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白馬会関係新聞記事 第6回白馬会展

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芸苑饒舌 二十六 美術と道義(其三)
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| 無記庵 | 東京日日新聞 | 1901(明治34)/10/23 | 4頁 | 雑 |
元来今までの世(よ)の道義(だうぎ)の教(をし)へが、悪徳(あくとく)のことに接するに當(あた)りて、人をして克己制欲といふことを以てこれに応ぜしめて、以てそれに指(ゆび)を染(そ)めざらしめやうとする習(なら)はしは、下根劣機に対(たい)する仏道(ぶつだう)の方便教が、堕地獄(だぢごく)の恐怖心を以てして、無智(むち)の民(たみ)を悪道に入(い)らざらしめむとするよりも、更(さら)に一層拙劣不及(せつれつふきう)の方法ではないか。地獄(ぢごく)といふ変(へん)てこなものを仮設して、一も二もなくその実在を信ぜしめて恐れさせるのと、克己制欲(こくきせいよく)といふ妙(めう)なものを立てゝ、何(なに)は構(かま)はずにまづそれを無上(むじやう)の美徳(びとく)と取り極(き)めて教(をし)へ込(こ)んで、人をして自慢(じまん)さうにそれを行はしめるのとは、その立教(りつけう)の根本が何(いづ)れも既(すで)に薄弱極まるものであつて、少(すこ)しく向上の智慧(ちゑ)のあるものが、その教への根本になつて居(を)るところの、地獄の実在(じつざい)を疑ひ出し、克己制欲の何故(なにゆゑ)に美徳(びとく)なるやあらずやを疑ひ始めたならば、地獄は恐ろしいから悪(わる)い事をすな、克己制欲は善(よ)い事(こと)だから行ふて悪徳の境に入るなと、百曼荼羅教(まんだらをし)へたからとて、何(なん)の効(かう)も無くなる。@人間の本来(ほんらい)の擬度準志(ぎどじゆんし)といふものは、一口に言(い)ふて見れば最も軽少(けいせふ)なる作業(さくげふ)を以て、最も高大(かうだい)なる生活(せいくわつ)を営もうといふのである。また最(もつと)も微細(びさい)なる抑損を以て、最(もつと)も広大(かうだい)なる不利を免(まぬが)れやうといふのである。人(ひと)が善業(ぜんげふ)を行い悪業を作(な)し乃至非善非悪の諸業を営むことよりして、一挙手一投足乃至一言半句の言動云為に至るまで、造次頗沛ことごとくこの考(かんが)へから割(わ)り出(だ)されて来ないものは無い。道義の教もその大本はまたこれに過ぎぬものである。@それだからして、人類(じんるゐ)といふ動物(どうぶつ)は、道義も糸瓜(へちま)も少しも教(おし)へないで置いても、器世界及人間界(きせかいおよびにんげんかい)の事物萬法の変化推移(へんくわすいゐ)して行く因果の條路(すぢみち)を知る智慧が明かになりさへすれば、己(おのれ)の生活を損(そこ)ね不利を招くやうな愚なことは、やれといふてもやる気づかひは無い筈のものである。ところが、この萬法の因果(いんぐわ)の條路を観(み)る智慧が明(あきら)かでないところの幼者とか無智(むち)の民とかいふものは、可愛(かあい)さうなことには、前因後果を推(お)し考へて、某(なにがし)の作業(さくげふ)の或は為すべきか或は行(おこな)ふべからざるかを揀遅することが出来ないからして、時々間違(ときどきまちが)へて、己(おのれ)の生活を損ね不利(ふり)を招(まね)くことをやるのである。是等(これら)の人をしてそんな愚(ぐ)なことをやらすまいとするには、則ち萬法の因果を明にする智見を開かしめるに在るのみで、その外(ほか)に道義(だうぎ)などゝいふものは少(すこ)しも入用がない。@然しながら、萬法因果(ばんぱふゐんぐわ)のありさまを知悉(ちしつ)するといふことは、一寸やそつとではむづかしいのみならず、器根の低(ひく)いものには、到底充分(たうていぢうぶん)にはやりきれないから、こゝに於いてか止むことを得ず、當座凌ぎの方便(はうべん)に、古来の列聖群賢が或は宗教(しうけう)或は倫理に道義(だうぎ)といふことを唱(とな)へ出(だ)して、己が作業の前因後果の分からない昧者どもに、順奉するに足りるやうな法則(はふそく)なり手本(てほん)なりを作(つく)り投(つゞ)けて、その言動の其人(そのひと)に不利なることを為さゞらしめやうとしたのである。その心切(しんせつ)はくれぐれも感謝(かんしや)せねばならぬが、その立てられたる道義の教へといふものは、どこまでも昧者の智慧(ちえ)の不具(ふぐ)を備(そな)ふところの一方便に過(す)ぎぬものであつて、因果(ゐんぐわ)の智慧の明朗なる上根上智の人(ひと)に向(むか)ひては、誠(まこと)に一つの蛇足であるといふことは、決して免れない。@人文の開明(かいめい)に伴ひて、人の因果を了(れう)する智慧は、だんだん明朗(めいらう)になるし、またその明朗なる人の数が昧者に比してだんだん多(おほ)くなる。そこで、宗教や倫理などの道義上(だうぎじやう)の教へは、人文の開明(かいめい)に従ひて、そのお陰(かげ)に頼(よ)らねばならぬ人の数(すう)も減(へ)り、またその必要(ひつえう)の度も薄(うす)らいで来ることは免れない。@そこで、開明の世は、道義教から見ると所謂澆季に見えるけれども、その実(じつ)は、萬法の因果(ゐんぐわ)を明知せる人間が殖えて来た為めに、道義の教へなどゝいふやうな因果を説明(せつめい)せざる一筋縄(すじなわ)では役(やく)に立たず、そんなものは知(し)らなくても、現在若(げんざいもし)くは未来に於いて己が生活(せいくわつ)を損(そん)するやうな愚(ぐ)なことをする人が少くなつたのである。これが即ち今の老子にでも言はせれば、大道興りて仁義なしといふやうなものであらう。今の学校教育に用ゐて居るところの理科、数学、地理、歴史、言語、心理、生理、哲学などの諸科の学問は、即ちみなこれ萬法(ばんぱふ)の因果を説明し知了せしめる所以のものである。

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