「紙布」は、紙から作られた「紙の糸」を、経糸・緯糸に使って織りあげられた布です。

島根県浜田市波佐地区では、明治時代の中ごろまで、家族の衣類や布団など日常生活に使われる布製品のほとんどに、自家製の紙布が使われていました。
金城民俗資料館には、かつてこの地域で日常的に使われてきた様々な紙布製品(衣類、布団、米袋、畳のヘリ、カッコ(蚊やり)など)が残されています。

この珍しい布が生活の様々な場面に浸透した背景には、藩政時代の政策があります。
江戸時代の島根県津和野藩では、藩の政策として「米紙上納」が行われ、各農家で漉いた半紙が年貢として、米の代わりに上納されていました。
津和野藩の飛地であった波佐地域でも、地域をあげて製紙が行われました。
文化年間(1804-1818)の記録によれば、波佐村の総戸数276軒のうち、百姓は合計179軒(本百姓137軒・小百姓42軒)で、報告された紙漉き船の数も179艘。
つまり全ての百姓の家に紙漉き船があり、全戸で紙漉きが行われていたと考えられます。
その後、嘉永4年(1851)には「庄屋、下役人も紙漉き船を造り、励み合って紙の増産をするよう心配りをするように」とのお達しも出ています。
こうした時代背景の中、紙の原料となるコウゾの作付割合は、波佐村の畑地の実に94%(54町4反5畝19歩)にのぼりました。
コウゾ畑が畑地のほとんどを占める中、波佐村では衣類の原料となる麻や綿花などを十分に栽培することができず、代わりに、上納できない品質の半紙で作った紙布が、明治中期まで広く使用されてきたのです。

国会図書館デジタルコレクションより転載
紙糸は、半紙を細く裁断して長く繋ぎ、糸車で撚って作ります。
紙糸を何㎜幅に切るかでできあがる糸の太さが異なるため、紙布の用途によって3mm、4mm、5mm、6mmの4種類の幅がありました。
例えば幅5㎜の切幅で作る糸の場合、明治20年頃から漉かれるようになった4枚漉き半紙(縦51㎝・横71.5㎝)1枚からは、長さ48㎝の紙が140本(全長約67m分)とれます。
これを糸に紡ぐと長さ約53m。
長さ1mの紙布(幅は33㎝で固定)を織るのに経糸420本(約420m)・緯糸1300本(約429m)、合計約849mの紙糸が必要になるので、1mの反物を織り上げるのに、4枚漉き半紙16枚が必要になる計算です。

(「石見の紙布づくり」『民具を用いた労働慣行』2007 p.20より転載)
各農家には機織り機があり、こうして自分たちで作った紙糸を機にかけ、紙布を織りあげました。
紙布の1反は、2着分の衣類が裁断できる分量が一般的でした。
ジンベイやコデナシなどの上着であれば、前身ごろ、後身ごろに鋏を入れずに通しで右側・左側をとり、袖部分2箇所を仕立てて作りました。

農作業に着る田袴は、織り上げたままの白地のものは「ゆきばかま」と呼ばれていました。
これを「豆汁墨染め」にすると、灰色に染まります。
桐の木の炭をカガツで擦って紙布を墨染めし、豆腐の豆汁に漬けて色の定着と色止めをします。
もうひと手間かけて藍竃に漬けると、濃藍色の衣類が出来上がります。

布団も、かつては紙布で作りました。
1枚7~8㎏と鉄のように重たいことから、「鉄布団」と呼ばれたこの布団、外生地は紙布で織り、中綿には衣類として使えなくなった紙布を入れました。
自家用の鉄布団は豆汁墨染めで仕上げ、客用の布団は紺屋の型紙染めにし、表面は唐獅子の図柄、裏面は藍染で仕上げます。
鉄布団が発展したのが「ツヅレ布団」です。
中綿が紙布、外生地がツヅレ織りで、見た目も肌触りも格段に進化しました。

米袋も、紙布の反物を斜めに巻きあげて作りました。
生地を丈夫にする目的と、虫害予防のために、柿渋でコーティングしてあります。
約2㍍の紙布を一巻きして作ったものが1斗入り、二巻き分(約2m40cm)で2斗入り、三巻き分(2m60cm)で3斗入りの3種類がありました。

衣類や布団としての役目が終わった紙布は、カッコに加工されました。
カッコは蚊やりで、農作業の時に身体にまとわりつくブトや蚊を、このカッコの先端に火を付けていぶした煙で追い払います。
こうして、紙布は最期には灰となり、自然に帰りゆくのです。

執筆:隅田正三(西中国山地民具を守る会)
公開:2026年7月15日
