黒田記念館 > 研究資料 > 白馬会関係新聞記事 > 第7回白馬会展

白馬会関係新聞記事 第7回白馬会展

戻る
白馬会展覧会素見記(はくばくわいてんらんくわいすけんき)(上)
目次 |  戻る     進む 
| 鬼 | 東京朝日新聞 | 1902(明治35)/10/12 | 2頁 | 展評 |
今年(こんねん)の白馬会展覧会(はくばくわいてんらんくわい)は、昨年(さくねん)に比(くら)べると余程見(よほどみ)ものであると聞(き)いたから、此程観覧(このほどくわんらん)に出掛(でか)けた、併(しか)し最早閉館(もはやへいくわん)の時刻(じこく)に差迫(さしせま)つて居(ゐ)たので、素通(すどほり)も同然(どうぜん)にサツサと観(み)てたのだから、其画様(そのぐわやう)も一々記憶(きおく)に留(とゞ)まつて居(ゐ)ないが、概(がい)して云(い)ふと、昨年(さくねん)のは全体打揃(ぜんたいうちそろ)つて余(あま)り巧拙(かうせつ)の差(さ)がなかつた為(ため)、興味(きようみ)も割合(わりあひ)に少(すくな)かつたに引換(ひきか)へ、本年(ほんねん)は絵画(くわいぐわ)の類(るゐ)も多(おほ)いし、技巧(ぎかう)の点(てん)も著(いちじる)しく進歩(しんぽ)したものと拙(まづ)いものとあるので、従(したが)つて面白(おもしろ)さも一層深(そうふか)い感(かん)じがある。@それで本会(ほんくわい)の長所(ちやうしよ)と短所(たんしよ)に就(つい)て一寸考(ちよつとかんが)へ附(つ)いた事(こと)を述(の)べて見(み)やう。先(ま)づ第(だい)一に気付(きづ)いたのは、題目(だいもく)の選択(せんたく)が一体(たい)に卑近(ひきん)で趣味(しゆみ)の浅薄(せんばく)なと思(おも)ふ事(こと)である。日本(にほん)の画家(ぐわか)などは今(いま)は形式的(けいしきてき)に流(なが)れる弊(へい)は無論免(むろんまぬが)れないが、古人(こじん)の遺(のこ)した善(よ)い画題(ぐわだい)を捉(とら)へ、それを取捨(しゆしや)して筆(ふで)を下(くだ)すのだから、比較的高尚(ひかくてきかうしやう)なものがある。余(あま)り卑近(ひきん)な無意味(むいみ)なもの計(ばか)り描(かい)て居(ゐ)ては、西洋画家(せいやうぐわか)は兎角無学(とかくむがく)で思想(しさう)も卑近(ひきん)の様(やう)に見(み)えて損(そん)である。世(よ)の中(なか)の出来事(できごと)を能(よ)く熟察(じゆくさつ)すれば美術的(びじゆつてき)で面白(おもしろ)いものが幾許(いくら)もある、マサカ下女(げぢよ)の洗濯抔(せんたくなど)が好画題(かうぐわだい)と限(かぎ)つた訳(わけ)でもあるまい。ト云(い)つて山水(さんすゐ)なら赤壁(せきへき)とか、人物(じんぶつ)なら仙人(せんにん)といふ様(やう)なものを描(かけ)と、いふ論(ろん)では決(けつ)してない。現(げん)に今回(こんくわい)の出画中(しゆつぐわちう)でも岡田(おかだ)三郎助(ろすけ)、和田英作氏(わだえいさくし)の作(さく)には一見(けん)して、何(なん)となく高尚(かうしやう)な意味(いみ)が含(ふく)まれて居(ゐ)るのがあることを感(かん)ずる。是(こ)れは穴勝西洋(あながちせいやう)のものを描(か)いたからと云(い)ふ訳(わけ)でもあるまい。此等(これら)は初(はじ)め画題(ぐわだい)を択(えら)ぶ時作家(ときさくか)の注意如何(ちういいかん)にある事(こと)であろう。@それから一体(たい)の通感(つうかん)は、デツサンの素養(そやう)の足(た)りない事(こと)である。(是(これ)は他(た)の会(くわい)の絵画(くわいぐわ)にも免(まぬが)れぬが)是(これ)は大概(たいがい)の絵(ゑ)を見(み)ると直分(すぐわか)るのである。今其(いまその)一例(れい)を挙(あ)げて云(い)ふと、景色(けいしよく)では場所(ばしよ)の択(えら)み方(かた)や、位置(いち)の切(き)り方(かた)などに最(もつと)も其弊(そのへい)が現(あら)はれて居(ゐ)ると思(おも)ふ。此場所(このばしよ)を択(えら)ぶことはなかなか六(むづ)ケ敷(し)いことで、余程素養(よほどそやう)がなければならぬ、又場所(またばしよ)を択(えら)んだ上(うへ)でも之(これ)を堅(たて)にするとか横(よこ)にするとか、其位置(そのゐち)を極(き)めることも甚(はなは)だ大切(たいせつ)である。こんな事(こと)は我々素人(われわれしろうと)の言(げん)を待(ま)たないでも知(し)れ切(き)つたことではあるが、兎角画家(とかくぐわか)の中(うち)には此(この)知(し)れ切(き)つた事(こと)を忽(ゆるがせ)にする傾(かたむ)きのあるは、頗(すこぶ)る善(よ)くない事(こと)であると思(おも)ふ。@次(つぎ)に此会(このくわい)の出画(しゆつぐわ)に就(つい)て感服(かんぷく)するものは、全(まつた)く空想(くうさう)によつて描(ゑが)いたものゝ少(すくな)くして、何事(なにごと)も写生(しやせい)に行(い)つたことである。此(こ)の一切写生(さいしやせい)の傾向(けいかう)に赴(おもむ)いたのは、技巧(ぎかう)に於(おい)て従前(じうぜん)に比(ひ)し一段(だん)の進歩(しんぽ)を示(しめ)したもので、甚(はなは)だ善(よ)い事(こと)である。それに最一(もひと)つは一体(たい)に光線(くわうせん)を描(ゑが)くことの巧妙(かうめう)なる事(こと)であるが、是(こ)れも進歩(しんぽ)の一(ひと)つで実(じつ)に感服(かんぷく)の外(ほか)はない。(鬼)

  目次 |  戻る     進む 
©独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所