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第37回文化財の保存及び修復に関する国際研究集会
Session 3 「かたち」を支えるもの
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14:10-14:20 セッション趣旨説明

セッション3:「かたち」を支えるもの
綿田 稔(東京文化財研究所)


 「かたち」を構成する材料、「かたち」を可能たらしめる技術や道具、「かたち」の背後にある個人ないしグループの知識や思想、身体性、社会の風潮や政治状況といったコンテクスト、あるいはそれらを超越したほとんど偶然としか言いようのない何ものかなど、さまざまなものに支えられて、「かたち」はある時に人によって生み出され、その時々の人によって認識されます。

 このセッションでは「美術」の諸ジャンル、時にはその領域さえも乗り越えて「かたち」の問題へアプローチしようとする研究を集めます。現物にせよイメージにせよ、「かたち」を認識することから出発して、「かたち」の周辺へと考察をひろげ、それから再度「かたち」の問題へ立ち戻る。いくつかの事例を集めることによって「かたち」の問題のもつひろがりを浮き彫りにするとともに、そうした方法論そのものの可能性と課題についても掘り下げて議論してみたいと思います。




14:10-14:20 発表1

八幡縁起のローカリゼーション
メラニー・トレーデ(ハイデルベルク大学)


 布教することと歴史的事件を記念することは、お互いが密接に関連しているのはもちろんであるが、どちらも空間的で物質的な「かたち」としてあらわれる傾向がある。こういった「かたち」は、歴史家ピエール・ノラが「lieux de mémoire(記憶の場)」と呼んだものとして説明することができる。これら歴史を記憶する場には、現在あるいは未来において社会の結合力を高める働きがある。本発表はノラの考え方を、地方における八幡縁起絵巻の制作に適応することを試みる。

 八幡縁起絵巻の幅広さや奥深さについての研究はまだ始まったばかりである。八幡縁起絵巻はすでに12世紀の文献に記載されているものの、現存最古の作例は元亨2年(1322)の銘記のあるものである。その後、八幡縁起の絵とテクストは、幾度となく写され、再生産された。説話の前半部では古代、身重の神功皇后が住吉明神の助けを得て韓半島の3つの王国への侵攻を敢行する。後半部では、神功皇后が応神天皇となる男児を生み、また応神天皇は八幡大菩薩・八幡神としてさまざまな霊地において不思議な姿で立ち現れるのである。中世には絵巻物が各地で制作されたが、それらは八幡信仰に関係する「shrine-templemultiplexes(社寺複合体)」(アラン・グラパール)に八幡縁起として奉納され、結縁を誘うモノとして、繁栄や平和を祈願する証として、あるいは正当性を示す大切な宝物として制作され、そこには時として政治的意味が込められることもあった。

 1985年から86年にかけて、美術史研究者で八幡縁起絵巻研究の先駆者である宮次男は数多くの中世の八幡縁起絵巻を紹介し、詞のテクストと書式、ならびに美的判断によってそれらを甲本と乙本の2系統に分類した。それ以後、文学研究者たちは詞書が変更されたり付加されたりした事例を紹介し(黒田彰・筒井大祐など)、宮氏の二類型化理論に問題提起をしてきたのである。

 本発表では2つの事例を検討することによって、甲乙二分法を展開させてみたい。いずれも手本と称するものからあえて離れることによって、イメージに明白な土地の独自性を吹き込もうとしている例である。第1例は15世紀後半に周防国(現山口県)で制作された絵巻の諸作例である。これらは一応、宮氏の言う甲本系統に属するが、先行作例や同時期の作例の描写とは構図的、図像的、そして様式的なレベルでは異なったものになっている。絵師たちは特徴的なモチーフを新たに描き加え、改めてそれらに意味を与えているが、その一方でその土地で墨絵を描く一派からの様式的な特色をも内包しているのである。その結果、新しい図像が生まれ、その新しい図像は独特のイメージ・コンテクストを暗示する。第2例は寛文12年(1672)の銘記のある「筥崎八幡宮縁起絵巻」である。ほとんどの場面ではすでに確立された甲本系統の図像に従いながら、時には再解釈や追加を行っており、そこから、博多湾内の筥崎宮という地域性や地理的特性に対する人々の相当な熱意が浮かび上がってくる。

 八幡縁起絵巻制作に関するこれら2つの事例研究からは、宮氏の甲乙二分法を越えて、ノラの言う「記憶の場」のような意味で、これらの絵巻が土地の鑑賞者の期待に応えるように特別な「かたち」をとったことがわかるのである。

(綿田稔訳)




14:50-15:20 発表2

器 ─ 社会的形態、文明の記憶
崔 公鎬(韓国伝統文化大学校)


 器は工芸を代表する物のひとつである。韓国で、日常使いの器を芸術の範疇に含めて研究しはじめたのは1900年代の初めだった。高麗青磁の愛好ブームに乗って近代学問として出発した考古美術史学が、古い器に文化財という名を付与し、1930年代の朝鮮美術展が工芸品を芸術の領域に取り入れた結果である。学芸界がそのような動きと協調し、歴史及び芸術的価値を探求することによって、器に対する認識が急速に変わっていったのである。

 ところで、器が美術史の対象となってから、その芸術的価値は大きく高まった反面、日常で使われた物であるという、器本来の実態的な真実は、徐々に失われてしまったように思われる。これは、造形的な側面を重んじたあまり、器が作られた理由や、使い方に関連した制作原理及び形態の意味体系など、基本的な実態を明らかにすることに関心を向けなかったためである。問題は、器を研究する工芸史が、様式の研究に注力する一般美術史の磁場圏に属しているという点にある。現時点の工芸史のあり方や、その研究方法の問題に起因しているのだと考えられる。

 近代以前の器が、合目的性に逆らって制作されたことはほとんどない。工芸の合目的性は、生活との緊密な連動を意味している。その究極に、需要主体である人が存在することは言うまでもない。器を器らしく見つめ、深く研究する新しい試みが必要なのはこのためである。

 このために、既存の硬直した様式史を超越する観点と、新しい研究の枠組の設定が切実である。工芸史の基調上で見ながらも、美術史の枠を越えて視覚を拡張しなければならない。必要であれば、人類学や民俗学や、人間工学など、分析的な方法も果敢に援用しなければならない。「形態は機能に従う」というモダニズムの命題は、単に近代以後の物に限られているのではない。形態に反映された使い道が、当代の生(生活)の忠実な記録であるならば、基礎的な実情を明らかにする試みは、学芸的評価の整合性のためにも先決条件である。

 本発表は、近代学問の慣性に覆われてしまった、器本来の姿を復元するのに注力するものである。制作の結果に先立ち、どのように使われ、形態の構築に用途がどのように適用されるのか、共に置かれた器物は、互いにどのような力学関係を成しているのかを、丁寧に探っていく。このときの器の形態は、時代の生の断層を通してみるスコープである。器の形態をはじめとする全方位的視覚のスペクトラムが、芸術に遮られた生活主体の生の一歩近くに導いてくれるだろうと考える。

 このような観点から、伝統社会の日常を収めた近代初期の写真は、器の立体的研究に非常に重要な端緒を提供している。器の形態が、生全体と蜘蛛の巣のように織り成された結果であるならば、これを分析するとき、需要主体のライフスタイルと器物の関係が、革新的なふたつの軸の詳細な研究を担うのである。特定の器の形式決定主体が、職人に先立ち、その時代の需要集団の日常的必要であると考えるからである。職人は、形態のディテールと完成度に関与しながらも、同時に熟練した手わざで社会的決定を具現する媒介者の役割を担うことになる。器を文明の記憶装置として考えることができるのはこのためである。この試みが正しければ、既存の成果を補完し、多少でも視覚の拡張に寄与することができるだろう。

(藤村真以訳)

(プレプリントには、ハングルによる原稿も掲載しています。)




15:30-16:00 発表3

中国絵画史における「人格」と「かたち」─ 呉彬「山陰道上図巻」と価値評価の構造 ─
塚本 麿充(東京国立博物館)


 明末に活躍した呉彬は、20世紀になってから、エキセントリックスクールを代表する画家として高い評価を与えられてきた画家である。1970年のマイケル・サリバンや、1982年のジェームス・ケーヒルの論考を嚆矢とし、明末清初という特異な時代背景と、中国絵画の近代性につながる個性派画家として再評価されてきた。しかしその画家の実像については、残された文献資料の少なさからも十分な理解が得られておらず、呉彬在世時から近代に至るまでの複雑な価値評価の重層のなかに包まれている。本発表ではこれらの呉彬の特異な「かたち」に対する複層的な価値評価の構造の変遷を明らかにしたい。

 ここで取り上げるのは、呉彬「山陰上道図」(1608年、上海博物館)である。2013年東京国立博物館で開催された「上海博物館 中国絵画の至宝」展でその全巻が展示されることで、従来の図版では理解できなかった画家の姿がよく知られるようになった。画巻は朝日を浴びる春景からはじまり、次の場面では、元代の王蒙に由来する牛毛皴を効果的に用い、南宋の米友仁に由来する米法山水で湿潤な夏景を、また次の場面では元代の黄公望や五代・北宋初期に活躍した董源・巨然が得意とした卵石皴が用いられ夕方の秋景へと変化し、また、ひろびろとした叙情を得意とした趙令穣や李成の画法を用い、最後に唐時代の王維にならう晩の冬景で終わっている。「山陰道上」との自題があるが、実景とはほとんど関係なく、ここで見られるのは、呉彬の中国絵画史への深い理解と、その画技を誇るように、自在に歴史を運用している画家の姿である。

 さらに重要なのはこの作品が呉彬の最大の後援者である北京の米万鐘のために描かれたことである。呉彬は万暦29年(1601)には米万鍾と知り合い、万暦38年(1610)頃までには北京にのぼり、米万鍾のために「勺園図巻」(1615)を描いている。「山陰道上図巻」はその自跋から、万暦37年(丁未、1607)、古棠(江蘇省六合)の知県になった米万鍾が呉彬に制作を求め、次年の冬に完成したもので、「晋唐宋元諸賢の筆意」をとって描いたものと言う。中国の伝統絵画では、創作者、鑑賞者ともに高い人格を持つことが書画の創作と鑑賞の基本にあり、倣古の姿勢もここに由来する。それゆえに呉彬もここで、米万鍾に対して、その高い人格を褒め称え、中国絵画史を再構成するような本図を制作して贈っているのである。

 にもかかわらず、呉彬は近代的な造形評価の構造のなかで、“エキセントリック”、“個性派”、“変形主義”といった造形的評価が下されてきた。ここでは作品とコンテキストが大きくねじれ、中国山水画の「かたち」が、画家とパトロン、そして中国とアメリカ、明末清初と近代、書画と美術史といった、複雑なコンテキストの変化によって、大きく変化してきた様子が見て取れよう。本発表では呉彬「山陰道上図巻」を例として、中国絵画における「かたち」の価値評価の構造の一端を明らかにしたい。




16:00-16:30 発表4

記憶のかたち─コスマ・ロッセッリ『人工記憶の宝庫』(1579 年)における天国と地獄の表象
桑木野 幸司(大阪大学)


 近年、西欧の初期近代(15世紀~17世紀初頭)が文化史の領域において注目を集めている。まさにこの時期に、中世までの静的な世界観を破壊する驚異的な出来事─古代文化の復興、印刷術の発明、新大陸の発見、宗教改革、等々─が立て続けに起こった。その結果、現代にまで続く政治・経済・文化・宗教の新たな枠組みが、この初期近代という時代に形作られることになる。

 当時の文化を特徴づけるのは、情報の過多であった。新大陸やアジア諸国から大量の文物が市場に流れ込み、膨大な新知識が印刷メディアに載って巷間に流布した。そうした情報の洪水に対する処方箋として当時の知識人たちに広く実践されていたのが、記憶術と呼ばれる、古代の弁論術に出自を持つ人工的記憶強化法である。その要諦は、空間とイメージの秩序的組み合わせにあった。記憶術を実践する者はまず、適当な建築ないしは空間を、脳内に克明に刻印する。これが情報の器の役割を果たす。ついで、覚えたい内容を、情報のまとまりごとにイメージ化してゆく。映像の力を使って膨大な文字情報を効果的に圧縮するのだ。そしてこれらの一連のイメージを、最初に記憶した建築空間の中に順序良く一定の間隔を保って配置してゆく。記憶データを取り出したいときは、瞑想しながら脳内の建築をめぐってゆき、イメージに出会うたびごとに、そこに託した情報を取り出してゆく。

 記憶術における情報の器としてのヴァーチャル建築は、いわば記憶の「かたち」とみなすことができる。更に踏み込んで言えば、初期近代人の精神内の情報配列の「かたち」を、これらの仮想空間の内に見て取ることができるのである。当時大量に発刊された記憶術マニュアルを見ると、記憶の器としては、現実世界の建築や町並みをモデルに推奨する例が大半である。しかしながら、中にはまったくのゼロから、理想の記憶の器たる架空の空間を提案している作品もある。その代表例がC. ロッセッリ『人工記憶の宝庫』(1579年)である。

 ロッセッリは記憶のモデルとして、ダンテ『神曲』を髣髴とさせる、地獄から天国までの道のりを想定し、個々の空間について具体的な形態描写を行っている。その言葉通りに精神内に仮想空間を構築することで、記憶イメージを収蔵するための理想の入れ物ができあがるのだ。たとえば地獄を見てみると、円形劇場風の幾何学構成となっており、中央に鎮座したルチフェロを中心に、罪人や悪魔たちの巣くう空間が秩序的に分節されている。天国も同様で、中央のキリストを中心に、放射幾何学状の分節空間のなかに、天使や聖人の姿が配されている。本研究は、これらの記憶の仮想空間を再構成し、その特徴を剔抉することで、初期近代人の記憶のかたち、あるいは精神のかたちを探る上での視座を得ることを目標とする。

 
 
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