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白馬会関係新聞記事 第10回白馬会展

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白馬会漫評(はくばくわいまんぴやう)(四)
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| 同行二人 | 日本 | 1905(明治38)/10/08 | 3頁 | 展評 |
一、婦人の図(コラン)@△矢張(やはり)かうやつて見(み)ると、鶏軍(けいぐん)の一鶴(くわ)でズント抜(ぬ)き出(で)てをるのは何人(なんびと)も異議(いぎ)のない処(ところ)であらう。ラフワエル・コラン氏(し)は十年前(ねんぜん)オール・コンクルーになつたのであるが、この図(づ)は慥(たし)か其時(そのとき)の作(さく)で、當時(たうじ)二等銀牌(とうぎんぱい)を得(え)たのである。仏国(ふつこく)の画界(ぐわかい)でも銀牌(ぎんぱい)の価値(かち)あるものとして尊重(そんちよう)されたのであるから、この中(うち)に在(あ)つて群(ぐん)を抜(ぬ)くのも亦(ま)た自然(しぜん)の結果(けつくわ)である。元来(ぐわんらい)コラン氏(し)は軟(やはら)かい絵(ゑ)が長所(ちやうしよ)であつて、殆(ほとん)ど女専門画家(をんなせんもんぐわか)の如(ごと)く言(い)はれて居(ゐ)る位(くらゐ)であるから、この図抔氏(づなどし)の得意(とくい)の作(さく)と言(い)つてよい。一点(てん)の邪気(じやき)なく純潔明透(じゆんけつめいとう)むしろ崇高(そうかう)の気(き)に満(み)ちてをる。肉色(にくいろ)と言(い)ひ白(しろ)い衣裳(いしやう)と言(い)ひ筆致穏雅(ひつちをんが)で然(し)かも暖(あたゝ)か味(み)が溢(あふ)れんとして居(ゐ)るのは最(もつと)も注意(ちうい)すべき点(てん)である尚(な)ほ専門的(せんもんてき)に仔細(しさい)に見(み)て行(ゆ)くと種々啓発(しゅじゅけいはつ)する点(てん)がある。固(も)と油絵(あぶらゑ)といふとたゞ色(いろ)を塗(ぬ)りさへすればよいやうに思(おも)うて、筆致といふこと抔(など)は全然(ぜんぜん)ないやうに思(おも)ふ人(ひと)も少(すくな)くはないが、決(けつ)してさうではないことは、この絵(ゑ)で証明(しようめい)されてをる。即(すなは)ち袴(はかま)の裾(すそ)の方(はう)などを見(み) ると、一刷毛(はけ)で思(おも)ひきつた線(せん)が引(ひ)いてある。其線(そのせん)たるや決(けつ)して一分宛塗(ぶづゝぬ)つていつたものでなくて、一気呵成(きかせい)に下(くだ)したものである。何(なん)となく其線許(そのせんばか)りを見(み)ると雄勁(ゆうけい)な感(かん)がある。かゝる穏雅(をんが)な画中(ぐわちう)にかゝる雄勁(ゆうけい)な線(せん)のあらうとは何人(なにびと)も思(おも)ひ及(およ)ばぬことであらうが、これはこの絵許(ゑばか)りでなく、油絵(あぶらゑ)の何(いづ)れにもあることで、特(とく)に珍(めづ)らしとするに足(た)らぬ。即(すなは)ち知(し)るべしで、油絵(あぶらゑ)にも筆力(ひつりよく)の必要(ひつえう)なるは尚(な)ほ日本絵(にほんゑ)にも劣(おと)らぬ位(くらゐ)である。且又(かつま)た雄勁(いうけい)な筆力(ひつりよく)といふことは画面(ぐわめん)の穏雅(をんが)といふことに何(なん)の障(さは)りもなさぬのみか、筆力(ひつりよく)を忘(わす)れた絵(ゑ)は魂(たましひ)のない土偶(でく)の坊(ぼう)の如(ごと)きものであるといふことも附加(つけくは)へる事(こと)が出来(でき)る。この点(てん)に就(つ)いて日本(にほん)の洋画家(やうぐわか)に三省(せい)を促(うなが)したい。尚(なお)一つ研究(けんきう)すべきことは著色(ちやくしよく)の点(てん)である。色(いろ)を使(つか)ふ上(うへ)に於(おい)て至難(しなん)なことは、色(いろ)の固有(こいう)の光沢(くわうたく)を発揮(はつき)するといふことである。余(あま)り専門的(せんもんてき)に流(なが)れるかも知(し)れぬが色(いろ)は二つ以上混(いじやうま)ぜ合(あ)はすと、其固有(そのこいう)の光沢(くわうたく)が殆(ほとん)ど無(な)くなるものである。併(しか)しそれを刷毛(はけ)の使(つか)ひやうで、カンバスに刷(は)き下(おろ)した時再(ときふたゝ)び固有(こいう)の光沢(くわうたく)を発揮(はつき)せしめねばならぬ。そは多(おほ)くの苦心(くしん)と熟練(じゆくれん)によるのであるが、其心得(そのこゝろえ)のない画(ぐわ)は殆(ほとん)ど泥(どろ)を塗(ぬ)つた如(ごと)く、何等(なんら)の感(かん)じをも引(ひ)かなくなる。尤(もつと)もそはローマンチック派(は)の苦心(くしん)する処(ところ)であるが、今日進歩(こんにちしんぽ)した画(ぐわ)に志(こゝろざ)す者(もの)は其(その)アンプレツシヨンと何(なに)とに関(かゝは)らず、皆色(みないろ)の光沢(くわうたく)を発揮(はつき)せしむる手段(しゆだん)を以(もつ)て著色上第(ちやくしよくじやうだい)一の要件(えうけん)として居(ゐ)るのである、今(いま)このコラン氏(し)の作(さく)を見(み)ると、其目的(そのもくてき)は十分達(ぶんたつ)せられてをると言(い)つてよい。肉色(にくいろ)のみならず着流(きなが)した白(しろ)い衣裳(いしやう)も何(なん)となく一種(しゆ)の光(ひか)りを放(はな)つてをつて、仰山(ぎやうさん)にいふと光明赫奕(くわうめいかくえき)として居(ゐ)る。この点(てん)も亦(ま)た我(わ)が洋画家(やうぐわか)に十分(ぶん)の研究(けんきう)を乞(こ)ひたいので着色(ちやくしよく)の進歩(しんぽ)を以(もつ)て誇(ほこ)つてをるこの会(くわい)の人(ひと)などには釈迦(しやか)に説法(せつぱふ)かも知(し)れぬが、尚(な)ほ自作(じさく)に対(たい)して一顧(こ)の注意(ちうい)あらんことを希望(きばう)するのである。@◎何(なに)か知(し)らぬがノビノビしてをつて、何(なん)の滞(とゞこほ)りもない処(ところ)が説明(せつめい)し難(がた)い程愉快(ほどゆくわい)である。日本(にほん)にも早(はやく)くこんな絵(ゑ)が出来(でき)るやうにしたいものだ。(同行二人)

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