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第37回文化財の保存及び修復に関する国際研究集会
Session 2 個としての「かたち」
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9:30-9:40 セッション趣旨説明

セッション2:個としての「かたち」
塩谷 純(東京文化財研究所)


 ある作品に魅かれるとき、わたしたちが強く感じるのは他の「かたち」との共通性よりもむしろ、そのとびぬけた特異性でしょう。時代から超絶したかのような異色の作であれば、その隔たりはなおのこと強く感じられます。そのような突出した「かたち」は、他の「かたち」との連関はもちろん、同時代のコンテクストと結びつける歴史的な語りを容易には認めてくれません。

 このセッションでは、そうした個々の「かたち」のもつ特異性にあえて注目します。普遍的に通用する法則を見出そうとする学のあり方とはなじまないかもしれませんが、いわゆる名品・名作に彩られた芸術を対象とする学において、特異性と普遍性との相克は避けて通れない課題のはずです。個々のユニークな「かたち」を対象としながら、どのようにすれば開かれた語りが可能なのか、その術を模索したいと思います。




9:40-10:10 発表1

美麗の術 ─ 国宝千手観音像の場合
小林 達朗(東京文化財研究所)


 12世紀、日本の仏画は、微妙な色彩の変化と、微細な文様描写によって美を「かたち」にした。東京文化財研究所は、東京国立博物館に所蔵される平安仏画の高精細デジタル画像撮影による調査を東京国立博物館との共同調査として行っている。この発表では、共同調査の対象のひとつである東京国立博物館所蔵の国宝・千手観音像をとりあげ、得られた画像の精査を試みる。すなわち、個の作品の「かたち」を詳細に見てゆくことによって可能となると思われる、ひとつの美術史的アプローチの可能性、意義を考えるということである。ここにいう「かたち」とは、輪郭線などによって、抽出することのできる狭義の「かたち」(shape)ではなく、美的表現を実現せしめる絵具や截金による素材とその使用法に根ざし、可視化された広い意味での「かたち」である。

 平安仏画についての、それを成り立たしめている図像学的、歴史的、また宗教的な背景についての研究は、これまでに多く蓄積されている。一方で、平安仏画の技法はきわめて微細であるため、その表現について「語る」ことは、作品の詳細な実査が可能な限られた研究者においてのみ可能であるという性格をもってきた。また、それによって得られた成果を他の研究者が再検証もしくは追体験することは容易ではない。東京文化財研究所が持つ画像の技術は、この課題を考える上でのひとつの有効な手段と考える。この発表では、主として次の点を述べたい。

 第一。今回の共同調査の画像を通して見えてくる、図版や通常の展示作品を見ることでは認識が困難な細部を紹介する。そこには作り手の非常に繊細かつ具体的な技術が見られる。それは作品の表現そのものに関わるはずである。ここでは、ことに截金の使用方法を中心に、作り手の繊細な配慮がある点を指摘する。

 第二。截金を仏画に取り入れたことは、平安仏画における大きな転換であった。そのために作り手には越えなければならない問題があったであろう。その解決のためには具体的な技法が必要とされ、それによって平安仏画の美が実現されたであろう。またこのことは美術史の方法のひとつである歴史的研究の成果と関わる。

 第三。12世紀の平安仏画は、その表現、ことに金銀の使用によって、「装飾的」などの言葉によって時に評されるが、千手観音像の詳細な観察かをふまえて改めて「装飾性」の問題を考えたい。本発表タイトルの「美麗の術」は『維氏美学(いしびがく)』中の中江兆民の訳語をあえて借りたものである。

 第四。「個としてのかたち」を詳細に見ることと、同じ時代の多様な作品から美意識を抽出して理解しようとする方法を取った時の「ことば」との間に起きる問題を指摘し、「個としてのかたち」をよく見ることの意義、ことにそれが類似した作品をもよく見ることにつながるであろうこと、「開かれた語り」のための方法の可能性について提示を行いたい。「個」をよくみることと、「ことば」による認識は、常に往復を繰り返すべきものであろう




10:10-10:40 発表2

「かたち」への挑戦 ─ 岡田三郎助と藤田嗣治
内呂 博之(ポーラ美術館)


 「洋画」と「日本画」、これら近代日本の絵画における二つのジャンルは明治初頭に区分けされたという。わが国の美術史に新たに登場した「洋画」によって、その対立する概念として誕生することとなった「日本画」。このジャンルに属する絵画であるためには、基本的には膠(和膠)という媒材(メディウム)の使用が必須であるが、一方、「洋画」は乾性油を媒材とする油彩画をはじめ、アラビアゴムを用いる水彩画やトラガカントゴムを用いるパステルなど、西洋の美術において発展を遂げてきた様々な表現形式を含んでいる。昨今の日本の絵画においては、乾性油や膠といった媒材に拘泥せず、様々な物質を同一作品において併用し、あるいはそれらを作品によって使い分ける画家とその作品を目にする機会が増えてきた。それはすなわち、近代以降の産物である「洋画」あるいは「日本画」といったジャンルにこだわらない、あるいはそれらのジャンルを超越する絵画をめざす画家たちが増加している証左でもあろう。しかしながら、そのような画家たちの登場は近年に限った傾向ではなく、すでに「洋画」が公の場(官展)においても認められるようになった明治末頃からみられる。本発表では、近代の洋画家のなかから、とりわけ「洋画」と「日本画」というジャンルの垣根を越えて制作をおこなった岡田三郎助と藤田嗣治に焦点をあて、彼らが追求した独自の絵画表現、すなわち平面の上に形成された「かたち」を技法・材料的な見地から考察したい。

 1897年(明治30)に渡仏した岡田三郎助(1869〜1939)は、「近代洋画の父」と称される黒田清輝の師ラファエル・コランに師事し、油彩画をはじめとする西洋美術を学んで帰朝した。帰国後、東京美術学校で西洋画を教える立場となった岡田は、油彩画の制作と同時に日本画の技法材料研究にも励み、日本の風土に根ざした絵画を模索するようになる。彼が数多くのこした、和紙の上に油彩で描いた絵画、あるいはカンヴァスの上に岩絵具で描いた絵画の存在は、既成の概念を超越する新たな「かたち」の可能性を追求した彼の研究の足跡を浮き彫りにするものであろう。一方、東京美術学校卒業後の1913年(大正2)に渡仏した藤田嗣治(1886〜1968、レオナール・フジタ)は、師の黒田清輝から学んだ洋画や、当時のパリ画壇における絵画の流行とは一線を画し、油彩画のカンヴァスの上に墨で輪郭線を施す「乳白色の肌」による裸婦像によって、パリで画家として成功をおさめた。西洋絵画の伝統を身近に感じつつ、日本人としてのアイデンティティーを追求しながら、過去に誰も経験したことのない「かたち」を創出した藤田。その「かたち」を様々な角度から見つめなおすことで、これまで看過されがちであった作家や他の「かたち」との関連性を新たに見出すことができるであろう。




10:50-11:20 発表3

ポロックをポロックとして見る─ジャクソン・ポロックのオールオーヴァーのポード絵画
大島 徹也(愛知県美術館)


 ピカソ後のモダンアートにおいて、ジャクソン・ポロック(アメリカ、1912〜56年)ほど多くの書き手によって批評ないし研究されてきた芸術家はいないだろう。そうして今日までに、ポロック芸術について実にさまざまな解釈が生み出されてきた。

 ポロックについて書く者たちは、彼の芸術の解釈をめぐって、しばしば激しい対立を引き起こした。ポロックの制作とリアルタイムに展開された批評においては、ポロック絵画の形式的な面に注目したクレメント・グリーンバーグのフォーマリズムと、画家の制作の行為や過程に注目したハロルド・ローゼンバーグの「アクション・ペインティング」の概念が二つの大きな流れを形成していたが、グリーンバーグはローゼンバーグの解釈を、「でっちあげ」であり、最も重要なはずの、結果として生み出された作品自体の質の問題を等閑視するものとして厳しく批判した。

 1970年代には、ポロックがユング派の精神分析を受けていた際に制作していたドローイングがまとまって公開されたことで、ユング理論との関係性への関心が高まり、ポロック芸術に対するユング的解釈が幾人かの研究者たちによって相次いで発表された。しかし同年代末、ウィリアム・ルービンがその種の研究の妥当性を徹底的に否定し、そうしてユング的解釈の流行は終息していった。

 世紀の変わり目頃には、また新たな論争が起こった。1998〜99年にMoMAが大規模なポロック回顧展を開催した際、同展キュレーターのペペ・カーメルは、制作中のポロックを撮影した映像のコマやスチール写真をフォトショップを使って組み合わせ、ポロックの成熟期のいくつかの主要な抽象絵画の制作途中の状態を再現した。そうしてカーメルは、それらの作品の初層や中間層でポロックが実は大雑把な人物像を描いていたことを視覚的に示して見せた。これに対してはロザリンド・クラウスが、カーメルの研究はポロックを伝統的なドローイング家のごときものに貶めるものであるとして、激しく反発した。さらにケント・ミンターンは、クラウスの側に付きながら、カーメルによる映像やスチール写真の編集方法自体を批判し、カーメルはポロックの絵画に人物像を見出すという目的を持ってそれらの素材を不当に操作したと主張した。

 他方で、ポロックの仕事は後続の芸術家たちの間にも大きな反応を引き起こしていった。ヘレン・フランケンサーラーやモーリス・ルイスは、ポロックのポーリングの技法を発展させたステイニングの技法によるカラーフィールド・ペインティングを生み出した。フランク・ステラは、ポロックのオールオーヴァーな構成を独自に解釈しつつブラック・ペインティングに着手し、それはシェイプト・キャンバスへと発展していった。また、そのような絵画芸術内部での展開とは別に、アラン・カプローはポロックの絵画に観者や現実空間との関係性を見出し、エンヴァイラメントという新しい形態の芸術を創出した。その他、ポロックの制作の行為や過程にインスピレーションを受けて、アクションやプロセスを追求する芸術家たちも現れた。

 本発表は、ポロック芸術の解釈をめぐる上記のような批評/研究および制作の展開を振り返りつつ、いま一度ポロックの絵画そのものに立ち返ってポロックの芸術について考えることの意味を問おうとするものである。




11:20-11:50 発表4

歌の〈かたち〉─源俊頼の方法
渡部 泰明(東京大学)


 源俊頼(1055〜1129)は、平安時代後期の和歌史を大きく転換させた重要歌人である。第五番目の勅撰集『金葉集』の撰者となったというだけではない。和歌は、『古今集』以後、規範化を進め、類型化を強めていた。その和歌の表現に、新生面をもたらしたのである。その変革がどのようにして可能になったのか、「擬人法」という〈かたち〉に着目して考察することが、本発表の目的である。

 『古今集』の時代に発達した和歌の技法の一つに「見立て」がある。景物1を景物2と見紛うと表現する歌の〈かたち〉である。この「見立て」は、いわゆる比喩とは異なる。景物1と景物2の類似点そのものよりも、景物1と景物2を同じと見なす身ぶりそのものが眼目である。いわばそれは和歌に表現したい空間を、みやびなものとして体現する演技である。その「見立て」の一種として、擬人法がある。景物を人間であるかのように表す表現法である。景物と人間との関係が、見立ての景物1と景物2に相当する。景物を、みやびな空間の登場人物であるかのように演技させる技法である。源俊頼は、この擬人法を多用した。のみならずその表現は、非常に個性的な様相を示している。

 もとより『古今集』の時代から、擬人法は数多く用いられた。とくに鳥・鹿・虫などの動物はむしろ擬人法的に表現するのが一般的だとみてよい。また、掛詞は、「心物対応構造」をもつというその本質からいって、擬人法的な表現を伴うことがしばしばある。「おみなへし」や月「すむ」などである。しかし擬人法は多用されることによって必然的に類型化を進めることとなり、表現としての衝迫力を低下させた。わざとらしい印象を与えかねない表現となった。高い表現意識をもつ歌人たちは、擬人法を抑制しがちであった。

 俊頼の歌論『俊頼髄脳』は、初心者に和歌の詠み方を指南した書物であるが、その中に「歌題と詠み方」と呼ばれる一節がある。初心者への配慮を持つとはいえ、ここには俊頼の詠歌の方法が表れている。歌の言葉の相互関連の主体的な把握─私にこれを「縁語的思考」と称している─が見られるのだが、その基軸となるのが、動詞を主とした動作表現である。彼は、主体的な動きをもとに歌の言葉を相互に関連付けて体得することを、詠歌の方法の要と見なしていた。

 その俊頼の擬人法は、沈淪や老いの嘆きをテーマとする述懐や、恋歌の情趣を利用しているところに特色がある。とくに述懐は、和歌の抒情性を高める重要な機能をもつとともに、俊頼の詠歌方法の根幹を形成する主題である。述懐は景物に自分をなぞらえる表現法を用いることが多い。擬人法は、景物を人間になぞらえる表現法であるから、両者の距離はきわめて近い。俊頼は述懐の方法を季節の歌に応用したのである。これによって、擬人法は、他者への訴求力をもつ抒情性を回復したのである。

 
 
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