徳川頼寧婦人像、静物(ケシ)他。「三代家死没の巴里美術界」(中央美術9月号)。大正10年 翻訳『ドオミエ』(日本美術学院)。翻訳「クロード・モネを訪う」マルセル・ペイ。(中央美術6月号)大正11年 1月14日、春陽会創立初顔合せ。於本郷燕楽軒、小杉未醒、森田恒友、長谷川昇、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎、梅原良三郎以上会員、岸田劉生、萬鉄五郎、木村荘八、中川一政、椿貞雄、今関啓二、石井鶴三、山崎省三、以上会友。11月、農商務省、並に文部省、欧州工芸視察練習生。同年、那智枝と結婚(旧姓安本)。翻訳「オーエル時代のセザンヌ」、「巴里に於けるセザンヌとの交遊」、「セザンヌが画家になる迄」。ギュスターブ・コキオ著、(中央美術)。著書、『人物画を描く人へ』(日本美術学院)。大正12年 2月16日、農民美術基金集めに山本を同道し岸本吉左衛門を訪問。2月、神戸解纜、第2回渡仏。4月、パリ着、ソメラールのパンションに入る。後ヴィラ・デ・カメリヤへ移る。5月4~27日、春陽会第1回絵画展覧会於竹の台陳列館。静物(けし)、母の像、静物(さざんか)、あねもねの花、高畑の冬、風景。9月、東欧の農民美術調査の途次ウィーンにて関東大震災を知りパリへ戻る。同行岸本彦衛。12月~24年2月、クロ・ド・カーニュに避寒。12月24日、クロ・ド・カーニュ。古美術行脚『大和』刊行。辰巳利文、小島貞三著、アルス刊。大正13年 春、ルーブル美術館にて「キリスト降誕」ルイニ作模写、3ヶ月を要す。アトリエにて裸婦其の他。12月~25年春イタリア旅行。10月25日、グリンデルワルト。パテ・ベビー1式購入、製作は昭和9年頃迄続いた。大正14年 3月7~29日、第3回陽春会展、裸体。人物。夏、帰国。10月頃、九科会発足。著書『ルウッソオ』アルス刊。ヴアン・エイク以前のアギニヨン派絵画、(アトリエ 1~3月号)。大正15年 2月16~3月20日、春陽会第4回展、闘牛の男、浴後、ブルターニュ風景、水辺の女。5月13日、母浅野死亡。著書他、『ポンペイ壁画集』アトリエ社。「ぽーる・フエルジナン・ガッシュ」(アトリエ 1~5月号)。昭和2年 正月、東京府下荏原郡へ移る。春より自由学園へ美術の講義にゆき始む。意匠部を指導23年迄つづく。4月22日~5月15日、春陽会第5回展覧会、於東京府美術館。奈良の雪、夏の草花、うゐーとみもざ、けし、雑草とひなげし。『世界美術全集』委員 平凡社刊 昭和5年迄。昭和3年 4月27日~5月14日、春陽会第6回展。奈良新緑、春日山。この年房州へ写生行?、著書『現代西欧図案集』宝文館。昭和4年 4月27日~5月15日、春陽会第7回展。尾瀬沼小品(1)、(2)、肖像、会津燧岳、御宿風景。陽春会事務局を小杉方より移す。自由学園第7回美術展。第1回工芸展。風俗人形、臘染、手織等指導。昭和5年 4月23日~5月14日、春陽会第8回展、焼嶽、穂高嶽新雪、上高地初秋、窓辺、時雨、秋霽れ、秋の朝、小梨平初夏、上高知初夏、五月雨るる穂高。4月自由学園創立十周年記念美術工芸展の準備のため、ニュージーランド文様及び高山植物をテーマとして生徒の制作を指導。この年劔岳、他。昭和6年 4月11日~5月3日、春陽会第9回展。八ヶ嶽遠望、甲斐路の春(1)、(2)、穂高残雪、五月雨、常念小舎より、新緑。第1回新興美術展(企画実施)於大阪。自由学園工芸研究所設立。現在(昭和49年)に致る迄不変の需要ある「コルクの積木」は足立の発案、煉瓦をモデュールとした寸法である。この年家形山スキー行他。著書『技法研究洋画基礎』宝文館。『自由学園工芸図案集』自由学園工芸部。『技法研究風景』宝文館。昭和7年 春陽会第10回展。雨後の高瀬入、白馬嶽遠望、針の木遠望、雪景、高原散策、曙、仙丈岳、初秋の劔嶽、仙水峠の春。5月、尾瀬沼行、森田が国立公園協会(内務省管轄)の依頼で尾瀬沼を描くことになり同行した。夏、大東京市発足により東京市大森区となる。この年乗鞍嶽写生行、他。著書、セザンヌ大画集第2巻『人物』アトリエ社。「山の写生『山岳講座』第5巻255~315頁、共立出版。昭和8年 春陽会第11回展。ばら(一)、(二)、飛騨の秋、会津燧岳、尾瀬沼解氷、春、解氷期の南アルプス縦走。七月、北海道行き。秋、自由学園第1回工芸展、於大阪三越。足立の指導により1年の準備期間をかけて開催されたが、入場者は2万人を越した。昭和9年 4月、自由学園工芸研究展、於三越本店。4月22日~5月13日、春陽会第12回展。後立山の春、花、白馬連峰。6月、日本山岳会々員となる。推薦者、茨木猪之吉、中原万次郎。後、陶器に依る日本山岳会の略章をデザインす(現行)。6月12日~17日、山の絵展覧会、於日本橋高島美術部。針の木岳遠望、湖畔新緑等、計60点。7月上旬、西黒沢、白鷺の池、写生行。7月24日~29日、乗鞍岳写生行。8月13日~22日、水昌小屋中心に写生行。9月12日、この近辺奧穂高岳写生行。10月27日~30日、裏妙義写生行。11月、自由学園工芸研究所第2回工芸展。於東京・大阪三越。12月4日~9日、高山より乗鞍岳写生行。同行藤木九三。右以外、冬期五色温泉、冬期雲竜峡(日光)、菅平(自由学園O・Bと共に)ら写生行。昭和10年 4月28日~5月20日、春陽会第13回展。鳥帽子嶽、石楠花、西鎌尾根、F氏像、東沢の夕。六月。日光湯の湖近辺写生行。他に乗鞍岳、甲州、劔嶽写生行。昭和11年 3月、日本山岳画協創立。A・A・A(Association des Artistes Alpins)。会員、足立源一郎。茨木猪之吉、石井鶴三、丸山晩霞、中村清太郎。4月。春陽会第14回展覧会。甲斐駒ヶ嶽。 劔嶽三趣(朝・昼・夕)、甲斐ヶ根の春。3月16日~5月17日、神戸商大山岳部に同行して台湾写生行。3月16日、神戸解纜。20日、台北。21日、東勢。22日、対劔美角、烏来。23日、ビスタン社・サラマオ峠。24日、シカヨウ社。25日、ヒマナン路26日、マクラハ渓。27日、ガンテリエ。28日、キレットイ、インタシンバジン。29日、南湖連峰幕営。30日、スムツタ。4月5日、ヤボラン断崖、プスラユ尾根。7日、大覇尖山の肩。8日、上テンシピヤナン鞍部。12日、土湯温泉。13日、羅東。15日、ラジオ放送「美化山東」。20日、新高山北峯。21日、日月潭。5月6日、漢水。16日、台南赤嶺楼泊。17日、平安。6月中旬~下旬、土佐、高松写生行。8~9月、阪大理工学部の為壁画2面。助手、佐藤他1名、目白、自由学園講堂にて製作。10月23日~26日頃、日本山岳画協会第1回旅行。木曾福島、藪原、小木曽、境峠、野麦峠。同行者、石井鶴三、茨木猪之吉、中村清太郎、計4名。他に乗鞍岳、志賀高原、上越、蔵王等写生行。昭和12年 4月11日~5月4日、春陽会第15回展覧会。霧巻くヤボラン山。春の新高南山。★萊主連峯、台北の娘、新高山主峯、南湖大山の朝、大覇尖山、新高山。次高山の北端。7月17日~月末、利尻島、礼文島、写生行。夏、小画室を箱根に設く。9月下旬、日光(小米平、曲り廊下入口、赤薙)写生行。10月25日~11月13日、阿蘇、霧島、雲仙写生行。11月25日、足立の指導による自由学園工芸研究所作品、布地15種、パリ万国博にて受賞。金牌、「山と波」タピスリ。他に銀牌、銅牌。穂高、志賀高原、霧ヶ峰、妙高、蔵王等、写生行。12月26日~1月7日、北海道スキー写生行。鯉川温泉→ニセコアンヌプリ→土狩→札幌→北見→上富良野→十勝吹上温泉→泥流→帰京。昭和13年 4月9~27日、春陽会第16回展覧会。雪の朝(十勝岳麓)、春畫、乗鞍岳と木曾御嶽、かぐろへる穂高。5月下旬→8月上旬、朝鮮北支写生行。5月19日、春陽会大阪展3日目、朝出発、夜9時興安丸乗船。20日、慶州。21日、金夷信墓、鮑石亭、他。22日、北州河原。23日、仏国寺。24日、慶州、夜京城に向う。27日、京城発内金剛に向う。28日、摩訶衍。29日、迦葉洞。30日、玉女峯。31日、朝陽瀑。6月2日、昆廬峯。3日、動石洞。4日、神渓寺より温井里。5日、極楽峴。6日、薬柳相。7日、海金剛より京域。19日、羽仁もと子より北京生活学校について相談をうけ、北京行を依頼され承諾する。20日、水原。7月3日迄京城。7月17日、奉天、北陵其の他。19日、北京・天壇、北海公園。22日、大同日之出屋泊、雲崗鎮。24日厚和。26日、北京南海公園。8月2日迄北京にて生活学校指導。9月28日。夜大阪発。30日、小倉、夜興安丸乗船。10月4日、正陽寺。10月5日、弥勒峯、中内院、温井里。5日以後海金剛。17日、関城。11月上旬帰京。12月20日頃八ヶ岳山麓写生行。12月27日~1月3日、蔵王高湯写生行。同行袋一平。他に志賀高原、上越、信夫高湯方面等、写生行。昭和14年 4月23日~5月14日、春陽会第17回展覧会。谷川岳カタズミ尾根、市の倉沢、大同石仏第20窟、大同石仏第17窟、大同石仏第3窟、大同石仏第20窟、大同石仏寺、夏の北京。4月、倉田白羊追悼講演会、並に遺作展に出席、信州上田。4月24日~7月下旬、満州北支写生行。4月24日夜東京発、滞阪。28日、のぞみにて京城着、半島ホテル。29日、茨木猪之吉に会う。30日、李王職美術館。午後発、5月1日、奉天。2日、鞍山。4日、遼陽。5日、海城。7日、廟台無量観に泊。8日龍泉寺。20日、ハトにて新京へ。21日、吉林。24日迄吉林。25日、新京経由哈爾賓へ。30日迄哈爾賓。28日、泉靖一他1名の慰問に当る。29日、山下一夫、西島と太陽島に遊ぶ。6月3日迄佳木斯。3日、牡丹江着。4日、綏芬河、立上秀二に会う。愛河にて下車、小杉二郎(放庵二男)を井上芳部隊に慰問。5日、ハルピンに戻る。6日、哈爾賓を発つ。17日~19日、承徳。21日、古北口站。23日~26日、北京。27日、青竜橋。28日~9日、大同。7月1日、張家口。下旬帰京。日時不詳。乗鞍岳、八ヶ岳、甲州、上高地、安曇野、野尻湖、尾瀬沼等写生行。足立の指導に依り自由学園工芸研究所が1年掛りでニューヨーク・サンフランシスコ万国博のため制作した壁掛、希望の曙を現す「東亜の黎明」はニューヨーク市の永久保存品に指定された。12月28日~1月5日、大島式根島写生行。日時不詳。3月中旬、遠見尾根より五竜岳、拇池、八方尾根、志賀草津、他写生行。著書『山に描く』古今書院。昭和15年 4月8日~17日、春陽会第18回展覧会、北京風景(北海公園)、北京好日、春の五竜岳。5月2日~6日、山嶽画展、銀座、青樹社。上高地新秋、朝霧、他計24点。8月5日~9日、山嶽画展。大阪・東・道修町青樹社支店。甲斐駒岳、小梨咲く上高地、他計15点。8月31日~10月中旬、満州写生行。8月31日、神戸より扶桑丸乗船。9月3日、大連着。5日、鞍山着、箱崎、津田治七。6日、奉天、ヤマトホテル泊。7日、「大陸」にて錦県着。8日、北鎮。11日、北鎮発医巫閭山。12日閭山。14日、金州城。15日、東京城、義県、鏡泊湖。11月下旬、赤城、榛名写生行。秋、第4回文部省美術展覧会。紀元2600年記念に聖峯試練を出品。日時不詳。蔵王、大和路他。自由学園工芸研究所、作品を輸出工芸新興展に出品。織物ベットカバー、1等賞、和紙★纈染、3等賞。著書『人物画の描き方』崇文堂。此の年文部省買上げ作品あり。昭和16年 1月20日頃、蔵王写生行。4月12日~25日、春陽会第19回展覧会。穂高3題(冬、初冬、新秋)、蔵王樹氷。4月下旬、庄内、羽前写生行。5月下旬、岩木山近辺写生行。6月上旬。千曲川水源方面写生。6月20日~24日、八甲田方面写生行。象潟鳥海山、等。7月6日~9日、山嶽画展覧会。日動画廊。槍穂高遠望20号、蔵王山の樹氷8号、穂高新緑15号、他計28点。7月下旬、紀伊写生行、大台ヶ原、有田、保田。8月5日~9日、8月5日、甲府にて清沢久吾に会う。6日、喜多恒雄を迎え夜叉神峠へ。8日、北岳頂上。9日、夜帰京。11月、7日(樽で手に入るのはこれが最後と思われるので)、太平山を山本の仲介で皆で飲む会。幹事、山本・足立、案内先、石井柏亭、長谷川昇、青山義雄、中川紀元、中村研一、中山魏、『山本鼎の手紙』380頁。11月9日、那智、南紀写生行。日時不詳、蔵王、朝日磐梯、甲州、上越へ写生行。昭和17年 1月17日前後、甲斐、佐久往還写生。2月、土佐写生行。3月中旬~4月中旬、内金剛、外金剛写生行。4月、春陽会第20回展覧会。吾妻高原、会津駒ヶ嶽、甲斐路早春、7月23日~8月7日、白頭山行。11月7~11日、第2回油絵山嶽展覧会、日動画廊、嶽麓初夏(吉田)15号、志賀高原の秋12号、他計35点。昭和18年 1月17日~23日、近作油絵展覧会。大阪・三越。霞む集仙峯、初夏の青木湖、他計20点。4月18日、春陽会第21回展覧会。粉雪降る丸池、霞む集仙峯、志賀高原笠ヶ嶽。4月、山本鼎春陽会に戻る。足立仲介。10月16日~20日、第6回文部省美術展覧会。委員、審査員、★巌霧湧出品。日時不詳、写生行。上高地穂高、甲斐路。昭和19年 3月24日、蘇州(26日迄)、夜水谷清、井出、大鹿。3月26日、上海へ戻る。4月9日、華翔号にて舟山列島に向う。10日、定海。11日、東嶽廟。12日、定海・中和里。13日、鎮家門。14日、普陀山島短姑街頭。15日、定海に戻る。16日、普陀山。17日、帰途。18日、朝上海。21日宜興。22日、十里長山。28日、蘇州。29日、常熟。5月6日、棲霞寺。7日、蕪湖、巣県。8日、巣県、合肥。10日、爐橋鎮。12日嘉善。4月7日~18日、春陽会第22回展覧会。出品作品無し。7月25日~8月19日、穂高写生行。7月25日、西穂独標。8月2日、前穂高岳。8月5日、西穂高岳。8月16日、西穂山荘。8月19日、ジヤンダルム。9月9日~10月下旬、北支行。9月9日、東京発。10日、下関ホテル泊、バスなし。11日、前7時、興安丸乗船、18時釜山着。12日、8時京城通過、18時鴨緑江。13日、13時05分、奉天通過、15時山海関、24時00分、北京着。勝直義、徳光出迎。14日~10月下旬、北京。15日、生活学校に羽仁氏を尋ぬ。16日、瑠璃廠同古堂にて斎白石に印を依頼。17日、三菱大倉と孔子廟、★和宮、等東北隅を巡る。21日防空演習ある由にて、在室作画。22日、徳光、一氏、王石之に会う。24日、中海公園の新聞学院、楠恭。25日、展覧会目録原稿を一氏へ、楠に会う。25日、飯山より鄭文公下碑拓本を求む。北京空襲。27日、大陸画報打合せ。10月5日~7日、北京飯店6階別室にて個展。12日、斎白石刻印出来。18日、羅城巡り。19日、広梁門。11日、帰国。著書『ヴアン・ゴッホ』アトリエ社。昭和20年 2月、箱根へ疎開。4月15日、空襲にて田園調布のアトリエ焼亡。パリ時代より戦時中に制作した一切の画布、スケッチ類、書籍を失う。春、箱根植物のデッサン。秋、別府、大分、臼杵方面。昭和21年 4月28日、水郷写生行。5月29日~6月6日、春陽会第23回展。作品なく出品せず。7月8日、上高地槍、穂高、写生行約10日。10月下旬から11月上旬、大和、紀伊方面。10月24日、有田、保田。26日~29日、熊野。27日、静。11月4日、中ノ坊(当麻)。日時不詳、第1回国民体育大会ポスター原画(油彩)。昭和22年 2月24日~3月7日、春陽会第24回展。槍ヶ岳二題、(霧、日暈)。3日~5日、北九州行。3月19日、小田原より上京、交通会社専門委員に出席、石川一郎、中村研一他に会う。夜行にて門司に向う。21日、門司着。22日、小倉にて月原俊二。4月5日~6日、和布刈。11日~18日、若松、下関。22日~5日福岡岩田屋にて個展。5月7日~10日、小倉市井筒屋にて個展、九重山4点、関門風景5点、信州山岳風景13点、富士2点、九州岳連、九州タイムズ。5月4日、講演会「近代美術の傾向」主催門司市基督教青年会。5月15日、由布院。7月、上高地、槍、穂高写生行。9月下旬~11月上旬、九州、屋久島方面。9月24日、九重、10月16日~28日、屋久島。11月16日、別府、阿蘇、竹田。日時不詳、梅雨明け頃?野麦峠、境峠、同行者、石井鶴三、茨木猪之吉、中村清太郎、計4名。昭和23年 3月31日~4月13日、春陽会第25会展。北鎌尾根の槍ヶ嶽。5月、唐津、菊地、鉾立峠、臼杵。6月7日、涸沢、穂高方面。10月11日、第3回国民体育大会記念九重登山を兼ね九州行、別府、九重、臼杵、耶馬渓他。日時不詳、八甲田山、十和田湖、志賀高原。昭和24年 3月15日~21日、加治木、霧島、高千穂。4月2日~7日、鹿児島桜島。4月1日~16日、春陽会第26回展覧会。或る朝の槍ヶ岳。7月8日、日本山岳画協会再出発打合せ会。連絡事務所、東京都大田区、日本山岳画協会仮事務所。通知発送先、足立源一郎、石川滋彦、高田誠、石井鶴三、宮坂勝、上田哲農、河越虎之進、中村清太郎、山川勇一郎、加藤水城、中村善策、山下品蔵、春日部たすく、奥田脩太郎、吉田博。7月上旬~8月上旬、横尾、涸沢、奧穂(重太郎小舎中心)。日時不詳、草津、志賀高原、上越、蔵王、乗鞍他。昭和25年 4月10日~26日、春陽会第27回展覧会。前穂高北尾根、北穂高岳南峰、横手山。5月、長崎滞在。夏、槍穂高。9月下旬~11月中旬、雲仙、長崎(附近)別府臼杵、邪馬渓。日時不詳、志賀高原、劔嶽立山、他。著書『山に描く』(再版)古今書院。昭和26年 春陽会第28回展覧会。朝の劔嶽。4月、湯檜曾、谷川岳。5月、谷川岳、天神小屋、12日、田尻尾根。夏奥穂高岳。日時不詳、劔立山、後立山。昭和27年 3月箱根。3月下旬、穴山、韮崎。4月18日~5月4日、春陽会第29回展覧会。劔嶽八ヶ峯、穂高滝谷の断壁(県立近代美術館蔵)、北穂高嶽南峯、5月、秩父、三峠。7日~8日、西穂高岳と奥穂高岳。9月中旬、谷川岳市の倉沢。9月23日~28日、第13回日本山岳画協会展覧会。於三越本店7階。穂高ツリ尾根、北穂高南峯、滝谷第5尾根の頭、春の槍ヶ岳、梓川。10月10日~15日、苅込湖他。12月下旬、土樽方面。日時不詳、谷川岳(数次)日光、尾瀬。昭和28年 1月29日、土樽方面。3月7日、越生梅林。3月22日、苗場小屋。23日、苗場ヒュッテ。24日、武能、マチガ沢の上。4月、春陽会第30回展覧会。北穂高第2尾根、滝谷ドーム北壁。6月、北海道。6日、阿寒湖、愛別岳比布岳(厚生省、国立公園協会所蔵)。7日~8日、前穂高嶽、奥又白。9月10日~15日、松原湖、稲子牧、佐久高原。10月13日~16日、清津峡、飯士山。11月11日~12日、石廊崎。日時不詳、八ヶ岳々麓、蔵王、志賀、上越。昭和29年 4月17日~5月2日、春陽会第31回展覧会。滝谷の岩壁、母子。4月28日、阿蘇。5月2日、傾山。5月28日、菊池水源発帰京。6月7日~11日、金精峠、湯の湖。7月10日~25日奥穂ジャングルム、滝谷。9月末初、日光。10月中旬、北穂滞在。日時不詳、上越、朝日磐梯、他。穂高、70号。歌舞伎座蔵。昭和30年 3月末、深大寺。4月17日~5月3日、春陽会第32回展。穂高稜線にて、5月中~下旬、西黒尾根、奥利根、マチガ沢。6月25日、法師。夏、北穂高岳、奥穂高岳。9月21日、御座石場。24日、鳳凰小屋。25日、北岳。10月野麦峠。日時不詳、上越、鳥海山、八幡平、他。昭和31年 3月、吾妻山、4月30日~5月6日、春陽会第33回展覧会。北穂高岳南峰、朝 雲。5月17日、夜叉神峠。5月23日、折平。7月、稲住温泉、秋の宮温泉、磐梯山。日時不詳、北穂高岳滞在、他多方面。著書『山は屋上より』朋文堂。昭和32年 4月18日~5月4日、春陽会第34回展覧会。穂高岳南峰、30号。6日、スケッチ展。於大阪大丸。7日~8日、涸沢、奥穂高岳、北穂高岳。9月17日~21日、個展。於日動画廊。日時不詳、夏北穂高岳滞在、他多方面。昭和33年 4月上旬、塩尻峠、美しヶ原。4月27日~5月13日、春陽会第35回展覧会。奥穂高岳と涸沢岳、25号。5月~8月、箱根に仮寓。8月、神奈川県鎌倉市に移る。7月~8月、奥穂高岳、北穂高岳。日時不詳、八ヶ岳々麓、他。昭和34年 4月22日~5月8日、春陽会第36回展覧会。奥穂高岳と涸沢岳 25号。7月~8月、北穂高岳、奥穂高岳。9月中旬、丹沢。日時不詳、上越、蔵王、他多方面。昭和35年 3月20日~30日、八ヶ岳山麓。4月22日~5月8日、春陽会第37回展覧会。穂高岳三題、滝谷ドーム、40P。第2尾根、25F、北穂高岳、30F。4月、谷川岳。日時不詳。夏、北穂高岳滞在。八ヶ岳、他多方面。昭和36年 4月17日、羽田発。7月帰国、渡欧。イール・ド・フランス、シヤモニ、ツエルマットを中心として写生。日時不詳、山行多数。昭和37年 4月22日~5月7日、春陽会第39回展覧会。モンブランの針峯群、エギュー・デュ・ドリュ。7月~8月、上高地槍穂高。日時不詳、上信、安中、伊豆。昭和38年 4月、春陽会第40回展覧会。ブラッテンの礼拝堂、シャモニーの針峯群。日時不詳、北アルプス滞在、甲州、上高地、他。昭和39年 4月22日~5月8日、春陽会第41回展覧会。北穂高岳。7月、双六方面、10日間以上雨。10月初旬、裏尾瀬。11月上中旬、新潟山岳会のメンバーと佐渡へ。11月、三浦崎。日時不詳。北穂方面滞在、大磯、丹沢、上越。昭和40年 4月22日~5月8日、春陽会第42回展覧会。上高地初夏、7月~8月、槍ヶ岳北鎌尾根。日時不詳、槍・穂高岳方面滞在、多方面。昭和41年 4月17日~23日、大和紀伊の旅。4月22日~5月8日、春陽会第43回展覧会。槍ヶ岳北鎌尾根にて50F。7月~8月、開田高原、上高地、北穂滝谷を中心に滞在、西穂高岳。11日秩父方面。日時不詳、上信越、その他。神奈川県美術展始る。没年迄招待出品。3月のスキー行にて体力の限界を知り、永年親しんだスキー行中止す。昭和42年 4月1日、秋間梅林。4月22日~5月8日、春陽会第44回展覧会。北穂高岳南峯 50F。5月1日~9日、個展。於日動サロン。日時不詳、槍岳、北穂高岳、上信越方面。昭和43年 3月、第3回神奈川県美術展、実行委員。4月22日~5月8日、春陽会第45回展覧会。春の槍ヶ岳、5月、上高地、槍・穂高方面。日時不詳、甲斐路、その他。昭和44年 4月22日~5月8日、春陽会第46回展覧会。牡丹15F、穂高新秋。6月、甲州アヤメ平。7月、甲州、悪沢を見る。8月末、鹿島平。9月、アヤメ平。日時不詳、乗鞍岳、上高地、他。昭和45年 3月初、甲州穴山。4月22日~5月8日、春陽会第47回展覧会。初夏の鹿島槍。5月、上高地ウエストン祭の後鹿島に泊る。6月。高山より、開田高原、野麦峠。10月16日、千石尾根(西穂高)。7日、乗鞍岳一ノ瀬。12月5日頃、「霧の旅」にて可睡斎。日時不詳、上高地、穂高、上信越、他。昭和46年 4月22日~5月8日、春陽会第48回展覧会。初夏の穂高岳。5月、ウエストン祭の日に長屏に登り雪中より穂高連峯に別れを告げる。最後の自力による登山となる。乗鞍へ廻る。日時不詳、甲斐路、佐久往還、他。著書『日本の山旅』茗溪堂(奥付は1970なるも刊行は翌年となる)。昭和47年 3月、白内障手術の為日大板橋病院に入院、視力は「見えすぎる」程に恢復。4月22日~5月8日、春陽会第49回展覧会。劔岳新雪 20F8月、視力極めて良好なるも食事が進まず外来検査、即日入院し、月末に手術、胃を殆んど除去。9月、退院帰宅、極めて好調、11月末より不調を訴え、12月、額田病院に入院、点滴にて越年す。昭和48年 1月、調子良き日を見計いアトリエへ通って春陽会への出品作品を描く。29日、退院、自宅へ戻る。2月下旬、出品作を完成。3月31日永眠。痛みを訴えたが死の直前迄意識明瞭であった。4月5日、春陽会葬、於鎌倉七里ヶ浜ホテル。4月22日~5月8日、春陽会第50回展覧会。春の穂高岳徳本峠より。昭和49年 4月22日~5月8日、春陽会第51回展覧会。遺作室設けられ、チューリップ、10号1923、上海の娘、5号1943、ホテルモンブランの窓、5号1961、マッターホルン、25号1962、牡丹、10号1968と著書など陳列、石井鶴三遺作等併陳。(本年譜は足立朗、『神奈川県美術風土記・幕末明治拾遺篇』より転載)

小林和作

尾道市在住の独立美術協会員、小林和作は、11月3日出入りの門下生4名とスケッチ旅行中、車から降りたときにドアに接触して約2メートル下の荒地に転落、広島県三次市の双三中央病院で治療中であったが、11月4日午後9時過ぎ、頭蓋内出血のため死去した。享年86歳であった。 小林和作は、初期の雅号を霞村、後年には燦樹の別号をもっていたが、明治21年(1888)8月16日、山口県吉敷郡に生まれている。父は和市、田畑、塩浜などを有する富裕な地主で、和作は7人兄弟の長男であった。小学校を了えると画家になることを希望し、廃嫡を父に申し出で、なかなか許されなかったが、遂に父もおれて、明治36年和作をつれて上京、日本画家田中頼璋の門に入ったが、入門した翌日から風邪をひいて寝こみ、直に郷里へ帰った。 明治37年(1904)、京都市立美術工芸学校日本画科に入学、同級に田中喜作、川路柳虹、高畠華宵などがあり、1学年上級に村上華岳がいた。幸野楳嶺、菊池芳文門下の川北霞峰の画塾に入り、明治41年、同校を卒業、京都市立絵画専門学校に入学し、竹内栖鳳の指導をうけた。絵専在学中も霞峰画塾に通い、霞村と号し、明治43年第4回文展に椿を描いた作品を出品して入選した。 大正二年(1913)京都市立絵画専門学校を卒業し、この年の第7回文展に「志摩の波切村」が入選、褒状をうけたが、その後出品しても落選し、大正9年(1920)洋画研究を志して鹿子木孟郎の下鴨の画塾に入門して初歩の木炭画から始め、ここで林重義、北脇昇などを識った。 大正11年(1922)春、大正博覧会に上京、偶然紹介された小石川の野島熙正邸を訪ねてその所蔵の洋画コレクションに接し、特に梅原龍三郎、中川一政の作品に感動して洋画への転向と上京を決し、居を東京に移した。中野の前外務大臣伊集院彦吉の邸宅に住い、梅原、中川、それに林武に油彩画の指導をうけ、春陽会展に出品。また、梅原、中川、林らの作品を蒐集した。京都におけるジャン・ポール・ローレンス系のフランス・アカデミスムの画風から、上京後は印象派以後の近代的画風へと転じていったが、大正14、15年とつづけて春陽会賞を受賞し、昭和2年(1927)第5回春陽会展に「上高地の秋」を出品して春陽会会員にあげられた。 昭和3年(1928)1月、林倭衛、林重義、ベルリンへ行く弟と4名でシベリア経由でヨーロッパへ赴き、パリへ行き、さらに山脇信徳と共にイタリア旅行、夏にはイギリスへ旅行した。昭和4年(1929)春には約5ヶ月のあいだエクス・アン・プロヴァンスに滞在した。同年5月、再びシベリア経由で帰国の途についた。昭和6年(1931)、経済恐慌で実家の経済状態が悪化し、財産を整理、その前年に創立された独立美術協会に林重義を通じて参加を勧誘されたがこれを断り資金援助だけをした。 昭和9年(1934)、春陽会を脱会して独立美術協会に会員として参加、また、同年東京から尾道に居を移し、以降、尾道にあって独立展を中心に作品を発表してきた。戦後は、春、秋の二度にわたり長期の写生旅行で日本国内をまわり、その成果を独立展、秀作展、日本国際美術展、現代日本美術展などに発表、昭和28年(1953)には27年度芸術選奨文部大臣賞をうけ、昭和46年(1971)に勲三等旭日中綬章をうけている。なお、80歳を祝って、梅原、中川、小糸源太郎などを加えて八樹会がおこされ、日動画廊で展覧会が毎年開かれていた。後半期は日本の古美術、特に肉筆浮世絵、文人画から富岡鉄斎、村上華岳などと幅広い蒐集でコレクターとしても知られ、また、随筆家としてもよく知られており、随筆集に「風景画と随筆」「春雪秋露」「美しき峯々の姿」「天地豊麗」「春の旅、秋の旅」などの著書があり、そのほか、「浮世絵肉筆名品画集―小林和作家蔵」(画文堂)、「備南洋画秀作集」(求竜堂)などがある。

石井鶴三

日本芸術院会員の石井鶴三は、3月17日午後10時20分、心臓衰弱のため東京都板橋区の自宅で死去した。享年85歳。4月2日正午から2時まで、葬儀及び告別式が春陽会葬(委員長・中川一政)として青山葬儀所で行われた。明治20年6月5日、東京・下谷に日本画家石井重賢(号・鼎湖)の三男として生れた。祖父は鈴木我古、長兄は柏亭と三代にわたる画家の家系である。数え12歳の時、千葉・船橋の農家、矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となったが、この頃、馬と遊ぶうちに馬体の不思議な触感に感動したのが彫刻を志す契機となったという。明治37年には実家石井へ戻り、4月から小山正太郎が指導する洋画塾「不同舎」へ通学してきびしい素描力を養い、また7月から長姉の嫁ぎ先の縁故にあたる加藤景雲の門に入り木彫の手ほどきを受け、翌年38年9月、東京美術学校彫刻科選科に入学し、43年同校卒業、さらに研究科へ進み大正2年ここも修了した。彼が明治末期から美術界の多方面にわたって活躍してきたのは、この青少年時代の基礎勉強と独自な探求姿勢によるもので、油彩・水彩画、版画、挿絵などにも多彩に秀れた才腕を発揮してきたが、それはとりもなおさず彼の芸術の本領が最もよく発揮された彫刻造型の追究に帰されるものと考えられよう。東京美術学校在学中、荻原守衛の彫刻に感動し、一時は「荒川嶽」に代表される文展出品があり、大正3年再興の日本美術院の彫刻部に入り、その研究所で中原悌二郎、戸張孤雁、佐藤朝山、平櫛田中、保田竜門らと研鑽を重ねた。明治の末期、荻原のフランスからの帰国を契機として漸く近代の扉を開いた日本の彫刻界では、荻原の夭折後その系譜がごく少数の同志が残る院展彫刻部に引き継がれ、官展流とは違った内省の強い写実主義が誠実に追究された。なかでも石井は、対象の表面的で安易なまとまりを避け、内面的な造型の骨格を明示しようとつとめた稀有な存在であり、その実現は「母古稀像」「俊寛」「藤村先生」「風(試作)」などの代表作に窺われるように、峻厳な造型の内発力を示す作調となって、昭和期院展或いは別の場でながく指導的役割を果した。同じく昭和19年から34年まで東京芸大教授として「石井教室」で指導された門生たちの中には、学生時代、造型の原理をきびしくたたきこまれた師恩の深さを今に感謝しているものが全く多い。その業績の大体は、下記の略年譜(信濃教育第1044号の特集・石井鶴三先生追悼号に所載の岡田益雄編のものを主に参照した)で推察されたい。 略年譜明治20年(1887) 6月5日東京市下谷区に生れる。父は重賢(号鼎湖)、母ふじの三男。兄は満吉(柏亭)。明治30年 父重賢没。明治31年 千葉県船橋町の農家矢橋安五郎(叔母の夫)の養子となる。明治37年 実家石井家に戻る。小山正太郎の画塾不同舎に学ぶ。加藤景雲に師事。明治38年 9月東京美術学校彫刻科選科に入学。この頃より肺結核にかかり、20歳のとき医療を廃し、みずからの養生法をおこない快方に向う。明治39年 東京パックに入社、漫画をかく。苦学生の生活が続く。浅間山に登る。明治41年 第2回文展で荻原守衛の「文覚」に感動する。この頃から推古仏に関心を抱き、また埴輪の美にひかれる。明治42年 はじめて日本アルプスに登る。以後しばしば登山し山岳のもつ彫刻美にうたれる。明治43年 東京美術学校卒業、同校研究科に進む。明治44年 第5回文展に「荒川嶽」入選。大正2年 東京美術学校研究科修業。大正4年 日本美術院同人佐藤朝山のすすめで、日本美術院に入り、研究所で彫塑研究をはじめる。福田美佐を知る。第2回二科展に「縊死者(水彩)」入選。第2回日本水彩画会展に「溪谷」「小学校」他2点入選。大正5年 日本美術院同人に推される。第3回二科展に「井戸を掘る」「行路病者」(共に水彩)入選。大正6年 第4回日本水彩画会展に「峠」「山茶花」出品。大正8年 福田美佐と結婚し、東京・田端に移り住む。大正9年  個展(兜屋画廊)を開く。大正10年 東京・板橋中丸の新居に移る。日本水彩画会の会員に推挙される。上司小剣作「東京」に挿絵を描く。大正13年 日本創作版画協会の会員となる。上田彫塑研究会の講師となり、以後毎年夏期講習会において指導する。昭和45年(第46回)まで毎年続ける(但し昭20休講)春陽会会員となる。大正14年 中里介山作「大菩薩峠」の挿絵をかく。以後断続して昭和2年に及ぶ。大正15年 自由学園に美術を教える。(昭和15年まで)。「婦人像」(上田における第1回講習会の作品)を院展に発表。昭和4年 伊那の彫塑講習会の講師となる。(翌年まで2回、3回目からは有志による)昭和5年 院展に「俊寛頭部試作」「踊」を出品。「石井鶴三素描集」を刊行する。直木三十五「南国太平記」の挿絵をかく。昭和6年 院展に「浴後」「信濃男坐像」(上田彫塑講習作)を出品。昭和7年 子母沢寛作「国定忠治」の挿絵をか。昭和8年 長野の彫塑講習会の講師となる。3年続くが昭和11年から上田に合流する。昭和9年 「石井鶴三挿絵集」第1巻(光大社刊・「大菩薩峠」の挿絵)刊行。昭和11年 院展に「針塚氏寿像」「老婦袒裼」(上田の作)を出品。昭和12年 長野美術研究会の絵画講習の講師をつとめ、昭19・20休講しただけで昭和33年まで毎年続く。昭和13年 随筆集「凸凹のおばけ」刊行。吉川英治「宮本武蔵」の挿絵をかく。上田で春陽会絵画講習を開き、3年継続する。昭和14年 日本版画協会会長となる。昭和18年 北中国旅行。上田で「石井鶴三小品展」を開く。院展に「藤村先生坐像」出品。随筆集「凹凸のおばけ」(増補版)刊行。「宮本武蔵挿絵集」刊行。昭和19年 美術学校改組により、東京美術学校教授となる。昭和20年 8月7日妻美佐病没(58歳)甲州棡原の山荘へ往来、以後数年に及ぶ。和田光子(妹)と同居。昭和23年 岩手県に高村光太郎をたずねる。院展に「仕舞」(鷹野悦之輔像)を出品。昭和24年 上田彫塑研究会25周年記念展・講演会開催。昭和25年 院展に「肖像」(石黒忠篤氏)を出品。坂本繁二郎を九州にたずねる。日本芸術院会員に任命される。横綱審議会委員になる。昭和26年 「木曽馬1・2」を院展に出品。「藤村先生木彫像」の第二作に着手する。昭和27年 法隆寺金堂再建修理にあたる。翌28年まで続く。院展に「小学校教師像」(松尾砂氏像)を出品。昭和29年 6月、「石井鶴三彫刻展」を中央公論社画廊で開催。上田彫塑30年記念展・講演会を開催。昭和30年 子母沢寛「父子鷹」の挿絵をかく。和泉保之師につき、狂言、小舞などのけいこを続ける。昭和31年 信濃教育会発行「彫刻家荻原碌山」刊行。昭和33年 兄柏亭没する。院展に「校長像」(山浦政氏)を出品。中国旅行をする。昭和34年 東京芸術大学教授退官。同名誉教授となる。上田で35周年記念「石井鶴三作品展」開催(上小教育会主催)。昭和36年 2月日本美術院彫塑部解散。昭和37年 腸閉塞をわずらい、入院手術。昭和38年 和田光子の孫蹊子(昭和22年より同居)を養女とする。法隆寺中門仁王修理にあたる。昭和41年 ヨーロッパ旅行。昭和44年 相撲博物館長となる。昭和46年 2月病気のため入院。翌年4月退院、自宅で療養。昭和48年 3月17日午後10時20分、自宅で心臓衰弱のため死去。

to page top