東京文化財研究所が所蔵する欧文図書の中には、当研究所の前身である美術研究所の職員であった尾高鮮之助(1901-1933)の蔵書が多く含まれている。尾高は、昭和3年(1928) 5、6月頃に美術学校附属の美術研究所に勤め始めており、昭和5年(1930)に正式に開所する美術研究所の最初期のスタッフとして、主任(所長)矢代幸雄をたすけて活躍した研究者であった。
尾高は、明治34年(1901) 5月30日に朝鮮に生まれ、大正11年(1922) 3月に第一高等学校を卒業、さらに大正15年(1926) 3月に東京帝国大学文学部哲学科(美学)を卒業した。「卒業論文はシラーの美意識か何かに関する、恐ろしく理論的な問題に就いて書いた」(註1)ものであった。昭和2年(1927)10月頃には、当時美術研究所員であった田中喜作が「熱心に美術研究の事に就き相談相手に」(註2)なっており、浮世絵の研究に興味を持っていた。当時、尾高は澤村專太郎が準備を進めていた大阪市立美術館に誘われ、そこに勤める考えも持っていたが、昭和3年(1928) 5月19日付の織田正信宛ての手紙によれば、この頃に美術研究所に勤務する決心をしている。「僕は大阪は断る事にほゞ決心しました。これからは上野に毎日足を運ばねばなりますまい。支那の絵画彫刻を担当するとなると漢文を学ばねばならないので、いさゝか辟易して居ます。印度のアジヤンターあたりもやらねばならないでせう。」(註3) 昭和3年6月に、当時朝鮮の京城に住んでいた兄の朝雄(1899-1956、法哲学者)に宛てた手紙(註4)によれば、矢代が尾高にふりあてた担当は、中国とインドの絵画彫刻その他全般の美術であった。尾高自身はインドの美術研究は相当に苦手と感じ、中国美術研究には大いに興味を抱いていると書いている。一方で、その手紙には浮世絵研究に対する未練も記されている。「僕としても全くいま浮世絵の研究を中断する事は不可能です。(中略)僕は浮世絵に就ては此処までやりかけた以上、研究所以外の勉強としても田中氏と共にやつて行き度いと思つて居ます。」
学者として立とうと決心した尾高ではあったが、まず経理部に配属され、つづいて資料部に行って、図書整理の任に当たった。矢代は次のように記す。「尾高君は当時未だ図書整理にずぶの素人であつただけ、白紙状態で帝国図書館東大図書館東洋文庫を見て廻り、苦心研究の結果、研究所の原則を立てゝくれた。」(註5) 当研究所の図書整理の基礎を作ったのは、他ならぬ尾高であったことがわかる。
調査、研究も着々と進み始めたようで、昭和5年(1930)11月9日から12月12日まで朝鮮と満州を旅行し、旅順関東庁博物館や朝鮮総督府博物館などで調査を行ったのにつづいて、昭和6年(1931)10月16日から翌年10月14日まで、美術研究を目的として、東南アジア、インド、パキスタン、アフガニスタン、欧州などを訪れ、詳細な日記5冊、調査ノート1冊、写真フィルム約2千枚、そして数千フィートの16ミリフィルムなどを残した。この旅行は、当時の同僚である和田新の西アジア調査旅行に刺激され、早くから企画されていたものであったが、岳父湯原元一の病が気がかりで、実施が遅れていた。また、昭和7年(1932) 米国に赴く矢代の要請によって、予定を繰り上げて帰国した模様である。
帰国後、現地調査の成果の整理やインド・中国美術の本格的な研究に取り組もうとしていた昭和8年(1933) 3月23日、急性肺炎のために33歳で逝去した。訃報を米国で受け取った矢代は、あまりにも早い尾高の死を深く悼んでいる。
尾高が本の収集に熱心であったことは、矢代も、「仏教美術の源流に興味を持ち出して、多数の高価な書物を買ひ集め、非常な勉強振りを発揮し始めた」(註6)と書いており、尾高自身も、先に紹介した兄朝雄宛ての昭和3年6月の手紙に、「先日丸善に出かけて支那美術に関する参考書をおびただしく買ひ集めました。」と記している。今、尾高文庫の目録をながめると、一方で浮世絵関連の本を多く含み、また一方で日本からインドまでの絵画彫刻を網羅的にそろえており、まさに尾高の研究者としての夢や野心が一緒に見えてくるようである。尾高の蔵書は、遺族によって研究所に昭和12年(1937) 7月に寄贈され、尾高文庫と総称されている。
尾高の仕事の大方が、彼の没後にまとめられ、公刊されていることは幸いである。尾高の手紙、日記、作文、体験録、旅行記等から成る遺稿集は、弟である邦雄を編者として、『亡き鮮之助を偲ぶ』の書名で昭和10年3月23日に刊行された。また彼の七回忌に当たる昭和14年(1939)には、先述した昭和6年から翌年にかけての旅行日記が『印度日記-仏教美術の源流を訪ねて-』(刀江書院)として刊行され、2千枚近い写真フィルムのうちの約1200枚を使用して、『印度及南部アジア美術資料』(註7)が美術研究所から刊行された。なお、『印度日記』を発行した刀江書院は尾高の長兄豊作が起こした出版社である。その他、奥付を持たないガリ版刷りの冊子であるが、大正11年から昭和7年までの尾高の手紙をまとめた『故 尾高鮮之助君の手紙』(挿図)も刊行されている。
(美術部 中野 照男)
(註1) 矢代幸雄「尾高君の追憶-序に代えて-」『印度日記-仏教美術の源流を訪ねて-』(尾高鮮之助著 刀江書院 昭和17年7月) 5頁
(註2)「年譜」『亡き鮮之助を偲ぶ』(尾高邦雄編 昭和10年3月 非売品) 496頁
(註3) 織田正信宛 昭和3年5月19日付 『故 尾高鮮之助君の手紙』38頁
(註4)「東京(麹町上六番町)より朝鮮京城在住の兄[朝雄]宛 昭和3年6月」(註2) 267~274頁
(註5) 矢代前掲文章(註1) 8頁
(註6) 矢代前掲文章(註1) 6頁
(註7)『美術研究資料第7輯 印度及南部アジア美術資料』(美術研究所 昭和14年3月)
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