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白馬会関係新聞記事 第3回白馬会展

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白馬会合評(承前)
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| 銀杏先生、△△坊 | 日本 | 1898/11/16 | 3頁 | 展評 |
◎ラフアエル、コランの作 先生曰く風景画と半身裸体の木炭画をそれから人物画と三枚だけある。これが黒田初め久米等を養て上げた仏国の大家だ。この大家の目から見ればこんな小品物はかりそめにものしたのであろうが。流石に感心させる。色彩の調和。強からず弱からずおまけに沈着して居て光彩がある。その高雅な所は到底凡作家の攀づ可らざる所だ。木炭画の方のも挙止動静自然に逼つて躍如として将に額縁以外にぬけ出さんとする趣きがある。△坊曰く 片々たるこの二三枚の画で満場の画為めに顔色なしだ。馬鹿々々しくなつてしまうじやないか。あの少女の高雅でそして■活動して居るさまはどうだ。こういふ調子の筆な■■■■(判読不能)■■■■で芸妓の精神迄写した美人画を描く連中などは。少しこのコランの高雅な所にあやかるといゝ。@◎安藤仲太郎の作 先生曰く別に評するほどのものがないから一束して評してやろう。色彩は混濁輪廓は頽壊。家屋なんどは皆倒れかゝつて居る。こんなことで空気も何もかけたものじやない。明治十九年の共進会時代の方は遥かに勝つとる。何たることだ。△坊曰く 皆心柄からサ@◎洗濯女(中村勝治郎筆) 先生曰くこの画のかけてある所などは暗くて十分に見えぬがなんでもすりこぎ二本で盥の中をかきまぜて居るやうだ。サテサテ妙な洗濯のしかただ△坊曰く モシモシ先生ありやスリコギじやありませんヨ。女の手ですぜ。ヒドイ評をする人だハゝゝゝゝ。@◎芍薬(ヰツマン夫人筆) 先生曰くこれは昨年も陳列せられたものだから別に重ねて評するにも及ばないが唯一寸不思議なのは。この画を四五間離れて見ると。其周囲に陳列してある一切の画が。自から打ち消されて独り此画に光彩の陸離たるものがあるとだ。@遺児(北連蔵筆) 先生曰く下画で随分大きい。人物も六人あらはされて居る。野辺送りの図で額縁の白木などから一体気味の悪いことだ。然し後の方の爺さんなんかはなんだかお祭にでも逢つたやうに嬉しそうに見ゑる。主眼の遺児二人も其悲しみがわざとらしうてモデル臭い。だが兎に角これだけの大作にかゝれたる勇気は感心だ。又ほんとに仕上た上でなければ評も出来ないのだ。悪口いふものにはドシドシ言して自分はズンズン描く■だ。△坊曰く とかくは出来上つた時に申そうヨ。戦闘準備おさおさ御ゆだんあるなかナ。@◎休息(白瀧幾之助筆) 先生曰く樵夫が路傍に休ふて居る図だ。これは此人の卒業成績だそうで苦心の作だといふ。なるほど全体の組立てから其姿勢なども無難で。一部々々に就て研究するとなかなか善く写生をして居る。然し欠点も少なからんのだ。第一手足を見ると此手足には骨だの肉だの血だのといふものがなくつて。何か螺細工か象牙細工のやうに感ぜられる。其踏ん張つた足が地面について居らぬやうに見えるのも変だ。それから全体の感じも尚一息も二息もと思はれるこの他色の単調で明快を欠いて居ることも欠点の一としてあげてよかろう。此作家の筆で他に十数品あるが一寸見のいゝのは多い。△坊曰く ものたりない感じがする。すでに黄昏近からんとする田舎道のけしきにや自から閑寂な感じが起るやうであるが今一息だ。なんだかものたりない。手足などは堅いくせにすべすべして居てあまりきれいすぎる。こんなやさしい手足の樵夫や百姓はないだろうヨ。それから一体の色が少しすゝけて居て気持が悪い。其よりかゞんで居る芝なども唯毛氈のやうであまりきれいだ。上の田の植物は熟した稲らしいが。これが又なんだか凝り固まつて居て妙な感じがする。苦心の作ださうだが。僕にはとんと感心が出来ない。@◎ウヰツマンの風景画 先生曰くこれも昨年既に評したものだ。然し何度見てもうまい。あの秋の並樹の日あたりなどは。なんだかほんとうに日があたつて居るやうで。不思天井を仰いで穴でもあるものゝやうに思うことがある。

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