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所蔵目録2画像 『東京文化財研究所蔵書目録8 漢籍編』
   2010年3月末日現在(2011年3月30日発行)
1. 刊行にあたって   亀井 伸雄
2. 序   田中 伝
3. 口絵
1. 刊行にあたって

  独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所は、昭和5年(1930)に、前身である帝国美術院附属美術研究所が設立されてから本年で80周年を迎えます。この間、文化財に関する調査研究と関係する資料の収集は、国内でも有数の質・量となりました。これら諸資料は、企画情報部資料閲覧室で利用者に提供するとともに、ホームページ上でも所蔵情報や諸研究情報として公開しております。また、企画情報部の研究プロジェクトの一環としても蔵書目録の作成を順次進めてまいりました。
 このたび刊行いたします『東京文化財研究所蔵書目録8 漢籍編』は、2002年3月に刊行した『同1 西洋美術関係 欧文編・和文編』以来、第8冊目にあたります。
 本編では、所蔵する約12,000冊の漢籍を収録しております。その4割が、古社寺保存会委員中川忠順氏、東京美術学校校長正木直彦氏ら個人の旧蔵本が占める点も特色といえます。このうち前者は、研究所の設立時にまとめて購入、あるいは、寄贈されたもので、当研究所の蔵書群の核の一つを形成しております。一方、後者からは、1920~1930年代の日中の研究者や画家との交流をみてとることができます。さらに近年では、東京大学名誉教授鈴木敬氏旧蔵の叢書類がご遺族から寄贈されたことにより、飛躍的に漢籍類が充実を遂げることとなりました。
 今後も、文化財に関する資料の収集に努め、蔵書の充実をはかり、利用に供して行こうと存じます。皆様の一層のご理解、ご支援をたまわりますよう、ここにお願いを申し上げます。

平成23年3月

東京文化財研究所所長
亀井 伸雄
2. 序

  東京文化財研究所が所蔵する漢籍は現在800件近くに及び、冊数にして1万2千冊余を数える。ここで用いる「漢籍」の語は、単純に民国期以前に出版された古典籍のみならず、その装丁・刻版の如何を問わず、現代に至るまで刊行出版される中国古典のテキスト全般を指す。近年、中国大陸・台湾において、古典籍善本の影印本や活字翻刻された標点本が次々と出版されている。更にはインターネット上における古典籍データベースのシステムが長足の進歩を遂げたことにより、我々が漢籍資料にふれる機会は以前より大いに簡便かつ身近なものとなった。当研究所はこうした時代情勢に即しつつ、開所以来一貫して漢籍文献の収集管理を行っている。このような研究所の漢籍蔵書の基礎をなすものとして位置づけられるのが、中川忠順の旧蔵書、いわゆる中川文庫に多数含まれる漢籍である。
 中川忠順の事跡、および、その蔵書が当研究所に帰するにいたった経緯は、既刊の『東京文化財研究所蔵書目録3』序文に詳述されるためここでは多言を要しないが、その大略は以下の通りである。中川忠順(号潛光)は明治6年金沢生、明治32年東京帝国大学国史科卒業後翌年内務省に入省、古社寺保存計画調査を嘱託されるとともに、明治40年より開始された文部省美術展覧会の日本画審査委員(以後第6回まで)、法隆寺壁画保存方法調査委員(大正5年~)、帝室博物館学芸委員(昭和2年~)などを歴任、美術史研究者・教育者としての牽引を期待されるも、病を得て昭和3年3月22日逝去、享年56。中川の蔵書の大半は、その去世ほどなく、開所を間近にひかえた帝国美術院附属美術研究所によって購入された。
 一般的に、中川は岡倉天心の右腕として美術行政に尽力した人物として、また、日本美術、とりわけ絵巻物を中心とした日本絵画史研究の碩学としてその名を知られている。このことを思えば、彼が相当数の漢籍を所蔵していたことについて、いささか違和感を抱くかもしれない。しかし、中川文庫の漢籍は、その総量と種類の広範さにおいて、彼の蔵書の中で等閑視できるものではない。当研究所が中川の蔵書を購入するにあたり作成された目録(口絵3頁参考資料)によると、総計1389件にのぼる中川旧蔵の書籍中、漢籍は450件であり、全体の3分の1近くを占める。その分野は、芸術関連の書籍にとどまらず、文学・歴史・宗教・地方志など多岐にわたる。
 中川が豊富な漢籍より得た知識をいかに活かしたのかは、大正期を中心に『国華』、『中央美術』、『美術叢誌』などに発表された中国書画関連の論考や、大学での講義録においてうかがい知ることができる(注1) 。当研究所には中川が講師を担当した東京帝国大学における日本美術史の講義「宋元画ト国画トノ交渉」(年代不詳)を、当時学生であった隈元謙次郎(昭和3年卒業)が書き取ったノートが保管されている。これによると、その講義の前半部は徹底した中国絵画史研究に割かれている。ノート欄外には中川が講義中に板書したとおぼしき漢文がそこかしこに写されており、中川の中国典籍に対する並々ならぬ素養を読み取ることができる。
 中川旧蔵の漢籍の多くは、生前中川と交流があり、中川の没後、その蔵書の研究所への購入に際して仲介の労をとった東京本郷の書肆、文求堂田中慶太郎(1880-1951)より購入したものであろうことが推測される。文求堂は中国書籍を専門に商う書店として著名であり、店主の田中慶太郎は漢籍に対する博識のみならず書画にも秀で、内藤湖南・郭沫若ら日中双方の学者とも知己を得た人物である。中川と田中の交流の密接さについては、石田幹之助が若年、しばしば文求堂で中川を見かけることがあったと回想していること、また、上野直昭が著した中川の追想文に、原町の中川宅に集まる文士たちの中に「口の悪い文求堂主人」として田中が登場していることからもうかがうことができる(注2) 。 惜しいことに、中川が文求堂より入手した漢籍の全体像は、資料の欠如よりほとんど知ることができない。現在では中川文庫の漢籍中に捺された、田中からの贈与を示す「文求堂主人田慶拝贈」印(右印影)によって、その一斑をうかがうことができるのみである。
 中川文庫の漢籍を概観すると、その大半は光緒・宣統年間から民国初期にかけて刊行されたものであることが見て取れる。近代以前に中国で刊行された漢籍「唐本」と区別して「新唐本」と呼ばれたこの種の漢籍は、書誌学的な意味での善本では決してない。しかし、これらを蔵書が形成された当時の時代背景を含めて見ていくのであれば、極めて興味深い情報を提供してくれる。
 中川の漢籍蔵書成立の背景として重要なものに、日本での中国書籍を受け入れる態勢が進歩したことが挙げられる。後年、田中慶太郎が述懐するところによれば、まず大阪の書店青木嵩山堂が、上海の大書林である掃葉山房と取引を開始し、日本におけるほぼ最初となる大規模な漢籍の取り扱いを始めた。田中はこれに触発され、明治31年、当時、京都にて書店を切り盛りしていた祖父に話をつけ、上海江左書林より漢籍の直輸入を開始、さらに明治34年、上海・北京から新旧とりまぜた漢籍を取り寄せ、東京における事業を開始した。田中は新唐本を取り扱うことには大きな意義を感じていたようで、それは新唐本が日本の市場に出回ることによって、漢籍の購買層が旧来の「学者で無い年寄り」、あるいは、アカデミズムの基幹をなす「帝大の僅かな人」だけでなく、「文理大、慶應其他各大学専門学校何校の人」にまで拡大したと述べていることからも理解される 。(注3)
 また、中国における芸術書籍刊行の変化も看過することはできない。清末から民国初期、王懿栄・羅振玉らの考古学的発見によって、甲骨・金石学に対する関心は高まり、以降、関連する書籍が陸続と刊行されることとなる。興味深いのは、こうした過去の文物に対する志向と時を同じくして、中国の芸術が西洋より日本を経由して流入した「美術」という新しい概念のもとでの再編成を開始したことである。これは単純にモノとしての芸術作品のみならず、いにしえより綴られてきた芸術に対する膨大な言説をも、美術という枠組みの中で再解釈しようとする行為であった。鄧実・黄賓虹の編輯で宣統3年(1911)より刊行を開始した『美術叢書』は、まさしく上述のような芸術概念の変容を象徴するものといえよう(注4) 。中川文庫にはこうしたふたつの異なる志向を示す漢籍が豊富に蔵されており、極めて示唆的である。
 コレクションは、それを形成する主体であるコレクターの個人的な嗜好をあらわにするだけでなく、コレクターの個人的な嗜好を形成する前提となるコンテクストをも浮かび上がらせるものである。このような観点からすれば、中川文庫の漢籍は、近代日本を生きたひとりの美術史家の、開かれた中国の「知」に向けた眼差しの具現ととらえても過言ではない。


(田中伝)

注1)「画人王建章」『絵画叢誌』331、大正4年。「支那に於ける南画」『中央美術』3-7、大正6年。「王建章の作品」『筆之友』214、大正7年。「黄山谷と張即之」『日本美術協会報告』3、大正7年。
   「李龍眠と白描体 附五馬図巻に就いて(上・下)」   『国華』380~381、大正11年。
注2)石田幹之助「田中さんの片鱗」『日本古書通信』59、昭和26年。上野直昭「中川忠順先生追憶」『大和文華』21、昭和31年。
注3)反町茂雄「唐本商の変遷」『紙魚の昔がたり 明治大正篇』八木書店、平成2年。
注4)小川裕充「『美術叢書』の刊行について ヨーロッパの概念"Fine Arts"と日本の訳語「美術」の導入」『美術史論叢』20、平成16年。
 

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