久保くぼ光徳みつのり
(千葉大学名誉教授・㈱デザインラボ・温故知新 代表)

専門は構造力学。
1989年から2024年3月まで、千葉大学工学部で教鞭をとり、退官後デザインラボ・温故知新を設立。

民具との出会い

―まずご専門について教えてください。
2024年3月まで千葉大学工学部で初等的な力学系の科目を教えていました。もともとの専門は航空工学で、飛行機の構造の一部を研究していました。
もっと言うと、高速で回転するタイヤのようなものや大型の宇宙構造物のようなものに振動が起きたとき、それがどういう振動になるかという、 「柔らかい構造(柔構造)」の振動について勉強していました。

要は物体が大きくなると、相対的に構造が柔らかくなるんですよ。
同じ材料で作っても、小さいとガチっとなるけれど、大きいとふにゃふにゃして振動しやすい。
モノのダイナミックな、動的な変形、それをシミュレーションで再現するためにプログラミングして計算して、その結果が妥当なのかどうか実験して、実験と合う・合わない、ということをやって悩み続けていたのが大学院時代でした。

―民具とは接点のなさそうな分野ですが、そこからどうやって民具にご関心を持たれたのでしょうか。 
大学院在学中に、「ミウラ折り」の三浦公亮先生(1930~)にお世話になりました。デザインセンスのある先生で、銀座で宇宙構造物の個展を催したりされている方です。
その三浦先生から千葉大学工学部工業意匠学科(現 総合工学科デザインコース)を紹介していただきました。そこで、「藁」の宮崎清先生(1943~)に出会いました。

―宮崎先生というと藁の文化史研究のイメージが強いですが、工学部の先生だったのですね。
千葉大学工学部の前身は「東京高等工藝高校」で、いまの NHK 朝ドラ「あんぱん」の主人公でもある、やなせたかしさんも通ったところです。それが 1949 年に千葉大学となり、1951 年には工業意匠学科が工学部に設置されました。

この学科はドイツのバウハウスの影響を強く受けていて、その創設にはデザインの科学化に寄与された小池新二さん(1901~1981)なども関わっています。小池氏は、千葉大学のデザイン領域を発展させるために、材料化学や人間工学などの多様な学問領域との「異花受粉」を推進しました。
彼自身の研究室には、当時東京大学で活躍していた文化人類学者の大給近達氏(1931~2013)を招き入れ、以来、各地で人びとが創出してきたものづくりの文化に注目するようになったようです。

その研究室を受け継いだのが宮崎先生なのです。
宮崎先生から「民具を」とは一言も言われていなかったのですが、元々嫌いじゃなかったんですね。神社や資料館が好きだったし、先生のお仕事を手伝うことも多かったので、そうした中で、「藁縄の強さは、藁の“叩き”具合によってどのように変化するのか」とのテーマいただき、藁縄の強度実験を実施することになりました。

叩かない藁と、叩きすぎた藁と、ちょうどよく叩いた藁でどう違うか。―顕著に違いまた。やっぱり「ちょうどいい」と言われている藁は強いんですよ。叩かない藁よりも、むしろ強い。

―これまで評価されることのなかった暗黙の民俗知を科学的に跡付けるというのは大変面白いですね。
はい。叩きすぎると、引っ張りに対して強い繊維が壊れてしまうし、逆に叩かないと、引っ張ったときに藁を構成する組織に絡んでいる繊維が突然パカッと剥がれて、そこに力がかかって切れてしまう。
でもほどほどに叩くと、繊維がその組織から適度に剥がれてくるので、ぐっと力を掛けたときに、繊維に素直に力が伝わり、結果的に引っ張りに対して強くなる。

あのときはたしか、宮崎先生の研究室のフィールドの一つの東北の方で、そこの農家さんに叩いてもらって、できるだけ同じ条件で試験片を作って、引っ張ってみて、切れる・切れないと。面白かったですよ。

民具の「形」とその見事さ

―そのような実験を通して、徐々に民具に触れる機会が増えていったのでしょうか。
結局、デザインで自分は何ができるのかということは、ずっと悩んでいたんです。自分の領域と、デザインをやっている人の領域とを繋ぐものは何かと考えていたとき、旅行や遊びでちらっ、ちらっと眼にするものの「形」が、職業的に読めちゃうんです。

普段、ずっと計算と実験をしているでしょう。そうすると、見えないはずのものなのですが、力の流れや空気の流れが見えたりしちゃう、そんな気がするのです。
すると、民具には「すごいな」と思う瞬間が本当に多いんですよ。「こんな形、普通には作らない」と思うものが多い。
かたや大学ではデザインコースにいたので、インダストリアルデザインやプロダクトデザインでの形を目にすることも多かったのですが、それらに対する印象と、時折り出会う民具の形とは異なるところがありました。

骨董趣味や懐古趣味はないと思っているのですが、日本に限らず古いものを見ると、例えばちょっとした椅子や調度品なんかでも「すごく見事だな」と素直に思えることがあって、それならと思ってほとんどマニアの感覚で構造計算をしてみると、大体自分の印象と合った結果が出る。

それはもう都合が良すぎるぐらい合致してくるので、無意識に計算結果にバイアスを掛けてしまっているのではと自ら不安になってしまうほどですが、どうも間違っていないようです。やはりその形は「見事!」なのです。

―形の専門家に、「見事」と言っていただけるのは大変心強いですね。
民具を見るときに、具体的にはどういったところを見ていらっしゃるのでしょうか。

例えばこのトチの実摺り(写真1)。息子が骨董屋で買ってきてくれたので、どこのものかわからないのですが、トチの実を割る道具です。

写真1 トチの実摺り
力の掛かる摺り潰し部分はわずかに厚く作られる

ここ(連結部)の形の割り切り方がすごいでしょう(写真2)

普通だったらここまで薄くできなくて、もうちょっと厚くしたい。でも薄くすることで、多分動きがいいんだろうなと。

ここまで薄く削っても、ここに掛かる力に対して繊維がこう走っているから大丈夫だということが、この形を生み出した人はわかっているんだなと。

そのあたりの造形における思い切りの良さというか、迷いのなさ。

写真2 連結部は薄く削ってある

あとは、ここの膨らませ方(写真1)。ここを少しだけ厚くするという感覚がすごい。

実際に力の関わり具合から考えたら、挟んで摺ったときに、多分このあたりに一番強い力が掛かるんですよ。だから、そこがしっかり噛みつくような強さにしている、と読める。

読める、ということは、それが本当に正しいかどうか実証していないけれど、経験上、計算したらそういう結果が出ちゃうと思います。

もしこれが工業製品だったら、多分ここも同じ厚みの、均一のカーブにしちゃうと思うんです。でもそうじゃないでしょう。そういう、わずかな形の違いなんだけれども、そこには大きな造形感覚の違いがあると思うのです。

―ここのふくらみは、言われなければ全く気が付きませんでした。
作っている人も無意識かもしれません。でも、「こうしたら壊れない」とか「塩梅がいいんだよ」ぐらいの感じで、潜在的な美意識みたいになっているんじゃないかな。このあたりを削ってしまったら「何だかなぁ、収まりが悪いな~」という感じになるのかもしれない。

―まさに「造形感覚」ですね。この小さな民具から、形に籠められた工夫がここまで読み解けるのは、本当に面白いです。
これも最初は全部気のせいかなと思っていたのですが、こうやって聞いてもらえる場が少しずつ増えてきて、興味を同じくする多くの方々とお話を重ねてきますと、自分の見えているものも、それほど間違っていないのかなという気持ちになってきました(笑)。

民具にみえる作り手の「造形感覚」

これは千葉県木更津のイカドウ(籠)の仕組みを探ろうとして作った模型です(写真3)

写真3 イカドウの模型

いまでも木更津の漁港に行くと同じようなものが新旧転がっていると思いますが、これは古いタイプ。支柱は竹で作ってあります。
この中に枝などを入れて海に沈めておくと、そこにイカがやってきて産卵する。

すごいなと思うのは、脇のほうにイカが入る口がありますが、口が両方繋がっているために、全体の構造をきちんととってくれる。両脇の口をロープで繋ぐことでネット全体にテンションがかかるでしょう。そうするとこの形が安定する。
単なる入口を作るためだけじゃなくて、この口が形全体も整えてくれる。

それから、新しいものはビニールパイプを使っているんだけれど、このパイプもジョイントになると同時に支柱になっていて、かつ、パイプの中に紐を通しているから、あえてジョイント部分を工夫しなくてもよい。

これはすごくコンパクトにもなるんですよ。だから1ケ所外せば全部パラパラと潰して畳める。
それを船にたくさん積んで持って行って、籠状に展開して使って、イカを捕ったらまた畳んで船に乗せて帰ってくる。

―シンプルなのによくできていますね。
「機能統合」というか、一つひとつの部材にいろいろな役割(機能)を持たせて、できるだけシンプルにするんですね。だから修理もしやすいですよね。
しかも古いものにこだわっていないから、時代が進むにつれて、その時その時に手に入るものを使ってやっているから面白い。鉄パイプや結束バンドも使ったりしていて、古いけれども新しい。

あとは、古いものは支柱が全部竹なのですが、それは形を作らなくても「形ができる」んですね。竹の両端を寄せれば、もうこの形ができてしまう。
だから無理に形を出そうという感じは一切しない。
素材が持つ、曲がるという性質をそのまま利用しているんです。

ただこれを作った人は、多分「いい塩梅」に材料を調整している。厚みにしても幅にしても、イカが好んで入ってくる形になるように、でも強度もあって折り畳めるように、すごく「いい塩梅」になるように調整している。
でもそれだけしたら、あとは本当に形が「自然に」出来上がる。

―ある意味では、素材と作り手さんとの共同作業なのですね。そういう形が計算ではなくて、経験から、長い時間をかけて作られてきたのがすごいですね。
そうなんです。だからどこでだったか、あるおじいちゃんに言われたのは、「(その道具を作るのに)かけてきた時間が違うんだよ」って。
もう「ああ、何も言えません」という感じでした。

―民具は自然素材からできていますが、例えば曲がり木なんかでもひとつとして同じ素材はない。それなのに、そこから同程度の機能を持つ道具を作りあげる。それがどうして可能になるんでしょうか。
作り手さんには、その形に対する視点の置きどころが見えているんでしょうね。多分、「しっくりくる」形があるのでしょう。
形を構成する素材に対して素直なのかもしれません。
あとは使っているうちに“ずれ”ていく、落ち着いていくというのもあるだろうし。

でも多分、こういう形に対する感覚は、生きるために必要な感覚だと思うから、誰しも持っていたんじゃないかな。そのあたりは昔の人のほうが研ぎ澄まされていたと思います。今はそんな力はあまり必要ないとされるから、なかなか見えてきません。

―そういう「造形感覚」を我々がもっと養えば、民具の面白さももっと見えてくるのかもしれません。今のものづくりに活かせることもありそうですね。
「自ら作り使う」ことの生活スタイルが見直されてきたこれからは、もっと材料を知らないといけないですよね。単に材料の科学的な性質ということではなくて、その材料の実際の性質というのか、人による材料へのアクションに対するリアクション、それに対する感覚をもっと体感しないと、材料の本当の価値を活かすことはできない。

そういう意味では、作り手さんが感じているものをもっと共有できるといいんだろうなと思うんです。
結局いろいろな人と話していて、やっぱり作り手さんのちょっとした反応が、一番「共感できる!」という思いがします。言ったこと、言われたことも、「まさにそこ!」という感じで、それこそ「野生の思考」のように、材料と向き合う感覚なのでしょう。
このことを工学の言葉で説明しようとすると、「ああ、その話ね」となるのですが、そうした何々学とは関係なく、その形がそこにあって、その意味を作り手さんは言葉にしなくてもわかっているのでしょう。

民具の知恵を活かす

―民具に籠められたこうした「形」の知恵を、今後、どのように活かしていけるでしょうか。
いまショイコ(背負子)について、登山用具メーカーの方とやり取りをしています(写真4)
昔、ショイコの力学についての論文を発表したことがあるのですが、それを見て、商品開発に向けての情報交換のために連絡をくれたのです。
今の登山用のショイコはどのメーカーも似たり寄ったりなので、どうにか新しいショイコを作りたい、協力してもらえないかという話で、初回のミーティングを終え、いま試作品を作っているところのようです。
民具に知恵をもらって今の商品に生かそうとしている事例ですね。

写真4-1 単純L字型モデル
写真4-2 白川郷の背負子を参考にしたモデル。
応力分布の違いを見ると、白川郷モデルのほうが、より均等に力がかかっていることがわかる。

―ゼロから新しいものを作るのではなく、民具に知恵をもらい、より洗練させていくということですね。
ショイコは、形としては、もうどうしようもないぐらいシンプルです。ただ、「背負っていく」という考え方をどこまで進化させられるか。

いま民具について「同じものをたくさん集めてもしょうがない」という考え方もありますが、同じものであっても、使っていた人それぞれの工夫の痕跡がそこにあると思うんです。ここのパッドの入れ方とか、ショイコに掛けられたロープの位置とか、それぞれ違うと思うんですね。
そのあたりの、「同じもの」と言われているものの中でのバリエーションの多さに、ひょっとすると打開策というか、新しいデザイン視点があるのかもしれません。 

―例えば鍬だと、土の質などによって柄の角度が違うということがありますが、あるいはショイコも、山の傾斜具合などで形が違うということがあるかもしれませんよね。
各地のショイコでまた違うし、それを実際にどう使って、どういうふうに人が触れているのかということにまで思いを膨らませていくと、そこに大切な違いが見えてくるかもしれません。

―ショイコには、普段は杖として使い、休憩するときには荷物を載せて休む棒がありますね。
あれもすごくいい発想ですよね。全部をサポートするのではなく、身体にかかる負担をこの棒1本で軽減する。
そういう自然発生的なデザインも、ひょっとすると今に活かせるかもしれない。
意外とそういうものがあるということが知られていなかったりするのかな。

よくある話だけれど、ショイコを開発しようとするとショイコしか見ない。本当はそれを使う人やシーンがあって、載せる物があって、いろいろなオプションもついて、そこまで含めてくると、違う視点があるんじゃないかなと思うんだけれど。そこをどう乗り越えていくのか、楽しみです。

―このように現代のものづくりに携わる人に、民具をもっと活用してもらうためにはどうしたらよいでしょう。
商品開発をしたりする人には、ぜひ現物に触れてほしいですね。それはもう、現物が一番いい。身体の感覚でモノに触れて、見ないと、写真や3Dではやっぱりわからない。重さとか質感とか。

…あとは念?(笑) のような、目には見えない何かがあるでしょう、これを作った人の痕跡、使った人の痕跡、そのモノが持っている何かが。
― 「身体感覚でモノに触れる」ことが重要なのですね。

「自然な形」が持つ魅力と可能性

もうひとつ、いま話を進めているのがミキノクチです(写真6)

進学塾を経営している方がいて、この方とも今やり取りをしています。この学習塾は月曜日から金曜日までは一般的な進学塾なのですが、「視野を広げる」とか「学ぶことの本当の意味を理解する」ということを大切な理念として、毎週土曜日に外部の人との交流や体験学習のプログラムを設けているとのことです。

その方が、ミキノクチについて書いた私のブログ(「ミキノクチに見るエラスティカ」)にも興味を示し、ミキノクチの形に見られる数理性をこうした学習に活用できないかとの方向性で意見交換を進めています。
今の勉強が物足りない子にとっては、これまでに学んできたことの域を超えても、この形の数理が刺さるかもしれないと。

― 「エラスティカ」とは何でしょうか。
「エラスティカ」というのは弾性曲線のことで、弾性力学という分野があります。ミキノクチはこんな綺麗なカーブをしていますが、実はその造形においては、作り手による作為がとっても少ないと言えると思います。

このカーブは意図してつけたものではなく、極端な話、竹ひごの2ヶ所を固定するだけで、この形を出している。そこに意図的に形を与えようとする作為はなく、作り手はただただ、そのカーブが自然に出るように一生懸命準備をする。
あとはポイントとなる箇所を留めて“繰り出し”てあげる。そうすると、自ずとこの曲線ができる。

そこがすごく自然で、「材料がなりたいように」なっているんですね。

素材に無理をさせていない、「自然な形」ということですね。
その良さは意外と気付かれないのですが、そこに数理性があるということです。数学者によって数理モデル化された形がここにある、という感じです。
数学者は材料を意識していないかもしれません。そこには純粋な数理があるだけかと思いますが、彼らが言っていることは、まさに竹の弾性を表現していたりする。
彼らが数式で導き出した曲線が、まさに我々が実生活の中で使う、竹のような弾性材で作られる民具に現れるのです。

こうして、意外と身近に転がっているものが、実はとても魅力的だということに、小中学生くらいの生徒さんが触れる機会になったら、すごくよいと思います。
多分、生徒・学生が最初に聞く授業、最初に出会う先生は、良い意味でも悪い意味でも恐ろしく影響力があるので、そこで適切に誘導して、これまでに触れることのなかった価値感や視点に目を向けるきっかけを提供できると、彼らが持っている世界もまた広がるのかなと思います。

―このように、いわゆる理系の世界にも、民具が関われる分野はたくさんあるのですね。
もちろんです。自分のような力学系からのアプローチと同じように、化学系、例えば化学的な組成の話や、塗りの話、保存の話もできます。工学の中でも、防災工学や減災工学のようなものにも、うまく活用できそうです。

いま大名籠もやっているのですが、大名籠の構造を防災と繋げると、もしエンジンやモーターなどの動力が使えなくなったときに、人が人の力でどう人を運ぶか、モノを動かすか。「非常時において機能するモノを考える」ということに繋がります。

非常時でも結局残るのは人力だし、人間自体は縄文時代から大して変わっていないでしょう。
そうなると多分、生きるために必要なものはそこにある。

こうしたことは、近年強く意識されるようになってきたように思います。

ミキノクチのように、竹材料が持つ元々の特性に対してギリギリの加工を施し、その特性の中で「エラスティカ」を表出する部分を際立たせることで、あとは作り手による働きかけに応じて、その形は自然に生まれてくるのです。

まさに材料と、人の手による造形(材料に対する働きかけ)との“力”の拮抗がそこにあります。
ものづくりにおける「自然な形」を感じ取る感覚が、民具に多く広く、そして強く潜在しているのです。

彼らにぜひ光を当て、これからの形に展開させなければと思っています。

 
【民具関係の主な論文】
  • Peng Yang, Yuka Furukawa, Migiwa Imaishi, Mitsunori Kubo, Akira Ueda2024「Computer vision-based visualization and quantification of body skeletal movements for investigation of traditional skills: the production of Kizumi winnowing baskets 」『ROBOMECH Journal (Springer Open)』 11(1)・ 楊鵬・王舜昌・久保光徳2022「箕を構成する形態要素の抽出と3D モデルによる再現」『デザイン学研究」 69(1)
  • 久保光徳・王健・高橋 敦・桃井宏和 2021「放射目を臼目とする2つの木摺臼の摺り面の形状比較 : 民具の形から読み取ることができる合理性と造形のアイデア」『民具研究』162
  • 久保光徳・北村有希子・田内隆利2016「民具の形に対する構造力学的考察の試み : 民具形態の力学的合理性(力学性)について」『民具研究』153
  • 久保光徳・北村有希子・田内隆利・寺内文雄2014 「エングワ(踏鋤)の断面二次モーメント分布とその力学的合理性ー民具の形に見る力学的合理性(2)」 『デザイン学研究』224
  • 久保光徳・矢久保空遥・田内隆利・寺内文雄・青木弘行2011「背負子の形に対する力学的解釈の試みー民具の形に見る力学性『デザイン学研究』58(207)

インタビューを終えて

記念すべき第1回目のインタビューでは、重要なキーワードがいくつも出てきました―素材と作り手とが協働で生み出す「自然な形」の見事さ、生きるために必要な「造形感覚」、物事を「身体感覚」で捉えることの重要性、民具が体現する「生きるために必要なもの」など。
こうして民具を通して「ものづくりの根っこ」にあるものを学び、活かしていくことで、現代のものづくりやデザインをより深化させていくこともできるのではないかと感じました。
また、民俗学の聞き取り調査ではしばしば、「自分の身の丈の話しか聞くことができない」と言われます。自分が思いも及ばないことは聞けない、という意味です。今回のお話を通して、民具についても、自分の身の丈のものしか見えていなかったことを痛感しました。
自分には見えていないものがたくさんあることを謙虚に受け止め、後世の、あるいは他分野の「見える」人に民具を繋いでいく―そんな考え方も、今後、重要になってくるかもしれません。(今石)

取材日:2025年5月29日
語り手:久保光徳
聞き手:今石みぎわ・榎美香
編 集:東京文化財研究所無形文化遺産部
公 開:2025年6月