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白馬会関係新聞記事 第6回白馬会展

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『裸体論(らたいろん)』に就(つい)て(つゞき)
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| (廿三日於青年会館学術演説会)@理学博士 坪井正五郎氏 | 読売新聞 | 1901(明治34)/11/26 | 1頁 | 雑 |
△裸体画(らたいぐわ)と書(か)き始(はじ)めた起(おこ)り 裸体(らたい)の内(うち)にも真裸体(しんらたい)、准裸体(じゆんらたい)、半裸体(はんらたい)の三通(とほ)りあります欧羅巴抔(えうろつぱなど)にハ無論(むろん)ありませんが南亜米利加(みなみあめりか)の南端及(なんたんおよ)び墺斯太利亜(おうすだらりあ)にハ真裸体(しんらたい)の処(ところ)が随分多(ずゐぶんおほ)いのです、亜弗利加(あふりか)にハ真裸体(しんらたい)の処(ところ)ハ少(すこ)しもありませんが中央並(ちうおうなら)びに北部(ほくぶ)の方(はう)ハ何(いづ)れも准裸体(じゆんらたい)です又亜細亜(またあじあ)の中(うち)でも暹羅印度(しやむいんど)の如(ごと)きハ半裸体(はんらたい)の処(ところ)が沢山(たくさん)あります其(そ)の外寒(ほかさむ)い国(くに)でも裸体(らたい)で居(ゐ)る処(ところ)が随分(ずゐぶん)あります、寒(さむ)いから衣服(いふく)を着(き)る暑(あつ)いから着(き)ないと限(かぎ)つて居(を)りません、然(しか)らバ裸体(らたい)ハ未開(みかい)だからある開(ひら)けて居(ゐ)るからないと云(い)ふことに限(かぎ)つては居(を)らないのであります@現(げん)に埃及(えじぷと)が教育(けういく)でも宗教(しうけう)でも共(とも)に盛(さか)んな国(くに)でありました頃(ころ)にも衣服(いふく)ハ半裸体若(はんらたいも)しくハ准裸体(じゆんらたい)で余程高貴(よほどかうき)の者(もの)でも准裸体(じゆんらたい)で居(を)りましたので神像仏像(しんぞうぶつぞう)の如(ごと)きも矢張(やは)り裸体(らたい)の物(もの)が沢山(たくさん)ありました、之(こ)れから推(お)して行(ゆ)けバ裸体(らたい)ハ必(かなら)ず知識(ちしき)の程度(ていど)に伴(ともな)ふものでハなくて全(まつた)く一つの習慣(しうくわん)から来(き)たものであらうと思(おも)はれますそれで埃及(えじぷと)の彫刻師(てうこくし)が拵(こしら)へまする神仏(しんぶつ)の像(ぞう)ハ悉(ことごと)く裸体(らたい)のもの計(ばか)りを作(つく)り又画工(またぐわこう)が神仏(しんぶつ)の画(ぐわ)を書(か)くにも裸体(らたい)のものばかり書(か)いて居(を)りましたが之(こ)れ等(ら)ハ其(そ)の當時(たうじ)の常態(じやうたい)でありましたから少(すこ)しも可笑(をか)しくもなく又不思議(またふしぎ)でもありません寧(むし)ろ當然(たうぜん)の事(こと)であつたのです@恰度其當時(ちやうどそのたうじ)ハ羅馬(らうま)や希臘(ぎりしや)が開(ひら)けかけて居(ゐ)た時(とき)でありましたが何(な)んでも埃及(えじぷと)のものハ善(よ)いものであると云(い)ふ考(かんが)へから裸体(らたい)の彫刻物抔(てうこくぶつなど)も其(そ)の侭無意識(ままむいしき)にドシドシ輸入(ゆにふ)しましたのハ宛(まる)で日本(にほん)が維新(ゐしん)の當時何(たうじな)んでも舶来品(はくらいひん)でなくてハならぬと云(い)う工合(ぐあい)に種々(しゆじゆ)の者(もの)を輸入(ゆにふ)したと同(おな)じ事(こと)でありました、又日本(またにほん)でも印度(いんど)から這入(はいつ)て来(き)た物抔(ものなど)にハ随分裸体(ずゐぶんらたい)のものが沢山(たくさん)ありました仁王(にわう)の如(ごと)きハ全(まつた)く其(そ)の一つであります@斯(か)う云(い)ふ風(ふう)に何(なん)でも構(かま)はずに輸入(ゆにふ)した結果後世(けつくわこうせい)の人々(ひとびと)が裸体(らたい)ハ神仏許(しんぶつばか)りでハ面白(おもしろ)くないから人間(にんげん)の裸体(らたい)を書(か)いたら興味(きようみ)があらう抔(など)と云(い)ふ好(この)みによつて書(か)き始(はじ)めましたのが即(すなは)ち裸体画(らたいぐわ)なるものの現(あら)はれて来(き)た起元(きげん)であらうと思(おも)はれます(つゞく)

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