
萩の ゆき(のがし研究所)
里山里海を中心とした農林水産物の商品開発やデザインを手掛ける
石川県輪島市三井町を拠点に、和菓子店「のがし研究所」や、「土地に根ざした学びの場・まるやま組」などを主宰
能登に移住する
―能登に移住されて何年目になるのでしょうか。
今年で21年目になりました。商品開発、デザイナー、和菓子屋、ガーデナー、そんなことをやりつつ、夫と猫と暮らしています。
うちの裏に円山というこんもりとした山があります。能登半島を龍の顔に見立てたら、ちょうど目に当たるところにあって、集落の共有林として、昔はここから薪や炭などを採ったそうです。
この円山のまわりが谷になっていて、田んぼや川や畑がある、そういう里山の景観です。
私自身は1966年に東京で生まれ、消費型のライフスタイルの中で、日本の高度経済成長とともにぬくぬく大きくなりました。大学時代に知り合った夫と結婚して、夫がアメリカの大学に留学するのについて渡米しました。3年住んで、1度東京に戻ってきて、もう一度渡米して4年住んで、その間に3人の子どもが生まれました。
1回目に渡米した際は、アメリカや欧米文化に対してものすごく憧れがありました。でも向こうで「日本ってどんな国なの」と聞かれて、日本のことを全く知らないことに気づいて。
1度日本に戻ってきた時も、東京の外国人コミュニティにいると、民具や着物など、私達が見向きもしなかった日本の古いものを、みんながおしゃれなインテリアとして使っているのを目の当たりにしました。
民具をおしゃれに並べたり、古い器でご飯を出したり、それが素敵だとみんな言っていて、逆に彼らから日本の良さを教えてもらう様な経験でした。
今は少し違う感覚なのですが、その時に民具にも目を向けるようになったという意味では、影響が大きかったと思います。
―能登にはゆかりがあったのですか?
アメリカと日本を行き来しながら子育てをする合間に、和紙を綴じて作る本づくりを習っていました。その関係で、日本でぜひ紙漉きを習ってみたいと思って、エイミー加藤さんという方に相談したんです。
エイミーは麻布十番でBlue & Whiteというセレクトショップを経営していました。工芸はもちろん、日本の農村の暮らしにも興味があってネットワークが広かった。
それでエイミーに、どこかで紙漉きをやってみたい、そして自分が紙漉きを習っている間に子どもたちを山村留学させたいと相談しました。
そこで紹介してもらったのが、エイミーが校長先生と個人的な知り合いだった能登の三井小学校でした。
水とともにめぐる暮らし
実際に三井小学校に通うことになって、「となりのトトロ」みたいな古い家を借りて家族で1ヶ月半を過ごしました。
それまで都市型・消費型のライフスタイルしか知らなかったので、見たことも聞いたこともないことにたくさん出会って、「同じ国の同じ言葉を喋る同じ時代なのに、何これ!」と。
「何かすごい!」と思ったけれど、その時は何がすごいかさえわからなかったんです。
その時に住んだ家には上水道がなかったので、飲み水は裏山で湧いた水でした。その水をまず、家の土間の裏にあるミズブネに引き込んで、そこでゴミなどを沈殿させてから上澄みを飲むんです。
そのミズブネを見たら、中にサンショウウオやヨコノミ(エビ)がいたり、落ち葉がたまっていたりする。それを見て不安になって、「ちょっと水質検査に出そうかな…」と出かけようとしたら、たまたま集落の長老に会って、「おお、サンショウウオがおるけ!なら、ええ水や!」と言われ、「じゃあ、いいか」と (笑)。
それまで「蛇口を捻れば水が出る」と疑うことがなかったので、そういう水との出会いがとにかく新鮮でした。
この水は田んぼに流れ込んで稲を育て、畦では小豆や大豆を育てる。
冠婚葬祭や祭では、この米をこの水に浸し、その中にこの小豆を入れて蒸すだけ。能登では、お葬式の時にも赤飯を蒸すんですね。
だから本当にここにあるものだけ、自分たちの手から生み出せるものだけで、生まれてから死ぬまでの全ての節目を祝う。
経済の介入なしに、「おめでたい」「嬉しい」「ありがとう」を身に取り込むのはすごいなと、ガツンと頭を叩かれたような気持ちになりました。
「豊か」ということの意味を考えました。
そんな体験を経て、やはり東京生まれの夫が、「ここで感じた良さは東京にはない、ここで子育てしよう」と言い出しました。私は「そんな簡単であるわけがない」と思ったのですが、夫が半ば強引に進めて、喧嘩しながらもとにかく来てしまった。
1番下の子がまだ1歳で、おっぱいを飲ませながらでした。
風呂は屋外の離れにある五右衛門風呂で、極寒期にはタオルと毛布を準備しておいて、全裸で子供を抱っこして走っていって風呂に入れて、「出た!はい、2人目!」みたいな(笑)。
だからそんなに美しい話ではなく、とにかく必死でした。冬も雪囲いをし家の中が暗いものだから、半分鬱っぽくもなりました。
その時は苦行みたいですごく嫌だったのですが、そういう暮らしを5年くらい経験する中で、「昔の人はうまいことやってるな」と思うことがあれこれあったんですね。
ここの人たちがいかに自然を観察し、時に身を任せ、時にうまくいなしたりしながら、したたかに恵みを得ているか。そしてそのことに感謝しているか。
そんな里山の知恵を叩き込まれました。
土地に根差した時空間と風景
そのうち5年ぐらいで今の家を建てました。集落の人に助けられながら、ここに生えていた木を使ってセルフビルドで建てたんです。
ともかく風呂やトイレが家の中にあってホッとして、それでこの窓から見える風景を眺めながら、「憧れの“里山暮らし”をしてるんだわ」という気になっていました。
それで、集落から田畑に行くのに村のばあちゃんたちがうちの前を通っていくので、それを毎年、何となく見ていました。
すると、毎年同じ時期に、ばあちゃんが山で採ってきた何かの枝や草を持って歩いている。
「あの棒、去年も持ってたな」と思って、前の年に何となく撮っていた写真をみたら「やっぱり持ってる!」って(笑)。
それで「それ、どこで採りましたか、何のために使いますか、どのように保存しますか」と聞き始めたんです。
―まさに民俗学の「聞き書き」ですね。
そうなんです。でも何のために聞くかというと、それを「やりたい」から聞くのであって、だったら「聞き書き」じゃなくて「聞きやり」にしようと。「聞いてすぐやる」ことにしました。
それで、地元のばあちゃんについて行って、ここは誰さんの田んぼ、ここは誰さんの何、と教えてもらった。
すると、これまでぼんやりと「田んぼ」や「緑」に見えていたところが違って見えてきました。そのばあちゃんは、田んぼに行く途中に畑に寄って草を刈っていくのですが、その時、自分の畑のちょっと周りまで刈るんです。
またちょっと行ったらタキモン(薪)の小屋があるので、崩れたタキモンを積み直して、また行ったら田んぼがあって水の管理をしたり草を刈ったり、そして帰りにちょっと山に入ってキノコを採って帰る。
そういう人が10人ぐらいいると、それぞれが管理するところがパッチ状になって、しかもその境界が少しずつオーバーラップして、そうすることでこの景色ができているということに気が付きました。
そのことを、空間でなく時間で見たらどうだろうと思いました。
さっきのおばあさんは毎年4月にはリョウブの枝を採ってくる。まだ芽吹いていない枝を畑に刺して、エンドウの「手(支柱)」にするんですね。
6月には田んぼの畔に大豆を蒔く。味噌やオカズにしたり、これを売ってお金にして、秋に穴水の大市で鍋釜や肌着を買うんです。
こうして、季節ごとに土地と関わっていく。
しかもただ関わるだけじゃない。
リョウブを刈ることで円山の林縁が綺麗になって、背の低い植物たちにも光が当たるようになり、生物が多様になる。
畔の豆は、科学的には田んぼに窒素を固定するので米の育成にいいし、土木的には豆の根が張って水が抜けるのを防いでくれる。
関わることで自分たちも恵みを得られるし、山も田んぼも豊かになっていく。
集落の人々が円山の周りで、様々な用途の土地に愛着と責任を持ちながら、自然の暦に沿って暮らしていることが少しずつ見えてきて、この家のリビングの窓から見て、何となく“美しい里山暮らし”と思っていたのは、実は大いなる営みの環がぐるぐると回ってできあがったものだったと。
そして移住してきた私達が別荘の様に住むだけでは、単にその「豊かさ」を消費しているだけなのではと思い至りました。
最初に山村留学したときに私が「何かすごい」と感じたのは、この土地に根ざしている感じだったことにも、うすうす気が付きはじめました。
―こうして土地や季節と深く関わる感覚は、現代社会では得がたいものかもしれません。
はい。今の私は、自分の家はここだけれど、この辺り一帯が気になる。土地の所有者でもないのに、この辺全体が「自分の軸」という感覚を持っています。
よそ者の私ですらそうなのだから、ばあちゃんたちはもっと鮮明にそういう感覚を持っていると思うんです。
そういう「野生の感覚」のような土地との関わり、時間との関わりというのは、東京やアメリカにはなかった。
そのことを、私ひとりが思っているだけでは勿体ないと思って、「まるやま組」という名前で月に1回、この家を開放して活動を始めました。
ちょうどその頃、金沢大学の生態学の先生が植物のモニタリングをしていたので、ここにいつどんな花が咲き、それがどのように使えるかというモニタリングをまるやま組でもやりました。
―どのような方が参加されるのですか?
参加者は毎回、20人ぐらいでしょうか。
老若男女いろいろな人たちがいろいろな地域から参加してくれたのですが、誰かが来てレクチャーするのではなく、例えばモニタリングの時も、生態学の先生が「これはフウロソウ科のゲンノショウコという植物で…」という話をしたら、集落のばあちゃんが、「それは腹下した時に使っとった」「この蕗の葉で柄杓を作っておもちゃにした」「秋のおやつはアケビやカシバミ(ツノハシバミ)を青いうちに食べた」とか、なるべくいろいろな目線で学び合える雰囲気になるようにしていました。
それで食べられる植物を見つけたら採ってきて、ここのキッチンで一緒にご飯を作ったり、豆の栽培方法をおばあさんたちに習ってお醤油を作ったり、できたものを商品化したり。
またわかったことを子どもにもわかりやすい暦にまとめて、小学校の授業をやらせてもらったり。そんないろいろな実験を、東京農業大学や国連大学のような、地域のことを研究したい大学と連携しつつ、やりました。
(萩のさん提供)
「ここにある」を探す
―子育ての一番大変な時期に移住して、ミズブネの中にサンショウウオがいて、そこで嫌になってしまう人もいると思いますが、折れずに次々新しい活動を始められたのはどうしてだったのでしょう。
最初はもう嫌で、隙あらば戻りたいと思っていました。
でも嫌だ嫌だと思っているループの中にいた時に、「ここまで来たら、この私を脱いで捨てていこう」と。
ある時、思ったんです、青山や表参道を歩いていた時の自分が素敵だったみたいに思うのに、じゃあなぜ畔を歩く私は素敵ではないのかと思ったら、それは青山や畦の問題じゃない。
自分に何もないから、何かを消費しないと耐えられなかったんだということに気が付きました。
自分に「生み出す力」があれば、そうは思わないんじゃないかと思ったら、俄然「何くそ!」と腹が立ってきて、「何か生み出してやる」と思いました。
それで、「じゃあ本当に周りには何もないのかな」と思って見渡してみたんです。
ちょうど植物のモニタリングをしていて、何がどこにあって、それがどう利用できるかがわかってきたことが、私にとってはとても大きかった。
例えばクワ科の植物でも、こっちはヤマグワで美味しいクワの実がなる。こっちはヒメコウゾで和紙の原料。
2種類の植物が「ある」。
ぼんやり「緑」と思っていたものが、科学の目で見ると、一つ一つが違う「ある」になる。
それが淡々とわかってきて、「これもある、あれもある」「これも使える、あれも使える」となって、どんどん面白くなっていきました。
―解像度がどんどん上がっていったのですね。
そうですね。さらに自分の中にも「できる」が増えてきた。
例えば春、畑にタイバジル種を蒔いておいて、夏、ナスやピーマンや唐辛子を収獲する。そしてナムプラー代わりに能登のイシル(魚醤)を使えばタイカレーが食べられる。
でも東京でタイカレーを食べたかったら、どこかのおしゃれマーケットに行って、お金を出してハーブを買わないといけない。
都会では年中タイカレーは食べられるけれど、うちでは夏野菜の美味しい時にしか作らない。
都会では「コスパ」「タイパ」といった経済のしがらみから逃れるのは難しいですが、能登で見聞きした「豊かさ」は誰かと比べたり取られたりしない、何ならあげても損をしない、そんな本質的なものの様な気がします。
暮らしと自然をつなぐ民具
―そういう暮らしの中で、どうして民具を使うようになったのですか?
私達が初めてここに来た2011年頃、町野町に輪島市立民俗資料館があって、古い小学校を収蔵庫にしてたくさんの民具が集められていました。
それで夏の暑い時に子どもと一緒に見に行きました。
そのときはまだ「エイミー加藤の目線」で、本来の農作業の道具として使う発想はあまりなかった。
でも中に入った時に壁一面に民具がワーっと掛けてあって、何か「気」のようなものを感じたんです。
全て人が作ったものが持つ力、素材の力強さが、ちょっと恐ろしいほどでした。
その少し後に資料館が閉鎖されることになって(編者注:輪島市立民俗資料館は2011年に閉館となった)、民具を全部捨てるから持って行っていいということになって、その時に藤箕などいくつかの民具をもらってきました。
それを最初はエイミー的に飾っていたのですが、小豆を作るとなった時に、みんなの家の軒下に箕があったのを思い出しました。
集落には毎年富山の氷見から行商が来て、古米と物々交換で藤箕を置いて行ったそうなんです。
それで「あ、使えばいいんだ」と思って。
それで使ってみたら本当にすごかった。
―箕の使い方は誰かに教えてもらったのですか?
最初に小豆や大豆を作ったのはまるやま組の活動のひとつだったのですが、その時に草刈りから収穫までの農作業の一部始終をばあちゃんたちから習いました。
豆の調整は、とにかく振るって振るって振るい続けるんです。
殻やゴミを飛ばし、土を飛ばし、虫を飛ばし…果てしない選別を思うと、箕があるとないとでは全然違う。
畑から持ってきた打ち立ての豆は泥も殻も石も入っていて、夕方、途方に暮れていたら、ばあちゃんたちが唐箕でカラカラカラっと飛ばして、箕でチョッチョッとあおった。
そうしたらぐっと豆っぽいものになった。
こんな短時間で電気も使わずにできるのはすごいなと。
収獲した穀物や何かは、とにかく早く家に入れられる状態にしないといけない。夜が来るか、雨が来るか、冬が来るか、とにかく時間勝負なんですね。そんな時に民具はすごい威力を発する。
―民具はこの辺りで集められたのですか。
2007年の能登半島地震の時、建築家の夫が土蔵の修復などのレスキューをした時にたくさん民具が出て、それをいくつも拾ってきました。
集落でも使わなくなった塗り物などをもらっていると、だんだんみんなが「これもあるよ」と持ってきてくれて、何となくもらう機会も増えました。
ソウケはここに来るまで見たことがなかったのですが、これがものすごく便利なんです。
物を容器に入れる際はソウケのすぼんだ口がすごく役に立ちます。
洗って濡れたままの具材を入れることもあるし、畑にそのまま持っていって収穫の容れ物にしたり、木の実を取りに山に持っていくこともあります。
ステンレスのザルは外に持ち出さないと思うのですが、竹のザルは自然のエリアと食べるエリアを行き来できる。
スーパーで売っている綺麗な野菜と違って、収穫したばかりの野菜は皮や穂や泥がついています。
そこから食べる状態にするまでのいろいろなステップを踏むのに、竹のソウケはとても有能だと感じます。
あとは大きさですね。収獲してくる時、嵩が大きいもの、ワシャワシャしたものを入れるのに、ステンレスのザルでは小さすぎる。
熱にも強いのでお湯をジャっとかけても大丈夫です。
これはマメンボウと言って、木の曲がりを利用して作った道具です。
シンプルな道具ですが、ほのぼのした名前で、どの家の納屋にもあって、ばあちゃんたちがピストルみたいに腰に差して持ち歩いていました。
スマメの木と呼ぶナツハゼで作った
家によって形が違って、傷んだところを金属で補強して布で巻いたものや、マメボウチョウと呼ぶ、能登の鍛冶屋さんが作ったものもあります。
豆を植えるときは、マメンボウをグッと畔に差してから角度を付けると、そこに隙間ができる。
そこにポロポロポロっと豆を3粒入れて、マメンボウでちょんちょんと土をかける。
これがないと毎回しゃがまないといけないので、マメンボウがあると楽なんです。
おばあさんたちは、お嫁さんに畑を譲る時にこのマメンボウを渡したとも聞いています。
そういうことをいちいち聞いて回るのが楽しくて。

使うことで見えてくるもの
―実際に使ってみて、民具の印象は変わりましたか?
最初はエイミー加藤的視点から始まったのですが、実際に使ってみると民具はものすごく強い。堅牢なんですよ。
ジャブジャブ洗ってもいいし、泥のものを入れてバンバン叩いてもいい。
それなのに、まことしやかに「用の美」とか「民芸」と言って、「用って何の用だい?」と思って (笑)。
おしゃれな雑誌を入れてソファーの横に置くのではなく、もっとガンガン使ってあげたい。
元の用途や背景に立ち返ることで、もっと民具の良さを掘り起こして、民具が元々持っている力を生かせるようにしたい。
そうしないと、優秀なアスリートに全然違う競技をさせるみたいで、もったいなさすぎます。だって材料の調達からものすごい手間をかけていますよね。
なぜこの素材を使って、なぜこの形になっているかには意味があるから、そこに寄り添いたいですよね。
―そうした道具としての凄さは、実生活で使ってみないとなかなか実感できないかもしれませんね。
やっぱり経験がないと、そうは思わないかもしれません。
やってみた経験をもって、古いものと対話をする。
「だからこういうふうにできてんだな」とか、「ここが補強してあるのはそのためなんだよね」とか。
そんなことを感じると、「なんかかわいいな」と思ったり、民具を作った人と話したような気になったり。
例えばこのザルでも、タケをこの太さで割ったときの、一つ一つのヒゴの曲面がどのくらいのアールかということが、ザルになる時のミニマムな単位になっていて、もうそこから追い込まれるようにこの形になっていく。
これ以上でもこれ以下でもないデザイン。
そういうことはもう意識を超えて、感覚でそうなっていくように感じます。
そしてみんな、本当に自然をよく見て、捉えている。
材料の採り時がいつ頃かとか、そういうことを見聞きしたり真似したりしながら、自分でも何回か繰り返して失敗して、それがその人の手になっていく。
いつ頃になったらこれくらいの硬さになって採りやすいかとか、そういうことが脳や五感と繋がっていく。
―民具の背景に、そうした土地に根差した知恵や感覚がある。
はい。そしてさっきも言ったみたいに、そうした感覚が地域全体を覆っているように感じます。
ここに生えているあの植物がこのくらい育ったときに下ごしらえしておけば役立つみたいな、ひとつひとつの知恵や経験や感覚が、この谷間全体にモヤモヤとクラウドみたいに掛かっている。
そういうことが分断されて、プラスチックやビニールで作った道具になると、やっぱり全然違うことになるんですよね。
こうして自然と深く関わる暮らしは、実は都会だってその気になればできるわけです。
プランターだってちょっと植えれば何かが育つし、軒下に何かちょっと吊るすとか、案外やればできるのに、もったいないと思ったりします。
もちろん私も基本は都会の人で、今でも密林(Amazon)で何でも買うし、消費が大部分です。
でももうちょっと、気軽に生産と消費の間を行き来してもいいなと。
―そういう選択肢があることを知ることが大事ですよね。
そう。大地震が起きて全てがストップしても、普通に暮らせるという選択肢。お米の値段が急騰したり、コロナ禍になったり、自分たちではどうしようもできない大きな流れの中にいるからこそ、そういう道を持っていることが大事かなと。
のがし研究所とその後、「生み出す」活動
これはお菓子の木型です(写真10)。昔、外国の方たちに付き合って骨董市に行ったときに、インテリアとして買ったものです。それが30年を経て和菓子を作り始めて、「この型に何か詰めて作ったらかわいいんじゃない」って思ったら、「いや、これ本来そういうのだ」って(笑)。
和菓子作りを始めたのは、どちらかというと「経済」の視点からです。
「ここの暮らしは豊かでいろいろある」と未来を担う子どもたちにいくら言っても、「本当にそれで食べていけるか、試してみないとずるいでしょう」と思って起業しました。
自分で育てた植物を使って新しい価値を生み出せないかと考えました。
それもカフェやパン屋といった洋風のものではなく、ここにある材料で無理なくできて、文化やデザイン、ストーリーがしっくりくるもの、と考えて和菓子にたどり着きました。
ここにしかないものは誰にも真似されませんし、グローバルに見たら「和」のものが絶対にかっこいいとも思いました。
やってみたら面白くて、どんどんいろいろな実験をしました。
例えば円山で採れるお菓子の素材を二十四節季に落とし込んで、それぞれの季節の草木が入った「琥珀糖」というお菓子を作りました。
年中同じものではなく、季節ごとの味があるということですね。
こうした実験はすごく楽しかったし、経済的な意味での目標は達成できたのですが、原料を仕入れて作るのと違って、豆の種を蒔くところから始めると、ひとつひとつの下ごしらえが膨大で。
この豊かさは「売り物」にするより、家族で味わう滋味深い「郷土料理」みたいな性質のものかなと感じ始めています。
そんな時に能登半島地震(2024年元旦)が起きました。
それでいまはだんだん「庭」の方にシフトしてきました。
―「庭」とは具体的に何でしょうか。
地震の後、毎日解体の音がゴーンゴーンと鳴り響いて、見知った景色から画像処理したかのように建物が消えて、後ろの風景まで見わたせるようになると、もう胸のあたりが「ふ~」としてきて。
それを埋めるかのように、何か生み出すもの、生き生きと、どんどん育っているものに触れたい気持ちになりました。
それで庭にいろいろな種をまいたり、苗を植えたりして、気がついたら300種類ぐらいの植物ができていたんです。
それを家の周りの畑に移植することを始めました。
箱庭のように人々の心を癒してくれた(萩のさん提供)
だから、「どうして庭なのか」と聞かれてもわからないのですが、何か「生み出すこと」がしたかったし、これが正しいからという理屈より前に、みんなが理由がなく癒されたり、心が掴まれて動くようなことをしたかったんです。
それ以前からモニタリングでここに自生する植物をたくさん見ていたので、「園芸種は悪い」「外来種」みたいに思っていたのですが、でも園芸種は園芸種で、ぱっと花が咲くと「わ~かわいい!」と思う自分がいて。
それで園芸種と、ここでモニタリングしている在来種をお隣同士に連れてきて植えています。
手付かずの自然と、人の手がかかって守られる里山の生態系。そのどちらがあるべきものという正解はないような気がしています。
古の植生に戻しても、今の私たちの暮らしとのバランスで保全するには無理があるかもしれないからです。
それよりも人の移動でうつろう自然から目を逸らさず、昔ながらの知恵でしたたかに、現代の技術もしなやかに使いながら、草木から恵みをいただく。
庭はちょうどその真ん中にあって、「土地に根ざした暮らし」を実装する場になるような予感がしてならないのです。
インタビューを終えて
民具だけでなく、民具を生み出した暮らしの在り方と、その豊かさについて語っていただきました。
土地と時間に深く根差した暮らし、何かを「生み出す」暮らしが、土地から離れた消費型社会である現代と鮮やかな対比をなします。
AIの台頭によって人間の頭の中までが外部化される時代にあって、「自分の中に紡いでいく」種類の豊かさがあることも、新鮮に受け止めました。
そして、そうした暮らしのなかにあって、民具は自然と人間を媒介する存在であったということも再認識しました。
インタビューで語られた民具の機能性や道具としての「凄さ」は、まさに民具の肝とも言える部分でしょう。
けれどもその凄みは、脱穀が終わらず途方に暮れる夕暮れの心細さや、「こんなに早くできるのか!」という驚きを自身で経験してみないことには、なかなか実感が難しいかもしれません。
そうした「現役の民具」だからこそ伝えられる部分を、展示や研究も含め、民具の今後にどう活かしていくことができるのか、あらためて考えさせられました。(今石)
取材日:2025年9月4日
語り手:萩のゆき
聞き手:今石みぎわ・榎美香
協 力:川邊咲子
編 集:東京文化財研究所無形文化遺産部
公 開:2026年1月
