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黒田清輝の生涯と芸術
田中 淳

はじめに

 青くかすむ湖面を背景に、団扇を手にした浴衣姿の女性を描いた「湖畔」ほど、ひろく親しまれた絵画作品はないだろう。それは、わたしたちが、この作品のなかに、いかにもすずやかな情感を感じとるとともに、気品のある明治の女性像の理想をみとめているからではないだろうか。そして、この作品の作者である黒田清輝は、「近代洋画の父」といわれるように、日本の近代美術史のながれのなかで、なんといっても大きい存在であることは、これもまたひろくみとめられている。それは、彼の作品の高い芸術性とその作品のひとつ、ひとつがなげかける絵画表現とその背後の思想が、わたしたちにとっての移植文化としての洋画(西洋画)を考えるとき、本質的な、そして現在までのつづく問題をふくんでいるためである。同時に、その画家としての生涯をみると、黒田は、明治という時代ならではの、宿命をになっていたこともわかる。近代国家として、憲法をはじめ、諸制度を整えていくなか、黒田も西洋画の啓蒙とアカデミズムの確立という美術教育の面で、まさに制度づくりに加担するとともに、一方で画家としての自由な眼差しと表現により、時として制度側としての国家や旧弊的な社会と対立する場面もあったのである。制度と個の間で、画家は揺れ動き、大きな振幅をみせていたのだった。そうした軌跡にこそ、明治を生きた画家のひとつの典型をみることができる。これから、その芸術を形成した留学時代と日本の美術界に変革もたらした帰国後の軌跡を中心に、彼がのこした作品についてみていきたい。

1.生い立ちと留学

 黒田は、1866(慶応2)年6月29日、鹿児島市高見馬場の地に生まれた。島津藩士であった父黒田清兼、母八重子の長男として誕生し、新太郎と命名された。(後に清光、さらに清輝と改名した。)しかし、誕生時にすでに決められていたと伝えられているが、1871(明治4)年に父清兼の兄黒田清綱の養子になり、翌年実母と養母となる貞子にともなわれて上京、麹町平河町の清綱邸で少年時代をすごすことになった。養父となった清綱は、同じく島津藩士であったが、幕末には鳥羽伏見の戦いなどで数々の武勲をたて、維新後は、東京府大参事、文部少輔、さらに元老院議官を歴任し、1887(明治20)年には、子爵をさずけられた。このように、清綱は明治開花期の顕官であり、清輝はその嫡男としてむかえられたのだった。当時の清綱邸は七千坪もあり、清輝の小学校時代には、友達と邸内の池で泳いだり、滝を浴びたりして遊んでいたと伝えられるように、経済的にも、物質的も、恵まれた環境で成長していったのである。十代になると、大学予備門をめざして英語を学び、ついでフランス語に転じ、17才のとき、外国語学校フランス語科二年に編入学した。フランス語を学ぶようになったのは、法律を勉学する目的からであった。これは、明治初年に政府が、フランスの法律制度をモデルに、民法、刑法等を整備しようとしたことから、法律を学ぶものは、まずフランス語の修得が必要とされていたためであった。そうしたところ、1884(明治17)年に義兄橋口直右衛門(清綱の娘千賀の夫)がフランス公使館に赴任することになり、かねてフランスで本格的に法律を学ぶことを願っていた清輝も同行することになった。清輝が、パリに着いたのは、同年3月18日であった。当時のフランスは、普仏戦争の敗北とパリ・コミューンの混乱をへて、第三共和制が成立し、ようやく安定にむかおうとしており、その中心地パリも近代的な都市に変貌しようとしていたのだった。
 それから1893(明治26)年、27才で帰国するまでの約10年間にわたる留学生活は、黒田にとって、多感な青年期のなかの自己発見と自己形成の時代にあたる。そのなかでも、もっとも大きな転機は、法律の勉学から画家になることを決意したことであった。そのきっかけは、1886(明治19)年2月、日本公使館でパリ在住の日本人の集まりがあり、そこで出会った画家山本芳翠(1850-1906)、工部省留学生としてパリで学んでいた同じく画家の藤雅三(1853-1916)、そして浮世絵の輸出で知られていた美術商の林忠正(1851-1906)たちから、しきりに画家になることをすすめられたことであった。黒田自身は、留学に出発するにあたり、養母から旅中の慰みにと、水彩画の絵具箱を贈られ、日本への書簡にもときおりスケッチを添えたりしていたが、それはあくまでも趣味であり、フランス語を学び、法律家になることが目的だったのである。それが、このとき画家になることをすすめられ、意外ではあったが、まんざらでもなかったらしく、そうした黒田の心情は養父に宛てた、つぎのような書簡からもよみとれる。
「諸氏ガ日本美術ノ西洋ニ及バザルヲ嘆ジ画学修業ヲしきりに勧め申候 且つ私ニ画ノ下地あるを大ニ誉め曰ク 君ニシテ若シ画学ヲ学ひたらんにはよき画かきとなるや必せり 君が法律を学ぶよりも画を学びたる方日本の為メニモ余程益ならん」(1886年2月10日附け書簡)
 そして、法律と絵画の間で、悩みはじめた黒田は、とうとうつぎのような書簡を養父に送り、画家になることを決意したのであった。
「色ゝト相考ヘ申候ニ法律専門ニテ国益ニナル程ノ事を為サンハ余程六ヶ敷被存候 依而今般天性ノ好ム処ニ基キ断然画学修業ト決心仕候 (中略) 画学ハ他ノ学問異ひ何年学ベバ卒業スルト云事ハ無之年ノ長短ハ只其人ノ天才ニ依ル事ニ御座候 私一度決心致し候上ハ一心ニ勉強可仕候 其決果ノ好悪ハ只天ニ御座候」(同年5月21日附け書簡)
 ここで「天性ノ好ム処ニ基キ」と記しているように、いわば20才の黒田が絵画に目覚めた「自己発見」を告げるものであり、同時にその決意と覚悟をつたえようとしていることがわかる。黒田は、この書簡の日付の翌日には、さっそくフランス人画家ラファエル・コラン(Louis-Joseph-Raphael Collin 1850-1916)に入門したことがその日記から知られる。ところで、養父は最後まで画家への転向には、反対であった。そのため、しばらくは法律の勉学をつづけながらの絵画習学であったが、1887(明治20)年8月には、法律大学校も退学し、絵画に専念することになった。
 黒田が師事することになったラファエル・コランという画家は、今日ではまったく忘れ去られ、近年のアカデミズムを中心とする19世紀美術史の見直しの研究動向のなかでも、わずかに名前をあげられるほどである。しかし、黒田の入門当時は、サロン(官展)に入選をかさね、1886年にはその出品作「花月(Floreal)」が政府買い上げとなり、リュクサンブール美術館に収蔵され、いわばアカデミズムのなかの新進の画家として評価がたかまっていた時期であった。その画風は、たとえば湖畔に裸の少女が横たわる理想画である「花月」にみられるように、穏和で明るい外光表現をとりいれてたものであった。すでに、このコランのもとには、藤雅三が学んでおり、その入門にあたって黒田は、通訳をつとめた縁から、黒田も師事することにしたのだった。つまり、コランの画風に惹かれて、主体的に師を選んだのではなく、こうした縁からだったのである。しかし、コランから黒田へ伝えられた画風は、のちに述べるようにその後の日本の洋画界を一変させることになるのである。それを思うと、あまりに黒田の師の選択が偶然であったことが意外におもわれるかもしれない。それでは、主体的に選んだ藤雅三の場合は、どのような理由からだったのだろうか。コランの出世作「花月」が発表された1886年には、第8回となり、また最後となる印象派の展覧会が開かれていた。1874年の第1回展以来、回を重ねるごとに、印象派の絵画は支持をあつめるようになり、この当時は、印象派が勝利をおさめつつある時期だったのである。だからといって、海外からパリに留学してきた画家が、そうした印象派の画家に師事したかといえば、それはきわめて稀であったといわれている。1880年代から90年代にかけて、「祖国において印象派のスタイルを発展させていった外国人画家の多くは、はじめにエコール・デ・ボーザール(国立美術学校)か、あるいは保守的な画家たちのもとで学ぶことを望んだ。その画家のスタイルとは、リアリズムと印象派による限定された領域を好む傾向にあった」(Norma Broude,ed., World Impressionism:The International Movement,1860-1920, New York,1990)と指摘され、そうした画家のひとりにラファエル・コランがあげられている。したがって、日本からやってきた藤も、黒田も、コランの作品のなかに、印象派的な明るい外光表現とアカデミックな堅実な描写に充分新しさを感じ、受けいれやすかったのではないだろうか。

2.外光派絵画の誕生

 黒田が入門した年の8月には、もうひとりの青年が日本からパリにやってきた。久米桂一郎(1866-1934)である。久米は、歴史学者久米邦武の長男であり、日本では藤雅三に素描の手ほどきをうけ、藤の留学を追いかけるかたちで、パリにやってきたのだった。同年ということもあって黒田と久米は、すぐに親しくなり、翌年には共同生活をはじめ、生涯にわたって交友をつづけたのだった。久米もコランに入門して、彼らが通ったのはコランの教室があるアカデミー・コラロシー(L'Academie Colarossi)であった。ここでは、コランが週に二度、一時間ほどかけて生徒たちの作品を見回り、指導する方法をとっていた。これは、当時の他のアカデミーでも、ほぼ同じ教育方法がとられており、最初に古典的な絵画の模写や彫刻の描写という基礎的な素描が課せれ、つぎに裸体の素描、三番目に人体、これもヌードの油彩画、そして最後に歴史画などのコンポジション(composition)の研究という段階をふまえて教育されていたのだった。これは、当時の美術理念、美学にもとづき、システムとして確立されたアカデミズムの絵画教育の方法であり、基礎としての素描(dessin)から完成された絵画(tableau)までは、一貫して指導されたのだった。例えば、素描の「女の顔(模写)」「石膏像」は、基礎的な素描にあたり、「裸婦習作」から「裸婦習作」にいたるまでは、つぎの段階の人体素描である。また、油彩画の「裸体・女(後半身)」から「裸体・男(半身)」も、コランのもとでのアカデミックな習学のあとをものがたる堅実な習作群である。
 こうしたアカデミックな勉学によって身につけた画技をもとに、黒田が画家として大きく成長するのは、1890(明治23)年頃からであった。それまでは、久米とともに、時折スケッチ旅行していたが、この年の5月に、パリの南東60キロほどに位置する小村グレー・シュル・ロワン(Grez-sur-Loing)を訪れ、ここに滞在しながら制作をするようになってからであった。久米によれば、「どこを見ても其儘画になる心持がする」(「黒田清輝小伝」)ほど、四季折々の風景が美しく、のどかな農村であった。当時この地は、アメリカや北欧から来た画家たちのコロニー(芸術家村)をかたちづくっていた。黒田が、この地に惹かれたのは、風景の美しさばかりではなく、格好のモデルとめぐりあったためだった。それが、マリア・ビヨー(Maria Billaut)という名前のこの村の農家の娘である。留学時代の代表作であり、サロンにはじめて入選した「読書」(東京国立博物館)や「婦人図(厨房)」(東京芸術大学附属芸術資料館)に描かれた女性であり、油彩画「編物」や、素描「編物する女」のモデルとなっている。黒田は、この娘の一家とも親しくなり、その一隅にあった小屋を借り受け、アトリエとして使って制作にはげんだのだった。
 黒田を制作にかりたてたこの地で、どのような表現の変化があったのだろうか。僚友久米の回想によれば、コロニーに集っていた外国人画家たちが、「残らず印象派の描き方を研究してゐるので、我々も自然それに興味を持つて来た」(「黒田清輝小伝」)といい、また別に、「此頃の印象派の主なる作家はギラギラした日光の効果を画面に活動せしむる為に種々描法工夫したのであって、コランの教えを受けた僕等に取ては、今少し穏かで柔かな調子のある風景画を狙つたもんである」(「風景画に就て」)と語っている。ここで、グレーの外国人画家たちが「印象派の描き方」としているが、より正確にいうと、アカデミズムの画家で、外光表現を取り入れた平明な農村風景画によって彼らに人気のあったジュール・バスティアン・ルパージュ(Jules Bastien-Lepage 1848-1884)のスタイルにならっていたのだった。黒田の師コランは、この画家の友人でもあり、その影響からコラン自身も、外光表現をとりいれていたのだった。ひろく知られるように、モネをはじめとする印象派の絵画は、光と大気につつまれた自然を、明るい色彩と点描による筆触を生かした表現に到達し、画面からは自然にはない輪郭線を消しさったのである。これに対して、バスティアン・ルパージュにしても、コランにしても、そうした印象派の画家ほど純粋に感覚的になることはなく、むしろアカデミックな写実性をもたもちながら、印象派的な明るい外光表現をといれるといった折衷的なものであった。黒田も、久米も、こうした表現を外光派といい、彼ら自身もそうした表現をめざしていたのである。たとえば、「枯れ野原」と題されたすがすがしい風景画、そして後ろ姿の少女の背中を通して森の奥に見る者の視線をみちび「赤髪の少女」などは、まさに彼らのいう外光派の表現といえるものであった。(ところで、近年の美術史研究では、バスティアン・ルパージュのスタイルを、plein-air painting、あるいはNaturalismeと称しており、外光派を意味するpleinarismeという言葉は、ほとんどつかわれることはない。そのため、同時代の美術史のなかで黒田の作品をとらえようとするとき、外光派という言葉が適切なのか、再考の必要があるように思われる。)
 多くの収穫があったグレーからパリに戻り、留学の最後の年になった1893(明治26)年に、黒田は等身大の裸体画の制作をはじめた。それが、惜しくも先の大戦で焼失してしまった「朝妝」である。この作品は、黒田自身「卒業試験の様な心持にて」(父宛書簡、同年4月29日附)描きはじめたもので、同時に日本に持ち帰って、日本人の裸体画に対する偏見を打破しようとする意図もあったとされている。完成した作品は、1890年に創設されたSociete National des Beaux-Artsという公募の展覧会に見事に入選し、これを確認したうえで黒田は、アメリカ経由で帰国したのだった。

3.制度と個の間で

 1893(明治26)年7月、10年ぶりに帰朝した黒田は、その年の秋に京都に遊んだ。京都の町や、舞妓など、そこで目にした風俗に、留学がながかったために、かえってエキゾチックな魅力を感じ、「舞妓」(東京国立博物館)を描き、また後述する「昔語り」の着想を得たのだった。こうして留学時代からの自由なボヘミヤンとして帰ってきた黒田をまっていたのは、日清戦争(1894-95年)を契機に近代化をさらにおしすすめようとする時代のなかで、一方で旧弊的な美術界とそれをとりまく社会をうちやぶる啓蒙、変革者として、一方で美術教育の面で、自身が修学した同時代のヨーロッパのアカデミックな教育を実践、指導することで制度の補強者としての役割が、好むと好まざるとにかかわらず担わされたのだった。まさに、ひとりの画家としての個性を主張する存在と、近代化の名のもと個を抑制する制度づくりに加担する側という、相反する立場の間で、黒田は抵抗し、悩み、大きく振幅しながら生きていったのである。
 まず、その変革者としての側面をみていこうとおもう。帰朝後の翌年には、かつて黒田を画家になることをすすめた山本芳翠は、自らが指導する画塾生巧館をその生徒ごと黒田にゆずった。黒田は、同じく帰朝した久米とともに、この画塾を天真道場と改め、指導することになった。黒田は、この画塾開設にあたり、規定をもうけ、その一項に、「稽古は塑像臨写活人臨写に限る事」とした。これは、彼自身がパリで学んだ西洋絵画の基礎である、素描教育についての指導方針であるが、写真や版画の模写からはじめられていた、当時の絵画教育とはことなり、塑像(石膏像)、ついで活人(裸体)をモデルにしていこうとするものであった。同時に、素描につかう画材も、木炭を使用させた。それまでは、画材もコンテと擦筆(estompe 一般に紙や羊皮紙をまるめて先をとがらせたもので、その先端で鉛筆やコンテの線をつぶして立体感の効果をあげるために使用された。)であったが、それにかわって木炭は、部分の正確な描写よりも、全体的な効果(ensemble)を重視することから使用されたもので、19世紀後半のアカデミスムの思想を反映したものであった。それゆえに、ここで学んだ学生のひとり湯浅一郎は、当時黒田から、「君たちのやつてゐる事もいいが、フランスで一年でやることを五年もかかるので、非常に損をしているのだ」(「私の学生時代」)と言われたと回想しているように、新しい視覚と、それを表現するための画材をもちこんだのである。さらに、油彩表現でも、新しい風景観をもたらしたのだった。同じく湯浅の回想によれば、それはつぎのように語られている。
「外光派も印象派も伝らない時代故、歴史画や、芝居がかつた風俗画、神話画を描くことに熱中してゐたものである。従つて展覧会等に見る画も、日光だとか、御霊廟及神社仏閣等に人物を配したもの等が多つた。而し黒田さんが帰朝されてからは、急にそれが変つて来て、草一本にも、何もない原にも、そこに自然を見出すことが解つて来て、人為的なものを避ける傾向になつて来た様である。」(同前)
 ここからは、名所絵的な風景観から解放され、たとえば帰朝後の作品である「横浜本牧の景」のように、自然の一角を明るい色彩と筆触をいかした外光描写でいきいきと表現することを学んだことがうかがわれる。木炭による素描にしても、こうした風景画にしても、黒田はまさに視覚の変革をうながしたのであった。
 また、帰朝後の黒田に、社会的に注目をあつめることがおこった。1895(明治28)年4月、京都で第4回内国勧業博覧会が開催され、黒田は、審査官をつとめるかたわら、滞欧作である「朝妝」を出品し、妙技二等賞を受けたのだった。ところが、この作品が裸体画であり、博覧会という多数の観衆をあつめる場に陳列されていることに、風俗を乱すものとして、諸新聞がいっせいに非難の記事をかかげたのである。作品自体は、公開されつづけたものの、こうした論調はいずれも芸術の問題というよりも、風俗壊乱として批判するものが大半であった。僚友久米が裸体画擁護の反論を新聞に寄稿したものの、渦中の黒田はつぎのような手紙を久米におくり、沈黙を守りながらも、抵抗の姿勢をくずそうとはしなかったのである。
「どう考へても裸体画を春画と見做す理屈が何処に有る 世界普通のエステチツクは無論日本の美術の将来に取つても裸体画の悪いと云事は決してない悪いどころか必要なのだ大に奨励す可きだ(中略)今多数のお先真暗連が何とぬかそうと構つた事は無い道理上オレが勝だよ兎も角オレはあの画と進退を共にする覚悟だ。」
 裸体画の公開をめぐる、新聞の批判や、官憲による取締は、その後もくりかえしみられたのだが、その最初がこの事件だったのである。
 いまひとつ、やはり同年10月、黒田の作品が注目されることがおこった。当時の唯一の洋画の美術団体であった明治美術会の第7回展に、黒田は、滞欧作21点を出品した。これには、久米も、そして天真道場で学ぶ青年画家たちもこぞって出品したのである。これによって、黒田たちの外光表現による作品群と、それ以外の画家たちの作品群との表現の違いが、あたかも二分されたように観る者にうつったのである。この現象を新旧の対比としてとらえたのが、当時の諸新聞の批評記事を中心とするジャーナリズムであった。しかも、対比というよりも、黒田たちを新派、それまでの明治美術会の画家たちを旧派、さらに紫派と脂派、正則派と変則派などと、あたかも流派の対立のようにさまざまな呼称をつけながら報じたのである。これは、印象派以前、以後の視覚、絵画観、技法の違いから生じたことで、新派の頭目とされた黒田自身も、当時その違いをつぎのように語っていたのである。
「安芸の宮島とか、それから天の橋立とか云ふ名高い景色を、似た様に習た様に書くのが、旧派です。景色なら景色の形を記すのが旧派、新派と云ふ方は先づ其景色を見て起る感じを書く、或る景色を見る時には雨の降る時もあり、天気の極く宣い時もあり色々ある、其変化を写すのです」(「洋画問答」)
 こうしてジャーナリズムにあおられて、一層明瞭になった画風の違いばかりでなく、会頭をいただき、規則づくめの明治美術会の官僚的な在り方にも、黒田は不満であった。そのため翌年6月に、黒田、久米、そして彼らのもとで学ぶ青年画家たちと会を結成したのである。彼らが好んだ濁り酒「シロウマ」から名付けられたという、この白馬会には、明確な会則はなく、役員もおかず、自由平等を主義に会員たちの作品を展示する展覧会をひらいていくことになった。白馬会は、1911(明治44)年に解散するまでに、はぼ毎年展覧会を開催し、13回展までつづいた。この白馬会展は、明治後半期の洋画界をリードし、藤島武二、青木繁など数々の才能を開花させた意義は大きかったといえる。
 これまで述べてきたように素描や風景画を通じて視覚の変革をうながしたことと、裸体画公開と白馬会結成にみられる抵抗と反発の姿勢は、リベラルな精神と新しい表現を身につけた美術界の啓蒙、改革者として黒田が登場したことをもっともよくものがたっていた。しかし一方で、白馬会が結成された年に、東京美術学校に西洋画科が創設され、その指導者に迎えられたのである。これは、美術学校を舞台に、本格的な西洋画教育の実践を通して、アカデミズムという制度を築く役割をになわされたことを意味している。リベラルな画家としての個の主張と、教育者、指導者としての立場、この相反するものが、同じ年に黒田にふりかかっていたことは、興味深い。それによって、黒田のなかに葛藤が生じたわけではない、むしろこの両面を正面からうけとめているのをみると、明治という時代の新帰朝者としての自負と使命観にも似た意識がはたらいていたのではないだろうか。
 さて西洋画科開講当時、黒田は、その教育方針や抱負を語るなかで、その最終的な目標をつぎのようにしめしていた。
「絵画に於ける脳裏の教育即ち人物の置き方、光線の取方、色の配合など其想像力を養いつつ絵を教へて往くには勢ひ課題が必要、殊に歴史画なる時は其想像力を及ぶ限り広げることに便利が多い。(中略)歴史画を課題とすればとて、何も歴史画を重んじての訳ではない。仮令ば知識とか、愛とか云ふ様な無形的の画題を捉へて、充分の想像を筆端に走らす如きは無論高尚なことなれど、二三年やつた位の処では出来そうにもない、其れは先づ相当な歴史画を将つて、其課題とするのが至極稽古中に適すると思ひます。」(「美術学校と西洋画」)
 黒田は、その目標を歴史画、あるいは「無形的な画題を捉へて、充分の想像を筆端に走らす」絵画においていたことがわかる。これは、主題としては歴史、神話、宗教、もしくは思想、哲学などの抽象的な概念をイメージとして、群像によって構成した大画面の構想画(composition)とよばれるものであった。そして、自らも、その構想画を試みようとしたのだった。それが、「昔語り」である。
この作品は、先に述べたように、帰朝直後の京都旅行で着想された。黒田の回想によれば、たまたま通称歌の中山といわれる清閑寺を訪れ、そこの僧が語る「平家物語」中の小督の説話を聞いていたところ、「こんな事を話したのが、話が上手で、何だか変な心地になつて来た、まるで昔の時代が其侭出て来るやうな心地がした、(中略)実に不思議だ、之を一つ何か拵えて遣らうと思つたのです。」(「洋画問答」)と語っている。そうした着想をあたためいたところに、すでに留学時代に知己となり、時の文部大臣であった西園寺公望の斡旋により、住友家からの制作費の援助をえることができ、まず着手されたのがモデルをつかっての下絵の制作であった。木炭による素描画稿、油彩画の下絵がそれにあたり、これらの習作群は、第1回白馬会展に出品された。黒田に学び、美術学校の西洋画科のたったひとりの第1回卒業生となった和田英作は、これらの習作群を展覧会場で見たときの印象を、「一枚の画を構成(コンポーゼー)するのには、かく迄苦心せねばならぬかと驚いたのは敢て自分ばかりでは無かつた様だ」(「五年前と今日」)と述べている。ここからも、黒田は自身の創作においても、構想画の制作ぶりを示そうとし、また後進に伝えることができたのだった。しかしながら、その制作方法としては、黒田の意図したアカデミズムのなかで最高位にある構想画ではあったが、主題そのものは歴史から得たイメージを表現するために構成された同時代の風俗画とよぶべきものあった。しかも、これを契機に、黒田の先に引用した教育意図とはずれながら、東京美術学校の卒業制作、白馬会には、明治の風俗画がつぎつぎとあらわれるようになったのである。なお、作品は1898(明治31)年に完成したが、壁画を意識したようなこの意欲的な大作も、「朝妝」と同じく、先の大戦で空襲のため焼失し、現在ではこの習作群から、黒田の意欲をくみとるしかない。
 つぎに構想画として取り組んだのが、「智・感・情」である。それぞれ金地を背景にして、異なるポージのヌードの女性像三面によって構成したこの作品は、黒田は「昔語り」と同様に意欲的に、取り組んだはすであるが、不思議なことにその制作意図を明らかにしていない。そのため今日にいたるまで、研究者の関心をひき、さまざまな研究が公けにされている。ただし、この作品は、人体のポーズによって、抽象的な概念を表現しようとしたものであったことは確かであるが、それが日本、東洋でも、西洋でも共通の概念と、それにつらなるイメージではなく、黒田自身の創意であったのではないかということは、現在のところ共通した理解となっている。右手を額にかざして左手を腹部にそえた右側の像が「智」、中央の両腕をなかばあげた像が「感」、そして右手で長い髪を握っている左側の像が「情」である。たとえば、当時の新聞の批評記事からは、黒田からの伝聞として、「智」が理想(Ideal)、「感」が印象(Impression)、「情」が写実(Real)を意味し、そうした概念の寓意像であったとしている。(「白馬会素人見の記」『読売新聞』、1897年11月29日)このように、さまざまな人体のポーズによって、抽象的な概念や思想という見えざる世界をイメージとして寓意する点では、黒田は世紀末の象徴主義絵画から影響を受けていたのではないかとも考えられる。また、日本の女性をモデルにつかった裸体像で公にされた最初の作品でもあった。1897(明治30)年の第2回白馬会展に出品され、後に加筆されて、1900(明治33)年のパリで開催された万国博覧会に「湖畔」などとともに出品された。その後、黒田の構想画は、「花野」などで試みているが、いずれも未完におわっている。そうした未完の想いは、終生いだいていたようである。

4.おわりに 清輝晩景

 1907(明治40)年に第1回文部省美術展覧会(文展)が開催された。文部省が文教政策として、美術を奨励するために公募の美術展をひらくことになったのである。これは、黒田も、かねてから主張し、政府にはたらきかけていたことであり、美術団体の別なく、応募でき、審査によって入選、受賞がきめられるものであった。文展が回をかさねていくと、白馬会の会員たちも、文展の方に主たる作品を出品するようになっていった。そのため、ついに白馬会も解散ということになった。ちょうど、最後の白馬会展が開催された1910(明治43)年10月、黒田は帝室技芸員を命じられた。これは、その作品とともに、東京美術学校、白馬会、そして文展の審査委員など、教育行政面での活動がみとめられたためで、洋画家としては初めての任命であった。この当時のことを、つまり黒田の晩年について、つねに傍らにいた久米は、「美術家としての生涯は先づ此時代に終つた。其後は寧ろ政治家として、美術の全体に関係した事や、外交関係の事に尽力される様に成つて、製作の方は其後余り多くなかつたと思ふ。即ち黒田君の美術家としての生活は、日本に帰朝してから後、約二十年であつた。」(「亡友黒田清輝とフランスに居た頃」)と語っていた。実際、貴族院議員(1920年)、さらに帝国美術院院長(1922年)などの要職につき、美術行政の面での活動が多くなり、画家としては、小品を発表するにとどまったのである。そうした晩年の黒田のつぎのような談話からは、画家としての本心を聞くことができる。
「私の欲を言へば、一体にもう少し、スケツチの域を脱して、画を云ふものになる様に進みたいと思ふ。まだ殆んどタブロウと云ふものを作る腕がない。(中略)どうしても此のスケツチ時代を脱しなければならん。今の処ではスケツチだから、心持が現はれて居るが、スケツチでない画にも、心持を充分に現し得る程度に進みたい。私自身も、今迄殆どスケツチだけしか拵へて居ない、之から画を拵へたいと思ふ。」(「スケツチ以上に進みたい―第十回文展に対する感想」)
 この黒田の言葉は、彼自身が、いまだに画(タブロー)としての構想画を描きあげていないという思いと、これからの意欲をつたえているが、はたして彼はなしとげられなかったのである。しかしながら、黒田のもたらした新しい絵画表現と思想、そしてリベラルな精神によって、日本の美術界は大きく変わっていったことは事実であり、その功績は、残された多くの作品とともに、今もなお高く評価されている。