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白馬会関係新聞記事 第6回白馬会展

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白馬会に於ける黒田氏の裸体画の評(一)
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| 時事新報 | 1901/11/10 | 6頁 | 雑 |
白馬会に陳列(ちんれつ)してある黒田氏の裸体画(らたいぐわ)は、実に同氏が、巴里客中(ぱりかくちう)に作れるもの。画材(ぐわざい)の西洋婦人(せいやうふじん)なることを見ても、わが国(くに)に於いての製作(せいさく)でないことは、何人にも解(わか)るのである。画面(ぐわめん)は、婦人の室内(しつない)に打寛(うちくつろ)ぎて、体躯(からだ)を斜(なゝ)めに座(ざ)し、顔(かほ)を少しく俯(うつむ)けたる所。バツクには、あらき模様(もやう)の帳(とばり)を垂れ、地(ぢ)には、いかめしき熊(くま)の皮(かは)が敷かれてあるといふ図(づ)。@画題の詮議は徒労 扨て画題(ぐわだい)は、何ンであるか。作者其人は、主(しゆ)として何処(どこ)を狙(ねら)つて、如何(いか)なる所を描(か)いたのであるか。由来題目(だいもく)の詮議(せんぎ)に慣(な)れたる邦人の眼(まなこ)には、必ずまづ斯(かゝ)る考(かんが)へが起るに違ひない。実際(じつさい)に自分に向(むか)つて、かやうの疑問(ぎもん)を発(はつ)したものもある。されど今日の芸術家(げいじゆつか)は、比較的(ひかくてき)に題目を軽(かろ)しめて、必ずしも深(ふか)く意(こゝろ)を此処に留(とゞ)めない。否な、無益(むえき)の題目(だいもく)の為めに、画面に範籬(はんり)を造つて、観者(くわんじや)が自由に興起(こうき)すべき感情(かんじやう)を拘束(かうそく)することを嫌(きら)ふ。作者畢生の精力(せいりよく)を篭(こ)めて、某(それ)の製作を思立(おもひた)ち、さて出来上(できあが)りたる暁(あかつき)には、これを公衆(こうしう)の面前に投(な)げ出(だ)して、君等(きみら)いかにとも感(かん)じ、且つ観(み)よといふ洒々落々(しやしやらくらく)の襟度(きんど)が、今日に於ける芸術家通有(げいじゆつかつういう)の希望らしい。古人の詩句(しく)を題(だい)し、或は無学者(むがくしや)の為めに作れる成語集(せいごしう)の中より、むづかしい熟字(じゆくじ)を藉(か)り来つて画面を汚(けが)す、漢画者流(かんぐわしやりう)の遣方(やりかた)は、啻に題意(だいゝ)と画趣(ぐわしゆ)と齟齬して、作物(さくぶつ)の累(わづらひ)となるとき許(ばか)りでなく、仮令妙(よしめう)に契合して、その間に幾分(いくぶん)かの趣味(しゆみ)を発揚(はつやう)する場合といへども、所詮(しよせん)は矢張累(やはりわづらひ)となるのを免(まぬ)かれないのである。この故に画家(ぐわか)たるものは、手品師(てじなし)めきたる策(さく)を構(かま)へずに、正真正味有(しやうじんしやうみあり)の侭(まゝ)に見(み)せる方(はう)が、何(いづ)れからいつても善くはないかと思(おも)はれる。黒田氏が先年、三面(めん)の裸体画(らたいぐわ)を出(だ)すに當り、題(だい)を比較上圭角(けいかく)のなかるべき心理学上(しんりがくじやう)に求めて、智感情(ちかんじやう)の三字を得たのも、是れが為めではあるまいか。併(しか)しそれも多少累(たせうわづらひ)となつたことは、當時識者(しきしや)の評言(ひやうげん)に依(よ)つて解(わか)つてをるのである。そこで黒田氏は、再びさる徒労(とらう)をなさず、今度は純潔無垢(じゆんけつむく)に、唯裸体画(らたいぐわ)として会場に懸けたのではなからうか。@観者感想の自由 自分が黒田氏の意中を(いちう)を察(さつ)すれば、右の通(とほ)りである。この故に観者(くわんじや)のこの画に対(たい)する感想(かんさう)は、極めて自由(じいう)であつて、少しも拘束(こうそく)される所はない。或はこの画を、某(それ)の女神が、何処(いづこ)へか出て行く前(まへ)と見るも善(よ)からう。或は帰(かへ)り来つて、暫時憩(しばしいこ)へる所と見るも善からう。或は例の下足主義(げそくしゆぎ)で、唯何(なに)とはなくいの一番として置(お)くか、それも宜(よろ)しい。或は東洋流(とうやうりう)の習慣(しふくわん)で、頭(あたま)から女神などを考(かんが)へることの出来(でき)ない人々は、唯彼(あ)の通りの婦人(ふじん)が、彼(あ)アして居る図(づ)と見るとするか、それも決(けつ)して妨(さまた)げない。この画は、何(なに)を描(か)いたものであるぞ、何々(なになに)と思(おも)へなどと、観者(くわんじや)の感想を抑制(よくせい)するが如(ごと)きは、作者自身(さくしやじゝん)も又評家も、必ずしも言ふの権利(けんり)はないのである。唯この際(さい)にも忽諸(こつしよ)に附(ふ)し難いのは、言ふまでもなく、この画は、美術の約束(やくそく)に従つて、一点醜汚(てんしうを)の所を留(とゞ)めないか。若しくは裸体画(らたいぐわ)の重なる目的(もくてき)として、人体の完全(くわんぜん)なる美(び)、又は完全に近(ちか)き美を発揮(はつき)して居るか。極めて普通平凡(ふつうへいぼん)の疑問(ぎもん)に過ぎない。然(しか)るに自分の不思議(ふしぎ)に湛(た)へないのは、この疑問が、美術社会(びじゆつしやくわい)を無事(ぶじ)に通(とほ)つて、少しの波瀾(はらん)をも、少しの反響(はんきやう)をも生(しやう)ずることなく、識者(しきしや)の悉く是認(ぜにん)してをるにも関はらず、風俗取締(ふうぞくとりしまり)とやらに多少の異論(いろん)を生じて、早く既(すで)に法(はふ)の繋縛(けいばく)を蒙つて居ることである。今会場(くわいぢやう)に就いて見れば、果して本紙(ほんし)の挿画(さしゑ)にありし如く、臍(へそ)の辺(あたり)より以下、一面(めん)の布(ぬの)が引廻されてある。この所置(しよち)の當否(とうひ)は暫く措いて、是れが為めに観者(くわんしや)は人体(じんたい)の一半、即ち又技巧(ぎかう)の一半を見て、全体(ぜんたい)を窺(うかゞ)ひ知ることが出来(でき)ない。然(し)かのみならず、芸術(げいじゆつ)の上からいへば、この一半(ぱん)は、やがて全体(ぜんたい)と認(みと)めて善(よ)いのであるから、この画(ゑ)に対(たい)するものは、眼光炬(がんくわうきよ)の如しと雖も、能く作者(さくしや)の真(しん)の技倆を品隲(ひんしつ)することが出来(でき)ないのである。自分は曩(さき)にこの画の出陳(しゆつちん)される前、作者の画室(ぐわしつ)にありて再(さい)三凝視(ぎやうし)したことがあるから、他人(たにん)に比すれば、割合(わりあひ)に自分の(おも)ふ所を述(の)ぶる便誼(べんぎ)があらうと思ふ。

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