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白馬会関係新聞記事 第6回白馬会展

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芸苑饒舌 二十六 美術と道義(其二)
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| 無記庵 | 東京日日新聞 | 1901(明治34)/10/19 | 7頁 | 雑 |
学校教育の上に於いては、少年(せうねん)の智識(ちしき)のまださまで発達(はつたつ)しない中に、悪徳(あくとく)の人事を見聞(けんぶん)させることは、多少危険(たせうきけん)の処があるかも知れず、また社会教育の上に於いては、たとひ成人でも智識(ちしき)の足(た)りないものに、悪徳の事を見聞(けんぶん)させるのは、同(をな)じく恐ろしい結果(けつくわ)を招(まね)くかも知(し)れない。そこで、古来の道義家(だいぎか)は、智識の程度(ていど)の低(ひく)い人、殊には少年に、なるたけ是等の悪徳の人事を見聞させまい、なるたけ嘉言(かげん)を聞かせ美行を見(み)せて、善(ぜん)を以て習性とならしめやうとはするのである。@然し善くこれを考へて見ると、かくの如き教育の方針(はうしん)なり目的なり方法なりは、畢竟(ひつけう)するに、極めて卑怯千萬なるものであつて、この千変萬化錯綜聊関極まりなき人間の因果(いんぐわ)の諸法に向(むか)ひて、某の部面(ぶめん)にだけ強ひて耳を閉(と)ぢ目(め)を塞(ふさ)がせ、人心の本然の霊能(れいのう)を賊(ぞく)し、人智の甚深の悟性(ごせい)を暗(くら)くして、人をして柔弱(にうじやく)なる萌(も)やし独活(うど)の如き擔板漢とならしめるものではあるまいか。かくの如き卑怯なる道義風教(だうぎふうけう)に萌(も)やされた人は、なるほど善人(ぜんにん)にはなるであらうけれども、その善性や甚だ薄弱なものであつて、未だ悪徳(あくとく)の事をも知(し)り悉(つ)くしたる覚悟の善性でないから、たとひ習が性とはなつても、決して不退転(ふたいてん)の善人とはなりにくい。たとへば善い事づくめで育(そだ)てられた人も、始めて淫楽(いんらく)の境に遇ひては、多く荒蕩(くわうとう)を免れざるが如きものではないか。@たとひ道義の束縛(そくばく)を以て、成育の何時(いつ)までかの間耳目を悪徳に蔽(お)ふたとて、また世(よ)の芸術(げいじゆつ)を覊絆(きはん)して一切悪徳の事を製作(せいさく)に現(あら)はさしめなからうとも人間世界の因果の萬法には、善と悪と非善非悪即ち無記との諸業が、年が年中、日がな一日として到る処に作(な)され行はれて、現行(げんぎやう)しつゝあらざることは無いからして、一生の間檻(おり)の中(なか)へでも入(い)れて置かぬ限(かぎ)りは、何時までも必ず悪徳(あくとく)の事を見聞(けんぶん)し非善の境にも触接(しよくせつ)せしめないといふわけには、決して行かない。而も人間世界の萬法は、善と悪と無記との業が、何(いづ)れも當分位に現行し、或(あるひ)は寧ろ善業よりは悪業の方が多いかも知れぬ位であるからして、なほさらのこと、善境ばかりに住することは出来ない。@まして悪徳の事には、眼前の楽欲(らくよく)を適悦せしめるものが多いからして、多くその事に接し屡々その境に遇へるものでゞもなければ、こゝに於いて克己制欲を全うすることがむづかしく、少年(せうねん)の間、前の薄弱なる道義(だうぎ)の檻(おり)の中(なか)に育(そだ)てられて、萌やしの善人(ぜんにん)となつた連中は、こゝに至(いた)りて彼の未覚の善性が、終に楽欲(らくよく)の荒れ馬を制御(せいぎよ)する韃の力弱くて、多くはこれを荒蕩の境(さかひ)に奔逸(ほんいつ)せしめてしまふ。多年の教育、嗚呼果(あゝはた)して何の効(かう)かあるといひたいやうなものだ。@萌やし教育を以て道義風教(だうぎふうけう)を維持(ゐぢ)する方法の極致となすものは、蓋(けだ)しかくの如き教育を絶対無量(ぜつたいむりやう)に普及(ふきふ)せしめて、世界の民(たみ)をして盡くその謂(い)ふ所の善人と化しおほせたならば、世には一法も悪徳の事の無いやうになるであらうと理想して、而してこれが実現(じつげん)に力(つと)めるのであらう。嗚呼果(あゝはた)して能く然ることを得るや否や、河心改修(かしんかいじう)の工事は、終に能く黄河をして清冽の泉となすことを得んや否や。

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