| 美術と道義との関係（くわんけい）の問題は、時々持あがつて来て、何時（いつ）になつても乾（ひ）る瀬（せ）がない。このごろもちらほら新聞や雑誌（ざつし）に見えて居るし、彫工会（てうこうくわい）の第十六回競技会へ美術学校（びじゆつがくかう）から参考品（さんかうひん）として出したＶｅｎｕｓの裸像を風俗取締（ふうぞくとりしまり）の官吏から撤去を勧めたとかいふ噂（うはさ）も聞いた。今度の白馬会の展覧会（てんらんくわい）にも、黒田清輝画伯の巴里で描いて来たとかいふ裸女図が出（で）る筈であるが、これも引込（ひきこ）まされはせぬかと案（あん）じられる。そこでまた少（すこ）しく例（れい）の差出口に美術と道義（だうぎ）との関係問題の一隅（ぐう）でも話（はな）して見やうと思（おも）ふ。＠予の如きは一体（たい）、有因果美（いういんくわび）の芸術としての裸像だの、肉慾（にくよく）の発動に衣を被（き）せた所謂恋愛（いはゆるれんあい）とやらの小説などは、一向好（かうこの）まぬ方ではあるが、芸術（げいじゆつ）が道義の境を犯（おか）すものは、たゞ独（ひと）り猥褻（わいせつ）だの淫蕩（いんたう）だのといふことばかりではなくて、卑劣（ひれつ）とか残忍（ざんにん）とか詐欺とか暴慢（ばうまん）とかいふやうな、あらゆる悪徳不倫（あくとくふりん）のことも、善業無記業と共にみな盡（ことごと）く能（よ）く芸術の材となるべきものであつて、従ひてみな道義風教（だうぎふうけう）を犯すといへば謂ふことの出来るものであるからして、芸術の道義に対（たい）する触犯（しよくはん）は、たゞ淫猥（いんわい）のことばかりを問題（もんだい）として論ずべきものではあるまいと考へるに由りて、こゝにあらゆる謂う所の悪徳不倫を総摂（そうせつ）して、以て其関係（そのくわんけい）を調べて見たいと思ふ。芸術の材（ざい）を悪徳の人事に取（と）ることを恐（おそ）れるのは、元来教育の考へから起つて来（く）ることであつて、学校上教育と社会上教育（しやくわいじやうけういく）との別こそあれ、何（いづ）れにしても風教を破（やぶ）る力（ちから）がある、悪徳を増長（ぞうちやう）させるといふので、これを恐れるのに過ぎない。＠そこで、芸術と道義（だうぎ）との問題（もんだい）は、やがて芸術と教育との関係になつて来る。さてその教育といふものゝ目的（もくてき）なり方法なりが、今（いま）までのやうなもので果して完全（くわんぜん）なものであるならば、どうしても芸術のこれを触犯（しよくはん）することをば、法律を以てしてなりとも禁制（きんせい）せねば、教育の効果（かうくわ）は、必ずその幾分（いくぶん）かを芸術の為に破（やぶ）られるに違（ちが）ひないからして、芸術家もこれには是非とも服従（ふくじう）せねばならぬのが、社会の一分子たる人としての義務であると治定せねばならぬ。若（も）しこれに従はぬ奴等（やつら）は、画かきでも小説家でも片（かた）はしから処罰（しよばつ）して、その製作権（せいさくけん）を剥奪しても差支はない。これまでの芸術家が、その作（つく）るところのものゝ、社会の風教（ふうけう）を害（がい）するといふことを、内心（ないしん）に認定承知（にんていしようち）して居ながら、而も敢てこれを廃（はい）せざるに至りては、その卑屈陋劣（ひくつろうれつ）や誠に言ふに忍びざるものである。＠また美学者などが、悪徳の事を以て材としたる芸術品の、風教を害（がい）すべきことを一面（めん）には認定（にんてい）しながら、一面には無上（むじやう）に芸術（げいじゆつ）の独立を唱へて、芸術はたゞ美（び）を作（な）し出すことを究竟の目的（もくてき）とする、その善を犯すや否やは顧みるところでない、芸術は教育の具（ぐ）となりその奴隷（どれい）として存するものでない苟も能く美を作しさへすれば、風教を害するや否やは我不関焉と捨鉢（すてばち）をきめ込（こ）み、或はまた悪徳の挑発（てうはつ）を目的として作（つく）りさへせずば、美（び）を成す目的を以てその材（ざい）として悪徳（あくとく）の事を出すは可（か）なりといふやうにずるく逃（に）げるなどは、何れもみな道義風教の賊（ぞく）として擯斥（ひんせき）せねばならぬ外道である。＠ところが、予はその所謂教育（いはゆるけふいく）といふものゝ、これまでの目的なり方法なりに申し分があるので、かくの如き芸術（げいじゆつ）と道義との隔歴（かくれき）を生じて、どこまで行いても会融（えゆう）の出来ぬのであると考へる。
|
目次 |
戻る 
進む
