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◎絵画の将来  石川松溪 『名家訪問録1』

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 将来に於ける我が「日本の絵画」はドウ云う風になつて来るかと云ふお尋ねですが、日本画と云ふことは結局日本で出来る絵画と云ふ事に解釈して御返事をする、他はありませぬ、日本には今日のところでは色々な種類の画が這入て居つて、日本固有の画というものにも外国画の日本化したものが多く、其発達の時代や場合によつて随分変つた種類が出来て居る其の他に近来又別に西洋の新らしい書方の画も這入て来た、其の新らしい書方と云ふものの中には日本では新らしいが外国抔では随分古い書方のものも有る、かう云ふやうに今日では画のサウ沢山の種類が日本に雑居して居ります、是れを総括した日本画という名称を附けて見ると今では少し無理な様だ、なぜなら在来の所謂日本絵なるものと比較的新らしい油絵の如きものとは大に其趣を異にして居ります併しそれには書方と云ふものは違つて居ても日本で出来ると云ふ即ち日本人の頭脳から出ると云ふ事柄に就て、油絵も遂に日本化させられて一種又違つた日本風と云ふものになることは極まつて居る、夫で今日私に特にお尋ねになるのは其の色々種類のある日本画の中の油画の事に就て私が数年来研究をして居るものですから、何か考へがありはしまいかと云ふ所から、お尋ねになることと思ひますが、事が未来の事に関係するのでございますから、私の御返事も云はゞ空想に過ぎないのです、サテ其の空想を二の方面から区別して見る事が出来やうと思ひます、一方から云へば一般の好みと云ふものが絵画の上に顕はれて行く事が明らかですから、其の好みと云ふものがドウなるか、即ち日本と云ふものがドウなるか、日本画と云ふものがドウなるかと云ふ事。又他の一方から云へばドウ云ふ風になつて行つたならば宜いだらうかと云ふ此の二つでありますが、始めの方の事は私が推測してお話をした所で余りぼんやりした話であつて、サウ云ふことを申上げても何にもならぬですから、只第二の事に就てお話をしたいと思ひます。
 第二の事に就ては私がお話する事が出来やうと思ふのは、日本画がドウ云ふ風に為つたら宜からうかと云ふことで私の個人の考へで以て何とも云ても差支へはないけれども出たらめを云ふ積りではない、予ていくらか考へて居ることを申上るのであります、併しドウ云ふ風にしたなれば宜しからうかと云ふ事はつまり私一個人の好みでありますから其積りで聴て頂きたい。
 好みと申してもすきといふ訳ではなく、云はゞ意見の意味です、たとへば西洋画には斯う云ふやうな風の所があるから、其の所が日本画の斯う云ふ所に加はつたならば、先づ一寸斯んな風のものになるだらう、サウ云ふ風のものが出来れば、日本風の絵画即ち新に日本画として世に出るのには都合が能くはあるまいかと、これ丈の区域でお話を致します、それで日本の在来の画にも前にも云ふた通り沢山の種類があります、私は極く経験の少ないものであるし今日迄の時日は主に洋画の中の油画の研究に潰したのですから、在来の日本画の事も能く知つて居ると云ふ訳でない、併ながら日本に生れて、又御承知の通り画界に生活をして居るものですから、朝夕に見聞することが日本在来の絵画に関係したことが多く、従つて日本画に就ても幾分か知ることが出来ました。
 それで極く浅薄な智識ではありますが、其の知識を絞つて考へて見れば、日本の今迄ある絵画に極く宜い所と云ふ点が沢山見当りまして、夫から又全然お話にならない悪い所も一つ二つある様に思ひます、そこで西洋画の方はドウであるかと云ふと、之れは私が本気に研究して居る者の事でありますが、之れとてもいゝ所計といふことは出来ず、だと云つて日本に適する点は少しもないと云ふことは勿論云へません。日本の文明は有形無形いづれも段々欧羅巴風の文明に変つて来ますから今暫くたつた後にはどんな物でも、欧羅巴の物を持つて来て其の侭日本に適するやうな事になるかも分りませんが先づ今日の所で見れば、日本画の中では斯う云ふ点は西洋風に変つても宜からう、又西洋風の此の点は日本画流にやりたいといふ所が有ります、私の見た所では在来の日本画で最も宜く出来るのは花鳥です、全体、花や鳥と云ふものは極く軽く手際よく書かなければ活気がない、その活気のある花鳥に一層の面白味を附けるのは何かと云ふと色の配合である、今爰に仮りに花鳥丈を挙げたのであるが一番花鳥が目立つから特に花鳥を引出したので総て日本画では運筆の軽く巧なことゝ色彩の宜いと云ふこととの、此の二つは確かに長所だと思ひます、日本画が装飾的美観を備へて居る事も前に述たる長所が有る為だと思ふ、此の日本画の長所が殊に西洋画を研究して居る私の眼に就いて著しく宜いやうに思はれるのは、丁度西洋画の短所とでも云ふ可き点であるから、一層に眼に就たと云ふても宜いかも知らん、又西洋画にも比較的面白くない点がある事は知れたことだが西洋画にも亦日本画の及ばない所の宜い所もある、其の宜い所は主に何所にあるかと云へば、或る考へを一つに纒めて顕はすと云ふ事が西洋画の最も特長である、これは少しく精神的であるけれども、技術と云ふ方の長所と云ふ可きもある、それは物の形相を実物に依て確実に画き出すことである、サテ考へをば画面に一つに纒めて現はすと云ふことは、日本画には全くないかと云ふに、さうではない、只西洋画に於けるが如く多くない、又一般に上手ではない、夫れですから之れは特に西洋画の長所と云はなければならぬ、夫れで今迄に出来た日本画の中で、非常な名画として珍重す可きものも何方かと云ふと技術の上からの名画であつて、それが何の考へを顕はして居るものかと云ふ事は少ない、事によると考へと云ふものはまるでないのも有るやうです。
 其処で人物を以て嬉しいとか悲しいとか云ふ事を画くとか風景にしても、朝の早い時の空気の極く清いやうな気持、日中の眩しい光景、夕方の万事静まつて行く所の姿と云ふやうなものは、日本画には案外少ないやうである。朝霧夕霧の如きものはあるやうにも思はれますが、それは主に朝晩と確かり考へを極めて画く訳ではなくして、墨色がボーツとして居るが為めに連想して幾分かの感を起さしめるもののやうです。兎に角楽みや苦しみを全く心理的に画き現はしたものは私は未だ見た事はない、歴史的に実地の様子や又地理的に風景などを画いたものはありますけれども、其の実際の事をば実際らしく現はすと云ふことに就いても西洋画に比較すればどうも劣る様に見えます、故に一つの考へを確かり画き現はすといふことと物の形を正しく写すと云ふ事に就ては日本画の得意としない所で、西洋画は特に斯う云ふ点に適して居るものであります。
 物の形相を実物に依つて確実に画き出すと前に申しましたが、確かな形に物を画き現はすことは西洋画の方の宜い所で西洋画に取つて最も必要な条件である、物の形が確かに出来て居るから直ちに喜ばしいとか歎かはしいとか云ふことを人に感じさせる事が出来る道理です、云はゞ西洋画は横文字と同じことで言葉の代りをする事が重な役目です、日本画の方は書のやうなもので筆力を見て上手に出来て居るとか勢ひが有るとかいふ点で味ふことになる。
 以上にお話致した如くに和洋いづれも長所短所が有りますが今本邦に於ては此の二の違つた種類の画が並び行はれて居るやうな姿である、併しこのまゝでいつ迄も続く事は出来まいと思はれる、現に日本画家の側で何か意味の有る画を拵へやうと試みて居るものもある、尤も今日の所では余り成功したとは云へない、凡そ何かの意味を画き出すには先づ物の形を確に画くことをしなければならない、それをやらないで話をしやうと云ふのだから六かしいのだ、然し、処々の展覧会に西洋の画と同じやうな画題の画が沢山見えるのを以て考へても、もう今日は已に只筆力丈では満足の出来ぬ時勢だという事は分る、夫から又一方の西洋画家の方はどうだと云ふに、之はまだまだ在来の日本画と肩を並べると云ふやうな立派なものではない、今日は全く稽古の時代に属して居る、今迄日本に行はれて居つた画は総て物の形と云ふものが粗雑にやつてあると云ふことと、西洋画から形を確に画くといふ事を除く時は人の体から骨を抜いて仕舞つたやうなもので有ると云ふことは明かで有るから、西洋風の技術を研究する人達は先づ形を確に画くことに向つてs大いに研究して居る、併し未だ本邦に於ては前に述べたやうな長所を充分備へて居る所の西洋画を見ることは出来ない。(未完) (石川松渓編 『名家訪問録』 第一集 金港堂 明治35年6月)
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