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白馬会関係新聞記事 第9回白馬会展

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絵画展覧会瞥見記(其一)
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| 掬汀 | 萬朝報 | 1904(明治37)/10/03 | 3頁 | 展評 |
售(う)らんが為(ため)に将(は)た食(く)はんが為(ため)に急作(きふさく)したる芸術品(げいじゆつひん)に碌(ろく)なものゝ出(で)た例(ためし)ハ多(おほ)くない、尤(もつと)も先(ま)づ活(い)きねバならぬ必要(ひつえう)からにハ相違(さうゐ)なからうけれど、今(いま)の多(おほ)くの美術家文学者(びじゅつかぶんがくしや)が争(あらそ)ふて俗悪(ぞくあく)なる戦争物(せんさうもの)の製作(せいさく)に走(はし)り、「自分(じぶん)ハ絶対(ぜつたい)に戦争美術(せんさうびじゆつ)を否認(ひにん)するものでハない)浅薄見(せんぱくみ)るに足(た)らざる物(もの)を作(つく)つて自(みづか)ら侮(あなど)る卑(いや)しき心術(しんじゆつ)の看板(かんばん)を絵双子屋雑誌屋(えざうしやざつしや)の店頭(てんとう)に掲(かか)げ、藻(も)に住(す)む虫(むし)の我(われ)と我(わ)が芸術上(げいじゆつじやう)の生命(いのち)を切詰(きりつめ)て居(ゐ)ると云(い)ふ今(いま)の場合(ばあひ)に、「白馬会」の諸子(しょし)が平素(いつ)に渝(かは)らぬ態度(たいど)を以(もつ)て苦心(くしん)の作(さく)を世(よ)に示(しめ)したのハ、芸術家(げいじゆつか)の体面(たいめん)を重(おも)んずるものとして賞(ほ)むべき価(あたひ)が慥(たしか)にある@作品箇々(さくひんこゝ)に対(たい)する所見感想(しよけんかんさう)を掲(かゝ)ぐる事(こと)ハ紙面(しめん)の制限(せいげん)が許(ゆる)さぬから、それハ他日述(たじつのぶ)べき機会(きくわい)に接(せつ)するのを待(まつ)として■(ほん)の瞥見所感(べつけんしよかん)を記(しる)して見(み)ると、自分(じぶん)ハ何(なに)よりも先(ま)づ画家(ぐわか)の技術(ぎじゆつ)の著(いちじる)しき変化(へんくわ)を示(しめ)して居(ゐ)るのに愕(おどろい)たのである、いま朦気(おぼろげ)に残(のこ)れる記憶(きおく)の糸(いと)を辿(たど)つて之(これ)を一昨年(さくねん)のものに比(ひ)し、更(さら)に昨年(さくねん)のものに較(くら)べて見(み)ると其間(そのあひだ)にハ非常(ひじやう)な変化(へんくわ)が認(みと)められ、而(そ)して其変化(そのへんくわ)の度合(どあひ)ハ決(けつ)して計算(けいさん)し得(え)られぬものなるにも拘(かゝは)らず、際立(きはだ)つて大(おほ)きな変化(へんくわ)の影(かげ)の明(あき)らかに認(みと)め得(え)られたるのハ取(と)りも直(なほ)さず画家(ぐわか)の進歩(しんぽ)の痕跡(こんせき)が我等(われら)の脳底(のうてい)に印銘(いんめい)して居(ゐ)る証拠(しようこ)である。@三百余点(よてん)の出品中最(しゆつぴんちうもつと)も人目(ひとめ)を惹(ひ)くハ和田英作岡田(わだえいさくをかだ)三郎助両名(らうすけりやうめい)の作(さく)と藤島武(ふじしまたけ)二長原孝太郎(ながはらかうたろう)二家(か)の出品(しゆつぴん)であるが、之等(これら)の作画(さくぐわ)ハ人目(ひとめ)を牽(ひ)く力(ちから)の大(だい)なる丈(だ)け其丈(それだ)け大(おほ)きな進歩(しんぽ)を語(かた)つて居(ゐ)るものだ、中(なか)にも和田岡田(わだをかだ)の両名(りやうめい)ハ麗明雅醇(れいめいがじゅん)の極(きよく)を得(え)やうとして居(ゐ)る仏国画家(ふつこくゞわか)の薫化(くんくわ)を受(う)け来(きた)り偏(ひと)へに新(あた)らしい方面(はうめん)の発展(はつてん)を心掛(こゝろが)けて居(ゐ)るのだから、其進歩(そのしんぽ)の著(いちじる)しいのハ言(い)ふまでもないが、従来以太利(これまでいたりー)の絵(ゑ)に見(み)るやうな沈静(ちんせい)な物(もの)を画(か)いた人達(ひとたち)までが、此(この)二家(か)に接近(せつきん)しやう言換(いひかふ)れバ仏蘭西流(ふらんすりう)にならう)として居(ゐ)る傾向(けいかう)を現(あらは)して居(ゐ)るのハ、最(もつと)も注目(ちうもく)すべき点(てん)であらう、以上(いじやう)四家(か)の外黒田清輝(ほかくろだきよてる)の肖像(せうざう)を始(はじ)め三宅克己(みやけこくき)の水彩小品湯沢一(すゐさいせうひんゆあさ)郎小林鍾吉白耳義人(ろうこばやしゝようきちベルジユームじん)ウヰツマン夫人(ふじん)の作品(さくひん)などが夫(そ)れ相応(さうおう)の光彩(くわうさい)を保(たも)つて居(ゐ)る@概(がい)して言(い)へバ何(いづ)れも華(はな)やかで美(うつ)くしい、寂(さび)れた芸苑(げいゑん)に時(とき)ならぬ花(はな)を咲(さ)かせた盛観(せいくわん)ハ、久(しさ)しく俗悪(ぞくあく)なる戦争絵(せんさうゑ)に打殴(ぶちこわ)された人(ひと)の感興(かんきよう)を盛返(もりかい)し得(え)させるのであるが、永(なが)く伝(つた)ふるに足(た)るべき物(もの)のないのハ相変(あひかは)らずである、尤(もつと)も之(これ)ハ絵画界(くわいぐわかい)ばかりでない、詩歌小説(しいかせうせつ)の類何(るゐいづ)れも此憾(このうら)みを免(まぬが)れぬので、今(いま)の思想界(しさうかい)の潮流(てうりう)が全(まつた)く方向(むき)を変(か)へぬ以上(いじやう)ハ已(や)むを得(え)ぬ現象(げんしやう)であらうけれど、言語文字(げんごもんじ)の芸術(げいじゅつ)ハ色彩(しきさい)の芸術(げいじゆつ)よりハ迢(はる)かに進(すす)んで居(ゐ)る、自分(じぶん)ハ前途最(ぜんともつと)も有望(いうばう)なる此会(このくわい)の画家諸君(ぐわかしよくん)に対(たい)して、もう少(すこ)し深刻(しんこく)なる研究(けんきう)を強(し)ひねバならぬのだ@次(つ)ぎハ国画会(こくぐわくわい)の催(もよほ)しにつくる「■■■■■」であるが之(これ)は此春(このはる)から二度目(どめ)の会(くわい)で、画家(ぐわか)ハ矢張(やは)り国観竹坡周山広湖(こくゝわんちくはしうはくわうこ)の面々(めんめん)である、最近(さいきん)の戦報(せんぱう)や軍人(ぐんじん)の逸話(いつわ)などを材料(ざいれう)にしたのハ前回通(ぜんくわいとほ)りであるが、今度(こんど)ハ何時(いつ)も露西亜人(ろしあじん)のみの負(ま)けて居(ゐ)る絵(ゑ)ばかりでなく、日本人(にほんじん)の殺(ころ)されて居(ゐ)る処(ところ)を画(か)いたのが変(かは)つて居(ゐ)るところである、併(しか)し■山沖(■■さんおき)の海戦(かいせん)に敵(てき)の艦隊(かんたい)が不動(ふどう)の形(かたち)を執(とつ)て戦(たゝか)つて居(ゐ)るところだの、砲口(はうこう)が弾着点(だんちやくてん)と方向(はうこう)を異(こと)にして居(ゐ)るやうな物(もの)を画(か)いて、臆面(おくめん)もなく列(つら)ねたのハ誠(まこと)に見苦(みくる)しい、随(した)がつて此等(これら)の不具(ふぐ)なる作品(さくひん)の為(ため)に、我等(われら)ハ勢(いきほ)ひ画家(ぐわか)の思考(しかう)の浅薄(せんぱく)なると其研究(そのけんきう)の粗雑(そざつ)なるを嗤(わら)はねバならぬ事(こと)になるので、画家(ぐわか)に取(と)つて誠(まこと)に忌(ゆゝ)しき一大事(だいじ)と言(い)ふものである、国画会(こくぐわくわい)の諸氏(しよし)ハ今(いま)に於(おい)て大(おほ)いに反省(はんせい)せねば遠(とほ)からず世(よ)に棄(す)てられて仕舞(しま)ふであらう@改(あらた)めて忠告(ちゆこく)するが焔硝(ゑんさう)の煙(けむり)と血(ち)の色(いろ)ばかりを見(み)せずとも今少(いますこ)し絵(ゑ)になる物(もの)を画(か)いたら如何(どう)だ、悲壮(ひさう)の感(かん)と言(い)ふものハ形態(かたち)を打毀(うちこは)したものゝみで得(え)させられるものでハない

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