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第37回文化財の保存及び修復に関する国際研究集会
Session 1 群れとしての「かたち」
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13:00-13:10 セッション趣旨説明

セッション1:群れとしてのかたち
江村 知子(東京文化財研究所)


 複数の物に同種のモチーフや型といった「かたち」が現れることがあります。その共通性に着目するとき、ある特定の「かたち」が同じ意味や機能を保ちながら伝播・拡散・継承されてゆく場合もあれば、逆に全く別の意味や機能に変化することもあり、さらには、お互いが全く関連性をもたない場合もあります。また個人様式や時代様式、地域様式といったものも、個々別々の「かたち」を、一群として扱うことで浮かび上がります。

 このように「かたち」の共通性に着目することは、学としてごく一般的なことなのです。しかしそうであるだけに、分野ごとにその方法論を磨き上げると同時に、他分野へも語りを開くことが重要になります。このセッションでは各分野における「かたち」へのアプローチの方法をつきあわせ、その一般的な営為の内実を問い直したいと思います。




13:10-13:40 発表1

先史時代からみた「かたち」の概念 ─ 土偶や縄文時代の遺物の観察を通して
サイモン・ケイナー(セインズベリー日本藝術研究所)


 土偶と火焔土器は日本の縄文時代でもっともよく知られたかたちの遺物である。土偶や火焔土器からは、縄文時代が旧石器時代の南西ヨーロッパの洞窟壁画など他の先史世界の極めて優れた創造性の発現に匹敵することがわかる。筆者は近年、海外の観客向けの土偶及び火焔土器の展示に携わっており、このような過去の物質文化の特徴的なかたちを現代の観客が理解し解釈するための学際的な研究事業にも関わっている。これらの研究事業は考古学の分野での新たな興味関心、特に対象の物質性(materiality)や作用(agency)を背景として実施されている。

 考古遺物についての「表象(representational)」物質文化に関する最近の多くの業績は、視覚芸術に対する人類学的な方法論から発展した考え方に基づいている。アルフレッド・ジェル(Alfred Gell)は自身の著書『芸術と作用(Artand Agency)』(1998)で、視覚芸術は「芸術家の極めて優れた技能の有効性の表れ(form)」であり、「道具の動きの形態(form)」であると主張している。ジェルは、表現されたもの(representations)によって誘発されるアブダクション(abduction 仮説的推論)という考え方を発展させ、創造性に対する自身の理論的な方法論を広めようとした。ジェルの方法論は近年批判されてはいるものの、先史時代の遺物の解釈において、かたちという考え方やかたちの機能についてもより一般的に再検討するための興味深い基礎(baseline)を提供している。

 本発表では、特に縄文時代の遺物、いずれも最近国宝に指定された棚畑(長野県茅野市)、著保内野(北海道函館市)、風張1(青森県八戸市)、西ノ前(山形県最上郡舟形町)の各遺跡から出土した4点の土偶と、笹山遺跡(新潟県十日町市)出土の一連の火焔土器を主な対象として事例研究を行う。これらの遺物の国宝への指定要件は考古学的な解釈における価値に関連するのか、それとも現代の世界での芸術作品としての鑑賞という点のみにおいて重要なのか、あるいはこれら2つの疑問は相互排他的なのか、という疑問を提起したい。この疑問に答えるには、背景(context)について検討する必要があり、また考古学者が背景に関する情報の分析を通じてものに意味づけしようとする範囲を検討しなければならない。

 筆者は、これらの遺物に表れている創造性をかたちの鑑賞を通じてどのように評価できるか、どのようにしてそれらのかたちがもたらされたのか、また、どのようにして長期間にわたり再生産されたのかについて検討する。模造、模倣、伝統といった概念は粘土の塊はいかにして土器あるいは土偶といったかたちを与えられたかということの背後にある動機を理解するうえで有益である。ジェルの考え方に加え、フランスの人類学者アンドレ・ルロワ=グーラン(Andre Leroi-Gourhan)(縄文時代の遺物も収集している)が発展させた、シェーン・オペラトワール(chaine-operatoire)という考え方に言及する。これは、理屈であれ実際であれ、特定の物質的なかたちを与える「動作の順序」を意味する。さらに、かたち(form)や様式(style)、型式(type)といった用語と、それらに対応する日本語で小林行雄や小林達雄が明確化した「型式」や「様式」の意味の変遷をたどる。

(二神葉子訳)




13:40-14:10 発表2

「くり返す」ということ ─ 音楽の「かたち」と変化する伝承 ─
高桑 いづみ(東京文化財研究所)


 音は、生まれるそばから消えてなくなる。音を形として認識するとしたら、それはわれわれが記憶のなかで音を連なりとして再構築したときだけで、そのとき、もはや音は現実には鳴り響いていない。流れゆく音を切り取って形として記憶させる手段として、「くり返し」は単純だが効果的な手法である。ヨーロッパのいわゆるクラシック音楽では、「くり返し」と「変形」を基本に三部形式、ソナタ形式などの音楽形式を確立していった。日本音楽は形式感に乏しいと思われがちだが、中世に端を発する諸芸能(平家、仏教儀式で唱える講式、能楽)は、全体を構成する細部の要素に至るまで音楽形式が確立している。能楽の場合、緻密な構造を案出したのは世阿弥(1363?~1443?)である。本発表では、能楽作品が形式を確立する上で「くり返し」の効果をどのように応用したのか、能の作品を構成する上で重要な要素である「上ゲ歌」のフシと所作を通して検討したい。

 「くり返し」は、伝承の基本でもある。演じるそばから、演奏されるそばから消えていく芸能や音楽を後世へ伝える手段として、師から弟子へ、身体から身体への口頭伝承、稽古の積み重ね、くり返しは欠くことができない。所作譜・楽譜はあっても、それをどう演じるか、どう謡うかは稽古のくり返しを通してしか立体化できないからである。しかし芸の伝承が身体を媒体とする以上、親子といえども完全なコピーはありえないし、そこに時代の嗜好も重なっていく。意図しようとしまいとくり返すたびに新たな変化、創造が加わっていくのは避けられないが、その変化に耐えうる芸能こそが、いつの時代にも感銘を与えうる古典になりえたとも言える。

 能楽も、世阿弥以降700年以上途絶えることなく伝承されてきた。しかし、700年前の能と、現在演じられている能はまったく同じではない。能楽が「くり返し」の結果どのように形を変えていったのか、それもあわせて論じることで、伝統芸能と呼ばれる日本の音楽や芸能にとって「かたち」とは何かを考える糸口としたい。




14:20-14:50 発表3

蟠龍図の「かたち」と行為
ユキオ・リピット(ハーバード大学)


 寺院建築の天井にしばしば描かれる「蟠龍図」(「雲龍図」とも)という題材は、江戸時代を通じて著名で権威のある画題と認識されていた。この画題については継続的に学術的検討が加えられてきたわけではないものの、蟠龍図について検討することで、近世日本において「かたち」が意味に結びつく複合的な状況を、いくつか洞察することができる。

 蟠龍図の起源は不分明であるが、中国の銅鏡の背面に見られる、とぐろを巻いた龍のモチーフと何らかの関係があるだろう。やがてこの題材は中国宋代の建築内部の天井にも現れる。それはしばしば円形区画の中に収められ、「鏡天井」と呼ばれる特定の建築部位に描かれたのである。龍は皇帝を象徴するが、そこではおそらく、建物の防火を象徴するものとして機能していると言えるだろう。そして宋代様式の建築が「禅宗様」として日本に輸入され、日本でも鏡天井に蟠龍が描かれるようになったのである。

 日本で最初に鏡天井の蟠龍図が描かれたかのがいつなのかは不明瞭だが、室町時代には画僧明兆(1352〜1431)が東福寺で描いたと伝える。そして江戸時代初期までには重要な禅院の鏡天井に蟠龍を描くことが慣例となる。通常、蟠龍図は、地位の高い絵師が手がけた。それは例えば狩野探幽(1602〜74)などの御用絵師の業績中にも見ることができる。

 かくて天井の龍は、内裏紫宸殿を飾った「賢聖障子」同様、こういった絵師の地位を映し出す、権威ある仕事であると考えられるようになった。画系のアイデンティティに対して蟠龍図は重要な役割を果たすことになるが、それは江戸時代の画史画伝類に見ることができる。その最も有名な例は、狩野永納『本朝画史』(1693年板)所収の狩野山楽(1559〜1635)伝の逸話である。東福寺の天井の龍を狩野永徳が描き始め─それ自体は明兆の作の修復であった─、それを狩野山楽が引き継いで完成させたという逸話が、永徳の真正な後継者としての山楽の地位の正統性を誇示しているのである。

 天井の龍について検討を加えることによって、多くの興味深い美術史的問題が浮上する。この題材が重要視されたことは、東アジアにおける具象的な主題としての龍のもつ独特の権威、およびそれが描かれた機関─多くの場合は著名な禅院─の性格と関係がある。蟠龍図の大きさや準公共性もその重要性と関連しており、描かれた題材(すなわち龍)と、龍の視界に取り込まれた観衆との間には、特徴的な関係が生じた。この点で、西洋でも天井画がしばしば非常に権威のあるフォーマットであったのは、不思議なことではない。

 しかしながら、絵師の技巧を示すのに理想的な─いかに大気の状態を可視化するかが問われ、そしてそれゆえに絵師の技量を如実に現してしまう─龍という題材の本質にはまだ何かがある。蟠龍図には墨絵の技巧性と実演性の両方が備わっており、それゆえにさまざまなフォーマット、特に屛風や襖といった大画面で蟠龍図は重要な画題となった。この点で、天井の龍は「かたち」、大きさ、場所、芸術的地位と意味との間の関係性についての諸問題を提起する。そこにはまた、近代以前の日本における有形と無形の人工物の境界線をゆり動かす可能性が秘められているのである。

(綿田稔訳)




14:50-15:20 発表4

近代日本の行在所にみる様式の創造
小沢 朝江(東海大学)


 建築にとって「群れとしてのかたち」とは、ある用途・機能のための「定形」、または「様式」を意味する。「定形」とは、現代の量産住宅にみるように、大量に早く安く生産するための「かたち」の工夫であるのに対し、「様式」は単なる「かたち」ではなく、使用者の共通の「認識」を伴う点が異なる。例えば近世の書院造は、その場で対面する人物の身分差を室内の仕様や装飾により視覚化するもので、全ての人物が同じルールを認識してこそ効力を持つ。建築は、他の美術品と異なり「人」が使うものであるからこそ、「かたち」と「人」の結びつきが強いといえる。

 では、「様式」としてのかたちと認識はどのように作られるのだろうか。その具体像を、近代の天皇の行在所からみてみたい。

 「行在所」とは、天皇が地方に出かけた際宿泊する建物を指し、休憩用は「御小休所」と呼ぶ。江戸時代において天皇は、原則として在位中御所の外に出ず、都を離れて地方に出掛けることなどなかったが、近代に入ると、明治天皇が明治政権の浸透と地方情勢の把握を目的に、明治5〜18年に全国を巡幸し、各地に延べ1000箇所以上の行在所・御小休所が用意された。明治天皇が初回の明治5年巡幸から洋装し、その姿が近代国家誕生の表象とされたことはよく知られ、かつ巡幸では天皇が使用する椅子・テーブル・寝台等が持参されて、全ての行在所で椅子とテーブルによる椅子座の生活様式が貫かれた。

 これらの事実から、従来行在所として豊平館(北海道)など洋風建築だけが注目されてきたが、各地の巡幸記録や現存建物からみると大部分が和風の建物である。また巡幸前に各県に出された通達では、行在所は特に支障が無い限り修理不要とされたが、実際には多くが新築・改造された。これらは、特別な指示が無いにも関わらず、天皇用の部屋を8畳ほどの1室に限定し、上段とする点、外観では屋根や軒の高さ、内部では天井高さを極端に強調する点、金箔・銀箔の使用が頻出する点が地域を超えて共通し、椅子座に最も適するはず洋風建築でもまた、本来板敷きの学校や役場に巡幸時のみ畳を敷き詰め、上段や床の間を仮設した。これは書院造の手法に準じるものであり、板葺の切妻屋根や神棚の設置など、神社や御所に因んだ意匠も選択された。

 すなわち行在所では、格の高さを示す近世以来の既知のかたちと規範を用い、洋風の椅子座を入れ込むことで、近代らしい「天皇の空間」を創出したといえ、その統一性の高さに、当時の人々が抱いていた近世の建築様式に対する共通認識の強さを窺うことができる。

 この行在所の特徴は、明治後期の東宮嘉仁親王の全国巡啓では姿を消し、常住の皇居や御用邸に倣った平面や仕様が用いられるようになる。その背景には、長い検討期間を経た明治宮殿の完成(明治21年)があり、「天皇の空間」の「様式」の完成をここにみることができる。

 
 
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