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白馬会関係新聞記事 第3回白馬会展

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白馬会画評(二)
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| 谷津澪太、長野脱天 | 時事新報 | 1898/10/18 | 2頁 | 展評 |
秋野曰く、前回(ぜんくわい)の画評(ぐわひやう)、いづれも面白く拝見(はいけん)した、広瀬氏の海岸の図(づ)、水際(みづぎは)に突立(つゝた)つた巌(いはほ)はお説(せつ)のごとく苦情(くじやう)があるが、海士(あま)と日光の映(うつ)つて居る波(なみ)とはいかにも気(き)の利いた出来で強(つよ)いところがある、この会(くわい)の新進画家(しんしんぐわか)にメツキリ手腕(しゆわん)を上げたものがあると云ふのも詰(つま)りこの人などを指(ゆびさ)すので、善(よ)いところを睨(にら)んで居るやうだ@又曰く、和田氏の美人文を読む図、そゞろに黒田氏の湖畔美人を思出(おもひだ)させる、この人の腕前では一生懸命(しやうけんめい)に描(か)いたのだらう、グリフヰンとやらの肖像画(せうざうぐわ)に較(くら)べると衣紋の描方(かきかた)などはズツト立勝つて居るが、やはり骨格(こつかく)を忽(ゆるが)せにしたと見えて両袖の裡(うち)に腕(うで)が入(はい)つて居ない、右の足の膝頭(ひざがしら)も随分(ずゐぶん)あやしい描きざまだ@差出口、この女は眼付(めつき)がいかつくつて女性(によせい)の優(やさ)しい物思(ものおもひ)といふ風情(ふぜい)は少しもない、金の無心(むしん)でも断(こと)はられて怒(おこ)つて居るのだらう恐(おそ)れたものだ@秋野曰く、湯浅氏の景色画(けしきぐわ)、いづれも小(ちい)さいが今度のは見物(みもの)です@△藤嶋武二氏の筆。三四枚見えたが、例(れい)の納涼(なふりやう)の大物は額縁(がくぶち)の顔見世(かほみせ)だけで御本尊の画面(ぐわめん)は未到着(みたうちやく)であつたから評(ひやう)のしやうもない、この三四枚のうち稍々小手(こて)の利いて見えたのは夏の砂頭の小さい方だ、之とても藤嶋氏の筆としては曲(きよく)がなさ過(す)ぎる、只余(あま)り無い図(づ)の筆の行方(ゆくかた)だけに眼(め)に着(つ)いたまでのことだ@△山本森之助氏の筆。見渡(みわた)すところ場内(ぢやうない)を通じて天景(てんけい)の類画(るゐぐわ)が多い、且つ画題(ぐわだい)が記(しる)してなかつたので確(しか)と指(ゆびさ)すに難いが、五月雨の田植の図に隣(とな)りして三四名の農夫(のうふ)、沼田寄(ぬまたよ)りの小高い畑地(はたち)に仕事(しごと)し居る小画(せうぐわ)がある、夕雲を洩れくる底日(そこひ)が遠樹近樹(ゑんじゆきんじゆ)をかすめて立篭(たてこ)めし靄(もや)にあたりが模糊(もこ)として居る工合(ぐあい)は頗るよい、画題(ぐわだい)として写生(しやせい)として随分古(ふる)めかしくもあり有りうちの図柄(づがら)でもあるが、調子(てうし)といひ空気(くうき)、遠近(ゑんきん)の工合といひ其描(か)きこなしが落付(おちつい)て居て苦(く)が見えぬ、五月雨の田植も決(けつ)して悪(わる)くはない、色の淡(あは)きに失(しつ)するは言はずもがな、画面が少し濁(にご)ッては居るが二面とも多趣(たしゆ)だ@砂上の蜑婦はインプレツシヨニストにせよ、海岸(かいがん)は前景が細(こま)かに過ぎてうるさい、角(かど)に懸(か)けてある比較的(ひかくてき)大なる、木立(こだち)の奥(おく)の家を描いた画面(ぐわめん)は樹木(じゆもく)の幹、葉など妙(めう)に気取(きど)つた行方(ゆきかた)だがまだまだ腕が青い、却(かへ)つて写生(しやせい)の方が迫(せま)らぬ処があつて好い@△コラン氏の筆。三枚の画面(ぐわめん)は会が観者(みて)を感服(かんぷく)せしむる親切(しんせつ)で出品したものだらう、又或る意味(いみ)の不足(ふそく)を補ふ為めの呼物(よびもの)に遣(つか)つたのでもあらう、林中の乙女は内容(ないよう)があつて薄(うすつ)ぺらでない、木炭画(もくたんぐわ)も柔(やはら)かでコチつかず見て益(えき)のある画だ、景色画(けしきぐわ)は成程(なるほど)といふ丈けのものだ@差出口、成程善(なるほどい)い画だといひたい@筆者(ひつしや)の名は忘(わす)れたが肖像画(せうざうぐわ)が隣りにある、大体無難(だいたいぶなん)だが寒(さむ)い画だ@△長原孝太郎氏の筆。今回(こんくわい)の出品(しゆつぴん)にはこれと評(ひやう)するほどのものはない@秋野曰く、何故得意(なぜとくい)の滑稽画(こつけいぐわ)を出さないのだ、めざまし草の表紙裏(へうしうら)の意匠(いしやう)でチト大きいのを描(か)いて貰(もら)ひたい@△久米桂一郎氏の筆。片瀬残▲は夕間暮(ゆうまぐれ)の空(そら)の工合といひ遠樹近樹の設色(せつしよく)といひ巧(うま)く描(か)かれた、殊に空(そら)の工合は申分がない、樹木(じゆもく)の色のくすみと相俟(あひま)つて動(ゆるぎ)のとれぬ光景(くわうけい)を現はして居る、惜(を)しむべし、添景(てんけい)の人物がひよろ長(なが)くつて腰(こし)から下が洋人掛(ようじんが)かつて居る上に近接(きんせつ)せる部分の筆が細(こま)か過ぎる、慾(よく)には今すこし豪宕(がうたう)に筆行(ふでゆき)の働(はたら)きを見せて貰(もら)ひたかつた、其捉(とら)へた趣致(しゆち)は舶来雑誌の中に度々お目(め)に掛(かゝ)るところで別に称するにも足らぬが、しかもこの古意匠(ふるいしやう)を採(と)つて斯(か)くまでに人に見(み)せたのは流石(さすが)に久米氏(くめし)の腕前(うでまへ)だ、小画の方には評(ひやう)する程のものはない@秋野曰く、無論善(むろんい)い出来で落附(おちつき)も十分あるが、森(もり)のかなたの空気(くうき)には今すこし残▲の気味(きみ)があつても善からうと思ふ@△小代為重氏の筆。小代氏の作は数面(すうめん)あるが何(いづ)れも取立てゝ云ふほどのものではない、女子(じよし)の半身(はんしん)を写した図も丸で驟雨(しけ)を喰つた押画(おしゑ)のやうに受取れぬ

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