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白馬会関係新聞記事 第12回白馬会展

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白馬会(はくばくわい)を評(ひやう)す(二)
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| 木下杢太郎 | 東京二六新聞 | 1909(明治42)/05/09 | 6頁 | 展評 |
第(だい)二室(しつ)@○階段(かいだん)を登(のぼ)つて此室(このしつ)の入口(いりくち)に近(ちかづ)くと妙(めう)に高(たか)い絵(ゑ)の調子(てうし)に驚(おどろか)されるが、須臾(しゆゆ)にして、それは唯表面的(たゞへうめんてき)のものに過(す)ぎないのに気(き)が付(つ)く。大(おほ)きな(三四)夏(なつ)の海(うみ)の如(ごと)きは畢竟(ひつきやう)ペンキ屋(や)の絵(ゑ)である。第(だい)三十八号(がう)は辻丸氏の春の日といふのである。「はゝ、之(こ)りや何処(どこ)の絵(ゑ)だらう。見(み)たやうな所(とこ)だ。」と観客(くわんかく)の一人(にん)がいふ。「日本(にほん)ぢや無(な)からう、西洋(せいやう)だらう。」と他(た)の人(ひと)が答(こた)へる。―実際(じつさい)だ。僕等(ぼくら)だつて、之(これ)が日比谷(ひびや)の一角(かく)だと信(しん)ずることは出来(でき)はしない。僕等(ぼくら)は西洋人(せいやうじん)の官能及(くわんのうおよ)び気品(きひん)で以(もつ)て見(み)られた日本(にほん)に興味(きやうみ)を感(かん)じて居(ゐる)が。此様(このやう)に誇張(こちやう)された西洋模倣(せいやうもはう)は不愉快(ふゆくわい)に思(おも)ふ。さうして或点(あるてん)までは、近世的(きんせいてき)といふことは、近世人(きんせいじん)が近世的(きんせいてき)であると自覚(じかく)して、多少其成心(たせうそのせいしん)を以(も)つて作(つく)り出(だ)す芸術(げいじゆつ)に現(あら)はれるといふことは勿論(もちろん)で、官能(くわんのう)と感覚(かんかく)とには別(べつ)に古人新人(こじんしんじん)の別(べつ)はないと云(い)はれてゐる(殊(こと)に視官(しくわん)に就(つい)ては近頃(ちかごろ)ハイネ氏及(しおよび)レンツ氏(し)の生理学上(せいりがくじやう)の研究(けんきう)が公(おほやけ)にせられて居(ゐ)る。)故(ゆゑ)に一定度(ていど)までは成心(ぶれじゆぢす)といふ事(こと)も許(ゆる)されねばならぬ事(こと)だが、夫(そ)れに達(たつ)するまでは十分(ぶん)の忠実(ちうじつ)なる自然研究(しぜんけんきう)が必要(ひつえう)である。@○田口真作氏の(五二)御手富貴 この絵(ゑ)はやゝ大(おほ)きいのと、描(ゑが)かれた材料(ざいれう)に対(たい)する興味(きようみ)とで目(め)に付(つ)いた。暗(くら)い色(いろ)で待合(まちあひ)だか銘酒屋(めいしゆや)だかの茶(ちや)の間(ま)を描(ゑが)いたものである。吾人(ごじん)は此種(このしゆ)の材料(ざいれう)に非常(ひじやう)に興味(きようみ)を持(も)つてゐる。デガスやツウルウズ・ロオトレツク等(とう)の巴里(ぱりー)の暗黒的(あんこくてき)な(併(しか)し絵画的(くわいぐわてき)な)生活(せいくわつ)の描写(べうしや)が面白(おもしろ)いと思(おも)ふ吾人(ごじん)は、また日本(にほん)に於(おい)て此種(このしゆ)の画題(ぐわだい)の捉(とら)へらるゝ事(こと)を望(のぞ)むのである。併(しか)し其際待合(このさいまちあひ)の内部(ないぶ)の習慣(しふくわん)や年中行事(ねんちうぎやうじ)といふやうなものに決(けつ)して興味(きようみ)を感(かん)ずるのでは無(な)い。これらの興味(きようみ)は全(まつた)く後景(こうけい)に葬(ほふむ)り去(さ)つて、画工(ぐわこう)は唯其内(たゞそのうち)から絵画的分子(くわいぐわてきぶんし)だけを抽(ぬ)いて来(こ)なければならぬ。独逸(どいつ)の美術批評家(びじゆつひひやうか)マイエル・グレエフエ氏(し)に従(したが)ふに、デガスは厭世家(えんせいか)で、世界(せかい)の凡(すべ)てに対(たい)する反抗家(ほごか)であつたさうである。巴里(ぱりー)の芝居(しばゐ)や、踊子(おどりこ)や、見世物小屋(みせものごや)の顔青(かほあを)ざめたる女(をんな)などはかゝる態度(たいど)から観照(くわんせう)されたのだ。併(しか)し彼(かれ)は決(けつ)して自己(じこ)の画工(ぐわこう)であると云(い)ふ事(こと)を忘(わす)れなかつた。故(ゆゑ)に其色彩(そのしきさい)は新鮮(しんせん)で、優(いう)に仏国(ふつこく)十九世紀末(せいきまつ)の色彩画派(ころりすと)の覇(は)を称(たゝ)へることが出来(でき)た。然(しか)るに吾人(ごじん)の今評(いまひやう)せんと欲(ほつ)する『御手富貴(おてふき)』の絵(ゑ)は全(まつた)く待合(まちあひ)(?)の内部(ないぶ)の生活(せいかつ)が珍(めづ)らしく、そこに物質的興味(ぶつしつてききようみ)を感(かん)じて画(か)いたかのやうである。第(だい)一其構図(そのこんぽじしよん)は尋常(じんじやう)で、其色彩(そのしきさい)は凡庸(ぼんよう)だ。殊(こと)に若(わか)い方(はう)の女(をんな)が唄(うた)かなどを刷(す)つた赤(あか)い紙(かみ)を持(も)つてゐるのを見(み)るとさふいふ流行唄(はやりうた)の摺物(すりもの)とかまた手拭(てぬぐひ)などに興味(きようみ)を持(も)つたかと、作者(さくしや)の見透(みす)かれるやうな気(き)がして厭(いや)である。@○太田三郎氏の諸作のうちでは (六二)鈍き日といふ画(ぐわ)が気(き)にいつた。同氏(どうし)の色彩観照(しきさいくわんせう)の態度(たいど)には固(もと)より同意(どうい)し兼(か)ねるが。僕(ぼく)の同情(どうじやう)するのは此絵(このゑ)の包(つつ)む情調(じやうてう)が、僕(ぼく)の一度経験(どけいけん)した所(ところ)に似(に)てゐるからである。@暗(くら)い町(まち)の一角(すみ)、草(くさ)の生(は)えた空地(あきち)の片隅(かたすみ)に一軒(けん)の商家(しやうか)が建(た)つてゐる。空地(あきち)は其裏(そのうら)になつてゐて、二つの傘(かさ)が乾(ほ)されてゐる。曇(くも)り日(び)の一度(ど)一寸出(ちよつとで)た日(ひ)がまた引(ひ)つ込(こ)んだやうな陰鬱(いんうつ)な空気(くうき)の中(うち)に、死(し)せるが如(ごと)く右(みぎ)より左(ひだりに、斜(なゝ)めに遠(とほ)く街道(かいだう)が走(はし)つてゐる。街道(かいだう)の遠(とほ)き方(かた)には朦朧(もうろう)たる二三の人影(ひとかげ)が見(み)える。絵(ゑ)の後景(こうけい)は、街道(かいだう)の向(むか)ふ側(がは)の家並(いへなみ)、―及(およ)び其屋根(そのやね)を越(こ)えて見(み)られる煙突(えんとつ)の群(む)れである。一種(しゆ)の暗(くら)く陰鬱(いんうつ)な情調(じやうてう)は(小川未明氏(をがはみめいし)の小品(せうひん)の或者(あるもの)に見(み)るが如(ごと)く?)よく表(あら)はれてゐる。其他(そのた)にはあまり感心(かんしん)する作(さく)は無(な)かつた。色(いろ)は古(ふる)き脂肪(しばう)のやうに暗(くら)いのが多(おほ)い様(やう)だつた。@○黒田清輝氏(くろだきよてるし)の温雅(をんが)な気禀(きひん)は、屡(しばしば)一つの花(はな)、一條(ぜう)の光(ひかり)に多大(ただい)な興味(きやうみ)を持(も)つやうに見(み)える。庭(には)の一隅(ぐう)、丘(をか)の一角等(かくとう)の空気(くうき)を狙(ねら)つたのが従来非常(じうらいひじやう)に多(おほ)かつた。吾人(ごじん)と雖(いへど)も其態度(そのたいど)には固(もと)より賛成(さんせい)であるが、併(しか)し氏(し)の小品(せうひん)が多(おほ)くの後人(こうじん)を誤(あやま)りはしないかと云(い)ふ事(こと)を恐(おそ)れるのである。(八0)(八一)(八八)(一五三)(一五四)(一五五)(一六三)(一六四)(一六七)(一二一)(一二四)(一三一)(一三二)等(とう)の絵(ゑ)は何(いづれ)も氏(し)の先例(せんれい)を追(おふ)ものである。@○桜(さくら)の花(はな)が油絵(あぶらゑ)でフレツシユに画(や)られたら非常(ひじやう)に好(い)いだらうと常(つね)に思(おも)つてゐるが、安藤氏の(七六)夕桜には少(すこ)しも感服(かんぷく)する事(こと)が出来(でき)なかつた。

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