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白馬会関係新聞記事 第6回白馬会展

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白馬会展覧会所見(五)
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| 時事新報 | 1901/11/05 | 4頁 | 展評 |
△長原孝太郎筆『自画像(じぐわざう)』 同氏の本領(ほんりやう)、よし本領(ほんりやう)といふ言葉(ことば)に病(やまひ)があるとすれば、得意(とくい)の技(ぎ)。今現に盡力(じんりよく)しつゝある技境(ぎゝやう)は、甚だ狭(せま)くない。即ち軽妙(けいめう)の風刺(ふうし)、清新(せいしん)の粧飾(さうしよく)。やがては旧式(きうしき)の陳腐(ちんぷ)なるそれらに代(かは)つて、極めて多方面(たはうめん)に流布(るふ)さるべきもの。自分はこの人の前途(ぜんと)に、少なからず望(のぞ)みを属(ぞく)して居るのである。それと同時に油絵(あぶらゑ)の方は、まだ円熟(ゑんじゆく)の手腕(しゆわん)とは認められない。この自画像(じぐわざう)は、自分の是れまで見たる他(た)の諸作(しよさく)に比すれば、中々(なかなか)に善い出来ではあるが、尚ほ腰(こし)の辺(あたり)の調子(てうし)は、むづかしく、右の手首(てくび)は、不釣合(ふつりあひ)といふを憚(はゞか)らない。全体の姿勢(しせい)も、何(な)ンだかわざとらしく、気取(きど)つて居るらしく見えて、面白(おもしろ)くない。此処は天真爛漫(てんしんらんまん)、不用意(ふようい)の裡に筆を落(おと)して、自然の▲姿(ほうし)を現(あら)はすやうにありたいのである。魚鱗(ぎよりん)を列(なら)べたるが如きバック。併しながら肝腎(かんじん)の面部は、比較的(ひかくてき)に善く出来てをる@△和田英作筆『自画像(じぐわざう)』 白馬会の秀才(しうさい)。いや何(なに)か遣(や)つて来るに違(ちが)ひないよ、と我人(われひと)ともに成効(せいかう)を期待(きたい)して居る青年画家。この自画像(じぐわざう)を初め、数多(あまた)の風景画(ふうけいぐわ)は、皆巴里遊学中(いうがくちう)にものして、わざわざ送(おく)つて来たのである。遊学中(いうがくちう)である丈けに、大作(たいさく)といふべきものは、無論見當(みあた)らないが、自画像は、画口(ゑくち)の確(しつ)かりしたる、色工合の整(とゝの)うたる、自然の形状(けいじやう)の明瞭(めいれう)に現はされたる。何(いづ)れに批難(ひなん)すべき所はない。バツクなど、特に穏(おだや)かに描き了(こな)されて、心地(こゝち)善い出来。同氏の作(さく)として、一際手腕(しゆわん)の優(すぐ)れて来たことが、認(みと)められるであらうと思ふ。他の風景画中(ふうけいぐわちう)にも、巴里の公園、夕陽など、見るべきものが少(すく)なくない@△藤嶋武二筆『景色画(けいしきぐわ)』 大作らしき、懸命(けんめい)の力を篭(こ)めたらしき額面(がくめん)のみ、空しく懸(か)けられてあつたが、今頃(いまごろ)は出品されたか、何(ど)うか。他の小品(せうひん)は、取立(とりた)てゝ評(ひやう)すべき程のものはない。中でも夏(なつ)の樹(き)などは、ちよつと面白い@△塩見競筆『天王寺(てんわうじ)の夕陽(せきやう)』 勇健(ゆうけん)なる筆付。又熱心(ねつしん)にも描き了(こな)されて、黄昏(たそがれ)の感(かん)は、能く深(ふか)く現(あら)はれてをる@△安藤仲太郎氏筆『宮詣(みやまうで)』 画面(ぐわめん)に貼紙(はりがみ)して、未成とある。未成(みせい)の画(ぐわ)に対(たい)して、兎角(とかく)の評をするは好(この)ましからぬから、暫く擱(さしお)く。若し未成(みせい)ならずば、いかにといふか。曰く、ムニヤ@△三宅克己筆『水彩画(すゐさいぐわ)』 数点(すうてん)の中、夕陽の径路(けいろ)河の落口(おちくち)など、最も善(よ)い出来(でき)である。その他にも見るべきものがある

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