黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > III 単行図書

◎(無題)  原田直次郎氏記念会 『原田先生記念帖』

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 私は原田君に対しては至つての後輩である。初め原田君に御目に懸つた時の事は、向うでは御存じなかつたかも知れないが、巴里の公使館の夜会であつた原田君は独逸で修業を卒へて帰朝しようとして、ちよつと巴里に立寄られた時であつた。鼠色の背広かジヤケツかを着て居られた。私共書生の目で見ると、綺麗な人であつた。公使館員其他の人が周囲に集まつて画論を聞いて居つた。其頃は私は未だ画を始めないか、又はやつと始めて居つたのである。それで画を以て成功して帰朝せられる人だと云ふので、少し遠くから其話を聞いて居つた。其時どう云ふ事を話して居られたか好く覚えないが、大要は独逸の名画の話で、巴里の画などを余り善く云つて居られないやうであつた。
 私が帰朝したのは二十六年であつたが、間もなく原田君が尋ねて来られた。不幸にして私は留守であつたので、其後私の方から原田君を御尋ねした。こんな風で私と原田君との交際は極浅い。今日原田君の事に就いてお話をする位に縁故が深くなつたのは、原田君の歿せられた後の成行である。それは第一原田君の親友の森鴎外君と懇意になり、又原田君の懇親であつた三宅君、和田君、久保田君と近附になつて、絶えず是等の人々から原田君の事を聞いて、とうとう生前に親しく交際したかの如くに感ずるやうになつたのである。
 原田君は、私の観察した所では、ごく正直な、そして頑固な人らしい。頑固と云ふと、少し語弊があるかも知れぬが、意志の堅い人で、自分の思ひ込んだ事は曲げることを欲しない人であるらしい。画に就いては如何にも思想の高い人で、又思想と云ふことをば技術よりも余程重く見て居つた人である。それ故に製作物も自から思想の方に傾いて居つて、技術の方は次になつて居るかと思ふ。先生の説を病中に御尋ねした時に聞いたことがある。それは画は画家が拵へると云ふのである。写生をしてそれを其侭画にするのは本当の画でない。写生は研究の為に見取図を作るのである。材料である。それ丈では何等の価値もないと云ふやうなお説であつたと思ふ。それであるから独逸留学中の稽古画は中々深みのあるもので、技術も頗る非凡である。其割に先生の得意とせられる製作物では、技術がそれ程にないやうに思はれる。これは想と云ふことに重きを措かれて、モデルなどを使用せずに、それ迄に習得した所の技倆を利用して、人物風景、総てのものを想像して作られたからである。
 で、写生した物は手習の反古のやうに思はれたらしい。其証拠には留学中の写生作品と云ふやうな物を、措気なく人に与へてしまはれた。聞く所に依れば、本郷の宅を引き払つて神奈川の方に転居せられた時などには、総ての手許に残つて居る研究画などを人にも与へ、又木炭画などを焼き棄てられたと云ふ事である。
 若し此人が短命でなかつたならば、此想と云ふ側から、必ず面白い作品が沢山出来て、我国に一種の理想画が発達したことであらうと思ふ。併し原田君の命はごく短いものであつた。製作に尽された健康時代は二三年であつたらうと思ふ。
 扨想を主にして、図と云ふものを自分で作り出すと云ふ考で居られた為に、病気になつても絶えず製作して居られた。腰が立たないで寝て居ながら、自分の体の上に画布を吊るして筆を執られた。是が若し想の人でなくて、我々のやうにちよつとした、見て感じの起つた物を画くのなら、こんな事は出来ない。是は先生が想に重きを措かれた一つの得であつたらうと思ふ。
  (原田直次郎氏記念会 『原田先生記念帖』 審美書院 明治43年1月)
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