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白馬会関係新聞記事 第10回白馬会展

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白馬会(はくばくわい)を観(み)る(つゞき)
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| 野口米次郎 | 読売新聞 | 1905(明治38)/09/30 | 1頁 | 展評 |
和田氏(わだし)の衣通姫(そとほりひめ)ハ小林氏(こばやしゝ)の作(さく)よりハ光沢(くわうたく)のある美術品(びじゆつひん)であるのを断言(だんげん)するのである、恨(うらむ)らくハ衣通姫其物(そとほりひめそのもの)の中心(ちうしん)を失(うしな)つて居(ゐ)る如何様(いかやう)に見(み)ても天(てん)から降(くだ)つたものか中乗(ちうのり)でもして居(ゐ)る女(をんな)の様(やう)に思(おも)はれる又何故(またなにゆゑ)に斯(か)かる背景(はいけい)を入(い)れたものか僕(ぼく)には合点(がてん)が行(ゆ)かぬのである歴史上(れきしゞやう)の人物(じんぶつ)を描(えが)くのにハ静御前(しづかごぜん)でも衣通姫(そとほりひめ)でも、誰(だれ)が見(み)ても静御前(しづかごぜん)だ衣通姫(そとほりひめ)だと直覚(ちよくかく)せしむる丈(だ)けの画家(ぐわか)の方(はう)に準備(じゆんび)と画面(ぐわめん)に於(お)ける説明(せつめい)が無(な)くてハいけまいと思(おも)ふ此(こ)の二幅(ふく)の画共(ぐわとも)に何々(なになに)であると説明(せつめい)せられて初(はじ)めて左様(さう)かと思(おも)はしむるのであるから歴史画(れきしぐわ)としてハ其価値如何(そのかちいかん)を疑(うたが)はざるを得(え)ないと思(おも)ふ(僕(ぼく)の云(い)ふ所(ところ)ハ修養(しうやう)する批評家(ひゝやうか)の言(げん)でなくて素人(しろうと)の眼(め)で見(み)た評言故作者自身(ひやうげんゆゑさくしやじゝん)も深(ふか)く責(せ)め玉(たま)ふな)@岡田三郎助氏(をかださぶろすけし)の作優麗(さくいうれい)なる美人(びじん)が林間(りんかん)に立(たつ)て居(ゐ)るのハ秋(あき)の霊(れい)か、夢(ゆめ)なるが如(ごと)き画(ぐわ)で其技量(そのぎりやう)に於(おい)ても確実(かくじつ)と重大(ぢうだい)ならざる所(ところ)が詩趣(しゝゆ)のある所以(ゆえん)であるであらう空気(くうき)も少(すく)なからず作者其人(さくしやそのひと)ハ小品的詩人(せうひんてきしゞん)であるであらうと思(おも)はせる計(ばか)りといふに止(とゞ)めて置(お)かう同室(どうしつ)に小林千古氏(こばやしせんこし)が三幅対(ぷくつひ)の仏画(ぶつぐわ)(?)ハ大家(たいか)たる自信(じしん)と意見(いけん)があつて初(はじ)めて描(か)き得(う)る題目(だいもく)で小林氏(こばやしゝ)ハ消化(せうくわ)し得(え)なかつたと思(おも)はせるのである僕(ぼく)は不安心なる心持(こころもち)を以(もつ)て仏画(ぶつぐわ)を見(み)たのである小林氏(こばやしゝ)の出品中(しゆつぴんちう)にハカンバスハ少(すくな)けれど、大(だい)なる美術的空気(びじゆつてきくうき)を含蓄(がんちく)して居(ゐ)るものが少(すく)ない要(えう)するに其写実(そのしやじつ)の正確(せいかく)なのと画(ぐわ)に対(たい)する熱心(ねつしん)な点(てん)に於(おい)て五号館中第(がうくわんちうだい)一であるかとも思(おも)はした、同氏(どうし)の作(さく)で巴里(ぱりー)のモデルのパステリヤ裸体(らたい)な男子(だんし)の二幅対(ふくつひ)などを見(み)ると氏(し)の将来(しやうらい)の作品(さくひん)に注意(ちうい)せしむる丈(だけ)の引力(いんりよく)があるのである氏(し)ハ充分(じうぶん)なる技量(ぎりやう)があるので将来題目(しやうらいだいもく)の好(よ)いのを撰(えら)むで、意気(いき)な所(ところ)と詩趣(ししゆ)を入(い)れることが出来(でき)たら驚(おどろ)く可(べ)き作(さく)があるであらう妄評多罪(もうひやうたざい)(九月二十四日)

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