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白馬会関係新聞記事 第5回白馬会展

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白馬会展覧会(はくばくわいてんらんくわい)一口評(くちひやう)
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| しらうと | 二六新報 | 1900/10/20 | 1頁 | 展評 |
△三宅克己氏の「春(はる)」は、前景(ぜんけい)の麦畑(むぎはた)が善(よ)く出来(でき)て居(ゐ)る、併(しか)し霞(かすみ)を帯(お)びた樹木(じゆもく)を遠景(ゑんけい)とし、霞(かすみ)を帯(お)びた空(そら)をベツキとした処(ところ)、樹木(じゆもく)は一様(やう)の鼠色(ねずみいろ)、空(そら)は一様(やう)の灰色(はいいろ)であつて、樹木(じゆもく)の種類(しゆるゐ)、空(そら)の部分(ぶぶん)によつて色(いろ)を異(こと)にせぬのは瑕(きず)である△同氏(どうし)の「初秋(はつあき)」は用筆傅彩共(ようひつふさいとも)に緻密(ちみつ)であるが、着色写真(ちやくしよくしやしん)としか見(み)えない、雅致(がち)を欠(か)いて居(ゐ)る△中沢弘光氏の「松下(しようか)のいなむら」は、松(まつ)の葉(は)を一針(ひとはり)一針数(かぞ)えて画(か)いたやうな緻密(ちみつ)なもので、傅彩(ふさい)は随分行(ずゐぶんゆ)き届(とど)いて居(ゐ)やうであるが海(うみ)の色(いろ)に変化(へんくわ)が無(な)い、雅致(がち)を欠(か)いて居(ゐ)ることは三宅氏の「初秋」■■■ある@△矢崎千代治氏の「合(あは)せ鏡(かがみ)」は、■■■■に少しもエキスプレツシヨンが無(な)い■■■が合(あは)せ鏡(かがみ)をするのに、満足(まんぞく)して居(ゐ)るとかヂレて居(ゐ)るとか喜(よろこ)んで居(ゐ)るとかを、目付口元(めつきくちもと)などに表白(へうはく)しないでは、何等(なんら)の興味(きようみ)も無(な)い訳(わけ)である、左様(そん)な画(ぐわ)なら美術(びじゆつ)と言(い)へない、同氏(どうし)の「教鵡(けうむ)」も、鸚鵡(あうむ)に教(をし)えて居(ゐ)ると云(い)ふよりは鸚鵡(あうむ)を見(み)つめて居(ゐ)るのである、併(しかし)し題目(だいもく)を除(の)けて観(み)れば先(ま)づ上出来(じやうでき)の方(はう)である△出口清三郎氏の「花売(はなうり)」は位置(いち)が判(わから)ない、花(はな)を買(か)つて居(ゐ)る女(をんな)は窓(まど)から覗(のぞ)いて居(ゐ)るのであるが、窓(まど)の内(うち)は座敷(ざしき)でもなく直(すぐ)に庭(にわ)が見える、それならば窓(まど)の内(うち)が椽(えん)で中庭(なかには)になつて居(ゐ)るのかと云(い)ふに、■の形(かたち)は室(へや)について居(ゐ)る窓(まど)のやうである(しらうと)

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