黒田記念館 > 研究資料 > 白馬会関係新聞記事 > 第10回白馬会展

白馬会関係新聞記事 第10回白馬会展

戻る
白馬会展覧会(はくばくわいてんらんくわい)
目次 |  戻る     進む 
| 剣菱 | 読売新聞 | 1905(明治38)/10/06 | 1頁 | 展評 |
五号館(がうくわん)の展覧会(てんらんくわい)も数(すう)に於(おい)てハ年々盛(ねんねんさか)んになれど、質(しつ)に於(おい)てハ平凡蕪雑(へいぼんぶざつ)の者多(ものおほ)く大小画会推(だいせうぐわくわいお)しなべて旧(きう)を守(まも)つて沈滞(ちんたい)せる間(あひだ)に相當(さうたう)の苦心研究(くしんけんきう)を経(へ)て稍々実(やゝみのり)のある絵画(くわいぐわ)の多少陳列(たせうちんれつ)せられ兎(と)に角展覧会中際立(かくてんらんくわいちうきわだ)つて見(みえ)るのハ白馬会展覧会(はくばくわいてんらんくわい)なり。モデル拘泥西洋模倣等(こうでいせいやうもほうとう)の非難(ひなん)ハあり、これ等(ら)が明治大美術品(めいぢだいびじゆつひん)であるまじく思(おも)はるれど、人間業(にんげんわざ)で一朝(てう)一夕(せき)に不朽(ふきう)の大作(たいさく)の出来(でき)る者(もの)にあらねバ、日本人(にほんじん)が西洋画(せいやうぐわ)をこれ丈(だけ)に画(か)きこなすやうになりしハ以(もつ)て多(おほ)しとすべし。日月会(じつげつくわい)や寛畝塾(くわんぽじゆく)の展覧会(てんらんくわい)を見(み)てこの会場(くわいぢやう)に入(い)れバ、面目(めんもく)の一新(しん)するを覚(おぼ)え、ヂレツタレーや日本画通(にほんぐわつう)ならバ知(し)らず、新時代(しんじだい)の青年(せいねん)が他(た)の展覧会(てんらんくわい)を一顧(こ)せずとも、白馬会(はくばくわい)に集(あつ)まるハ必(かなら)ずしも美術的鑑賞力(びじゆつてきかんしやうりよく)の乏(とぼ)しき為(ため)にあらず、自然(しぜん)の趨勢(すうせい)なり。今年(ことし)の同会(どうくわい)ハ十年紀念(ねんきねん)と称(しよう)せられ、以前陳列(いぜんちんれつ)せし作品(さくひん)を多(おほ)く出品(しゆつぴん)せるが、新作(しんさく)ハ昨年或(さくねんあるひ)ハ一昨年(さくねん)に比(くら)べて傑出(けつしゆつ)せる者少(ものすく)なきやうなり。黒田清輝氏(くろだきよてるし)の大作(たいさく)なきも物足(ものた)らず。紀念(きねん)の名(な)に対(たい)しても、同会(どうくわい)の首領(しゆりやう)たる氏(し)の新製作(しんせいさく)を出(いだ)すべき筈(はず)なり。今年(ことし)の出品(しゆつぴん)にて重(おも)なるハ和田英作氏(わだえいさくし)の「衣通姫(そとほりひめ)」岡田(をかだ)三郎助氏(ろうすけし)の「林中(りんちう)の美人(びじん)」中沢弘光氏(なかざはひろみつし)の「冬(ふゆ)の山麓(さんろく)」小林萬吾氏(こばやしまんごし)の「静(しづか)」三宅克巳氏(みやけかつみし)の「水彩画(すゐさいぐわ)」と小林(こばやし)千古氏(こし)の作(さく)十数種(すうしゆ)なり。コランの樹木(じゆもく)に身(み)を寄(よ)せたる美人(びじん)の図(づ)ハ群(ぐん)を抜(ぬ)いて柔(やはら)かき筆(ふで)つき漂渺(へうべう)として夢(ゆめ)の如(ごと)く、今春(こんしゆん)のローランスの雄健(ゆうけん)の筆(ふで)と相対(あひたい)して面白(おもしろ)し。これ等(ら)の作(さく)により西洋(せいやう)の名画(めいぐわ)を想望(さうぼう)するハ葦(よし)の茎(けゐ)から天(てん)をのぞく観(くわん)あれど、これ丈(だけ)にても我国(わがくに)の美術好(びじゆつず)きにハ、有難(ありがた)き賜物(たまもの)なり。中澤氏(なかざはし)の冬景(とうけい)ハ際立(きわだ)つて人(ひと)の目(め)を惹(ひ)かざるも、シンミリして俗気(ぞくけ)も厭味(いやみ)もない色合(いろあ)ひハ確(たし)かに場中(ぢやうちう)の一流(りう)なり。橋本邦助氏(はしもとくにすけし)の水辺(すゐへん)の田舎女(いなかをんな)の図(づ)ハ、描(ゑが)ける所(ところ)が画面(ぐわめん)に収(おさ)まりし器用(きよう)の作(さく)といふべし。青年作家中秀(せいねんさくかちうすぐ)れたる方(はう)なるが、小器用(こきよう)に終(をは)らぬを望(のぞ)む。赤松氏(あかまつし)の耕作(かうさく)の図(づ)は徒(いたづ)らに大(だい)なるのみにて、極(きは)めて粗末(そまつ)、牛(うし)の足(あし)なども不格好(ぶかつかう)なり。和田(わだ)三造氏(ざうし)の牧場(ぼくぢやう)ハ稍々勝(やゝまさ)れり。萬吾氏(まんごし)の「静(しづか)」ハ苦心(くしん)の作(さく)なるべく、前年(ぜんねん)に比(ひ)して進歩(しんぽ)せるやうなれど、歴史画(れきしぐわ)としてハ未(いま)だ完全(くわんぜん)に遠(とほ)し。何(なん)となうギクシヤクして、顔(かほ)の表情(へうじやう)ハ殆(ほとん)どなく、扇(あふぎ)を持(も)つて突(つ)き出(だ)したる右(みぎ)の手(て)つきが不格好(ぶかくかう)にて、舞(ま)ひの名人(めいじん)とハ思(おも)へず、元(もと)より一見(けん)して誰(た)が目(め)にも「静(しづか)」と思(おも)はるゝやうにとハ無理(むり)の注文(ちうもん)なれど、画題(ぐわだい)を知(し)りても尚只(なほたゞ)の女(をんな)が下手(へた)な舞(まひ)を演(えん)ぜる以上(いじやう)に、歴史的興味(れきしてききようみ)を生(しやう)ぜざるハ佳作(かさく)といふべからず。されどこれ歴史画(れきしぐわ)の困難(こんなん)なる所以(ゆゑん)にて、吾人(ごじん)ハ多(おほ)くの希望(きぼう)を後日(ごじつ)に抱(いだ)き、かゝる複雑(ふくざつ)なる感想(かんさう)をあらはさんと企(くはだ)つるのみにても稍多(やゝおほ)しとすべし。(つゞく)

  目次 |  戻る     進む 
©独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所